どうか、迷わない強さを。
*クレスツェンツが王妃になる前の話
*クレスツェンツ…19歳
*アヒム…18歳



「クルマン先生、アヒムはどこへ行ったかご存知ありませんか?」
 クレスツェンツが覗き込んだ部屋では、数人の医師が夕食と共に患者達に出す薬を調合している所だった。邪魔をしてしまったなと後悔したが、彼女に呼ばれた壮齢の町医者は気を悪くした様子もなく、え笑いながら天秤から顔を上げた。
「仮眠室ですよ」
「ありがとうございます」
 簡潔に遣り取りを済ませると、クレスツェンツはエプロンを翻して医師達のもとを離れた。向かう先は勿論決まっている。仮眠室にいる、と言うことは、アヒムはまた眠たそうな顔をしてこのアマリア施療院へやって来たのだろう。少し休んでから、夕方以降の治療や看護を手伝うようにと言われたのだ。
 そう言えば、大学院では進級試験の時期かも知れない。勉強が大変な時くらい、“こちら”の手伝いは休んでも良いのに。けれど多分、彼が施療院に姿を見せないと、クレスツェンツは後々ぶつくさと文句を垂れてしまう。決して無理をさせたいわけではないのだが……。
 ついさっき、薬品庫で後ろ姿を見かけたアヒムは、既に医師達の仮眠室でぐっすりと寝入っていた。もともとなまっちろくて貧弱そうな少年だと思っていたが、今日は一段と肌が白くくすんで見えた。寝不足なのがただ見て分かる。血の巡りも悪そう。
 クレスツェンツは、アヒムに返したかった本を彼の枕元にそっと置いた。解説して欲しい箇所もあったのだが、アヒムを休ませる方が大事である。彼が起きるのを待っているだけの時間は無い。日没までには、クレスツェンツは屋敷へ帰らねばならないからだ。こんなこともあろうかと、解説を要求するメモを挟んでおいた。
 以前、落ち葉を栞代わりに使っていたのを挟んだまま返したらひどく怒られ、クレスツェンツもそれくらいで腹を立てるなと怒り、喧嘩になったことがあった。それ以来、アヒムは必ず返ってきた本に異物が挟まっていないか確かめている。きっとメモにも気づいてくれるだろう。
 けれど解説を聞けるのは、明日ではなく、恐らくひと月ほど先になる。
 昨日正式に、クレスツェンツの父のもとへ王家から使いがやって来た。国王は、数年前に王太子時代から連れ添った正妃を亡くしており、後添えとして、崩御した王妃の姪に白羽の矢が立っていた。
 前々から決まっていた話だ。クレスツェンツは、国王の二人目の正妃として迎えられる。周囲の者の多くはそのことを知っていた。勿論アヒムも。ただ一応、その時期が決まったことを報告しておきたかった。明日から少なくともひと月は、輿入れの準備で忙殺されることになるだろうから、出来れば今日の内に、この大切な友に。
 本を置いたクレスツェンツは立ち去らずに、ベッドの縁に頬杖をついてアヒムの青白い寝顔を眺めた。
 クレスツェンツの少女時代は、今日で終わりを告げる。いくら今日まで子供であったとは言え、王家へ輿入れする話がありながら自らの手を血や汚物で汚して、怪我人や病人の世話をするなどというお転婆を許してくれていた父には、感謝せねばならない。おかげでクレスツェンツは、公爵家の屋敷や王城の窓辺からは見えぬ、苦しくも美しい世界を見ることが出来た。
 政治家になろう、とクレスツェンツは思う。ただの国母ではない、民のために権力を振るい働く政治家になろう、と。そして、教会の慈善事業に過ぎない全国の施療院を、王家の事業、そして民の事業へと変えていくのが目標だ。人々が自然と助け合う仕組みを、この国に作り上げてみせる。
 そう思うことが出来るようになったのは、ぼんやりと思い浮かんでいたクレスツェンツの夢を、真剣に聞いてくれた友人の存在があったからだ。
 クレスツェンツは、これからそれを実現しうる地位と力を手に入れる。まだまだ足りない知識は多く、理解者も少ないけれど、王妃になることで、夢は到達可能な目標になる。
 ただそのための代償も大きい。今までのように、施療院に集う人々とは対等ではいられなくなる。クレスツェンツは、公爵家の姫君という肩書きを持ってはいたが、やはり臣下の娘に過ぎず、この国においては支配を受ける者だった。王妃になれば、そうはいかない。クレスツェンツは治める者、支配する者になる。埋めようのない身分の差が、だいすきな仲間との間に生じるのだ。
 その対価を支払って手に入れる力を、絶対に無駄にはしない。そう決意するためには、どうしても、アヒムに伝えたかった。この国に新たな仕組みを作るために、わたしは王の妻になると。
「馬鹿め、こんな時になんで寝ている……」
 アヒムなら、力強く頷いて送り出してくれただろう。きっと、多分。
 でも、もしかしたら。
 クレスツェンツは、アヒムの前髪にするりと指を絡めた。真っ黒で艶のあるきれいな髪で、中途半端な暗い赤毛のクレスツェンツは、ちょっとだけ嫉妬する気持ちもあったくらいだ。
 形の良い眉。少し隈の浮いた目許。頬。唇を、視線と一緒に指で撫でる。正しくて生意気で憎たらしいことばかり言う唇だ。でも、クレスツェンツの夢を「素晴らしい」と、世辞ではなく心からの賛同で言ってくれた――
 身を乗り出し、睫毛が触れ合うのを感じながら、彼女はそっとアヒムの唇に自分のそれを押しつけた。
 彼が目を覚ましたらどうしよう、という、期待と不安が一気に押し寄せる。長い長い一瞬だった。
 目を覚ましたら、アヒムはどんな反応をするだろう。狼狽えるだけだろうか。何か言ってくれるだろうか。例えば、「行かないで」、と。
 いや、あり得ない。彼は正しいことしか言わない。クレスツェンツがどんなに娘らしく目を潤ませて泣こうとも、彼はクレスツェンツを宥め、諭し、“ただの娘”から“王家へ嫁ぐ公爵家の娘”に戻して、残酷なほど優しく背中を押すだけだ。
 初めから分かっているから、クレスツェンツは少女である最後の日に、アヒムと話がしたかった。強い決意を秘めたクレスツェンツを、或いは愚かで弱い娘のクレスツェンツを、彼の言葉で送り出して欲しかったから。
 しかしその我が儘は叶わなかった。アヒムは目を覚まさない。これまでだ。
 クレスツェンツはすっくと立ち上がり、無言で寝返りを打った友人を見下ろして、呟くように言った。
「お前に知らせるのは、一番初めでなければ一番後だぞ」
 そしてそれを告げに来る時、クレスツェンツに与えられる身分故に、今日までと全く同じ友人であることは出来ないだろう。
 自分の人生の中で、一つの時代が終わる。お転婆に過ごしてきた公爵家の娘は、今日限りで死ぬ。
 次に会う時、生まれ変わった自分が、今よりもっと胸を張れる自分であるように。そして、彼に敬愛される主君でいられるように。
 クレスツェンツは、無邪気に知った恋に別れを告げて、施療院をあとにした。


(20130512)

タイトル…白猫ワルツ


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