風の噂の話。
水に映るそれには決してさわれない。















水面の月








士気の高さに反して本営内は少々静かな様に思えた。
何故だろうと思考を巡らせれば、そういえばいつも騒々しいプラスが居ないのだという事をすぐに思い出した。

(あんまり煩くても困るけどな…)

それでも今はプラスの騒がしさが恋しかった。
彼が居れば随分気が紛れたかもしれない。
不意に訪れる静寂は嫌な事ばかり想起させた。

別動隊の出立は昨日、ゼダンの本隊に動きがあればすぐにでも斥候から報告が入る事になっている。
待つ以外やることがないというのが更に焦燥感を募らせた。

プラス、彼は大丈夫だろうか。

本音を言えば兵卒の果てまでただ一人として死んで欲しくは無い。
大望の旗の下自分の為に剣を命を捧げようとする者達に対してそれは烏滸がましい事なのかもしれないのだけれど。

(別動隊には白金卿もF90も居る、僕たちさえ巧くやれば皆無事に戻る筈だ…)

最善を尽くす、その上で今は祈るしか出来ない事が歯痒かった。

「あの要塞から主戦力を引き剥がそうというのですから一朝一夕にはいきませんよ、少し落ち着いてらして下さい」

優しい声色にはたと顔を上げると、いつの間にか風騎士が傍らに立っていた。
どうぞ、と促されて視線を落とすと、書物と地形図が散乱する机の上で淹れたばかりの紅茶が良い香りを漂わせいる。

「…気を遣わせたみたいだね」

「いいえ」

風騎士は微笑んで会釈するとそのまま踵を返した。

「風騎士」

その背中に声をかける。
なんでしょう、と風騎士は顔だけをこちらに向けた。

「…ありがとう、休める時に休んで」

「ええ、皇様も」

ぱたり、と扉が閉まる音。
静かになった部屋に深いため息が響く。

(…結局、何も言えないんだ)

あれ以降、風騎士の態度が変わるという事は無かった。
正直ありがたかったがそれが気遣いや優しさなどではなく、彼なりの拒絶である事は流石に察している。
何も、言えるわけが無い。

それにしても、だ。

(全っ然気づかなかったなぁ)

風騎士が傍に居る事にも、紅茶の香りにも。

「流石にちょっと不用心だったかな…」

再びため息を吐き、苦笑する。
気恥ずかしさを誤魔化す様にカップへ伸ばした手が空を切った。

「確かに、少々不用心ですね」

驚いて声の方へ向き直ると、思わず見惚れる程優雅な所作で紅茶を飲む麗騎士の姿があった。
言わずもがなそれは皇が今飲もうとしていた紅茶なのだが、あまりに自然というか当然の様な彼の雰囲気に抗議するタイミングを完全に逸してしまった。

「ティースプーンに山盛りで四杯」

カップの中に自分の姿を映す様にして眺めていた麗騎士が不意に呟く。

「これは皇子のお好みでしょうか?」

とっさに何の事か解らず首を傾げていると構わず麗騎士が続けた。
ようやく砂糖の事を聞かれていると理解し頷くと、彼は思案する様にカップの中の一点を見つめ始めた。

「…なかなか苦労人のようですね、彼は」

麗騎士の言葉につい数日前軍議の席でF90、白金卿らと顔合わせした時の事が頭を過る。

二人は風騎士の幼少期に面識があったらしく、彼が名乗るなり表情を綻ばせていた。
品行方正な風騎士は年長の二人から見てもやはりよく出来た青年だったのだろう。
だが喜ばしく思う反面複雑な心境でもあった様だ。
特にF90は、歳不相応に配慮が行き届きすぎる彼を心配するような事を後になって漏らしていた。
確か、彼にも息子が居た。

実際のところ、風騎士はよく働いてくれている。
目立ちはしないものの各方面への根回しに余念が無く、寄せ集めに近い陣営の潤滑油として欠かせない人材となっていた。

これが風騎士の七年間かと、皇には目眩のする思いだった。

果たして自分には彼と同じ事が出来ただろうか。
無理だろう、きっと真似事も覚束ない。
何も事情を知らなければ今ごろ「君が居てくれて良かった」とでも言って、彼を労っていたかもしれない。
そうした言葉が彼を内心しらけさせているとも知らずに。


「失礼、これはお返しします」

返されたカップの中身は、殆ど減っていない。
ようやく意図を察して麗騎士を見ると彼は「念の為ですよ」と言って軽く肩を竦めて見せる。
冗談の様な口調とは裏腹に、目は笑っていなかった。

「疑っているワケでは無いのです、ただ、少し気にかかっていましてね」

彼の変わり様に、と。
今までも言いはしなかったが薄々そんな気はしていた。
麗騎士は、皇以外で唯一ティンタージェル城での風騎士の行動を直に知っている。
それ以前に面識があったかどうかは知らないが、その後の二人のやり取りを見るにあれが初対面だろう。
もしかして名前ぐらいは知っていたかもしれないが。

「あれだけ仇討ちに執心していた様なのに、まるで別人ですからね」

風騎士があれ以来無謀な行動を取る様な事は無かった。
多分、対外的にはこちらが本来の風騎士なのだろう。

「彼の素行に不満はありませんよ、寧ろ率先して動いてくれるので助かっていますね」

ただあれでは彼の下に付く者は休めないだろう、と麗騎士は苦笑した。
違いない。


疑っているワケではないと言った。
麗騎士のどこか他人に対して冷淡な眼に、彼はどのように映っているのだろうか。
そして自分は。

「何かお聞きになりたい、という顔をしておられますね」

麗騎士の言葉を否定も肯定もしないでいると、彼はくるりと皇に背を向けた。

「血気盛んで少々無鉄砲な若者という印象でした、勿論良い意味で。
 今の彼は、そうですね…“少々大袈裟な程に控えめな優等生”といったところでしょうか」

これは独り言です、と付け加えて麗騎士は続ける。
あえて返事はせず、皇は机の上の地形図に目を落とした。

「…仇、という言葉をあれきり口にしなくなりました。それに父親のことも」

麗騎士は言葉を探しているのか思案しているのか、視界の外でゆっくり歩き回る気配がする。
それはやがて壁づたいに皇から離れていった。

「…意図してやっているとすれば、彼は相当強かということになりますね」

足音が止まる。
顔を上げると麗騎士は扉の前で皇へ背を向けて立っていた。

「麗騎士」

呼ぶと麗騎士は顔だけをこちらへ向ける。
その所作が何故か風騎士のそれと重なって見えた。

「僕は、やっぱり頼りない主君だろうか」

扉に手を掛けていた麗騎士がこちらへ体ごと向き直った。
そして無言で皇の顔をまじまじ眺めていたと思うと彼は不意に口を開く。

「…皇子はお若い、追々お強くなられれば良いのではありませんか」

誓いを立てるにあたって麗騎士は、生まれに見合う名声が欲しいと臆面も無く言い放った。
彼は彼の望む名声を、この主君の下で得られると本気で思うのだろうか。

「当然でしょう、正義は我が君にあるのですから」

その問い掛けに意外な程自信たっぷりに答えて麗騎士は部屋を出ていった。

再び、今度こそ部屋に一人となった皇は先程よりも深く深くため息を吐く。

(追々、か)

言外に肯定が込められていた。

最後の言葉は彼の矜持なのだろう。
きっと励まされたわけでも世辞を使われたわけでもない、ただただ突き放された様な不安だけが残った。

(まだ信用されてないんだな、彼らに)

この場にラナール解放の戦を直接知る者は残っていない。
本当に彼らが剣を捧げるだけの資格が皇にあるのか、この戦いを通して問われる事になるだろう。
麗騎士もまた皇の器量を量ろうとしている。

風騎士は、どうなのだろう。
拒絶を突き付けながら決して皇の傍を離れようとしない、彼は何を思うのだろうか。
皇の胸の内に育つ焦りはあの夜彼が置いて行ったものだ。
悲しいほどに痛々しい程に、風騎士という青年は自分の使い処を理解していた。
彼の思惑に乗る事でしか皇は彼に応えられない。

本当は何処も変わっていないんだ。
出会った時も、きっとそれより前から、風騎士は手段を選ばず生き急いでいる。

「どうか、死なないで」

あの夜、ただ一つ願うように呟かれた言葉。
風騎士はどんな顔をしていただろう、皇は終ぞ思い出す事が出来ずにいた。

すっかり冷めた紅茶を飲み干し、僅かに冴えた頭がふとある事に思い至る。

そういえば、麗騎士。
彼もいつの間に部屋に入ってきたんだろうか。

本当に不用心だ、皇は一人頭を抱えた。



遅れて重なる蹄の音に気づき顧みると、いつの間にか風騎士が後ろを付いてきていた。
皇と目が合うなり彼は軽く馬腹を蹴り、すぐに追い付いて肩を並べる。

「夜襲で間違いありませんでしたね…勝ちますよ」

風騎士の声はいつも以上に静かだったがどこか確信めいた響きがあった。
やはり彼は場慣れしている。

(それに引きかえ…)

皇はと言えば、戦いが始まる前から既に戦場の空気に飲まれそうになっていた。
こちらはつい最近初陣を迎えたばかり、比べても詮無い事とはいえ情けない気分になってくる。
そんな皇の心境を知ってか知らずか、風騎士は相変わらず落ち着いた様子で斥候からの報告を分析していたが、

「…まぁ、ここまで来ればもう考えるだけ無駄ですね」

と言って途中からすっかり黙ってしまった。

そろそろ要塞を黙視出来る距離までに近づいたが、ここまで察知された気配は無い。
夜に警戒が緩むという情報は幾度もの偵察で入念に裏付けしていたが、行軍となると些か不安もあった。
何せこちらは地の理に劣るのだ。
ここまでの行軍には、要塞攻めの方針を決める軍議の席に風騎士がどこからか持ち込んだ地形図が、一役も二役も買っていた。
まるで実際に見てきたかの様な詳細さだったが、アレはいつの間に作ったんだろう。
というか本当に、彼はいつ寝ているのか。
心配ついでにもう一つ、ずっと気にかかっている事を尋ねてみた。

「怪我の具合はもう良いの?あまり無理はして欲しくないんだけど」

聞くなり風騎士は目を細めて皇を一瞥する。
あからさまに機嫌が悪い顔だった。

「…もし、万一、そんな些末な理由で私を先鋒から下げるようであれば、次からは紅茶に唐辛子を入れてお出ししますよ」

「ごめん、二度と言わないから唐辛子だけは勘弁」

どうやら杞憂だった、元気そうだ。
邪険にされて安心するだなんて我ながらどうかしてる。
思わず笑みが込み上げそうになるのを堪えていると、

「少しは緊張が解れましたか?」

そう言って風騎士がにこりと笑った。
とても彼には敵いそうにない。



















*****



ロビー活動の甲斐あって風騎士は先鋒の座を射止めました。一番槍。

レッド様は気取った態度ばかりが目に付くけど根底では青臭い正義を疑うことなく信じている人だといい。



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