えいちくんの帰りを待つ



婚約者の帰りをまって早数時間。早い時間に帰ってこないことは殆ど。職業柄、定休というのもなく仕事があれば引き受ける。そしてその職業のアイドルとはまた違う、経営者としての仕事があるから余計に休日など期待できない。
もともと身体の弱い婚約者はまわりの人間を使いながらも、誰にも代わりができない仕事を行っている。
こうして帰りを待つ日々を過ごすのも慣れてきてしまった。季節は夏へと移り変わろうとしている。今年度に入ってからというものの、学生から事務所代表として仕事が増えてきた彼の体調を心配しない日はない。ただ根詰めしていた日々から少し変わった。同じユニットの人たちのお陰だと話していた彼はとても楽しそうに笑っていったのをよく覚えている。そんな季節からもう移り変わろうとしているのだ。

「早く帰ってこないかなあ」

私はというと、高校を卒業してからは天祥院のおうちへと移り住んでいる。といっても英智くんが学院に通いやすいように住んでいた別邸に、だ。卒業後もそのまま拠点にするということで私も転がり込んだというわけ。まだ結婚したわけではないけれど、おうちのことだったり、花嫁修行として色々と習い事をしたりしている。そういうことをするには移り住んだ方が都合がよかった。
婚約者である英智くんは「勉学に励んでもいいんだよ」と言ってくれたけれど、周囲が天祥院の家へといくことを望んでいたので大学への進学はしなかった。ただ学ぶことは嫌いではなかったので通信教育とかも利用しながらルーズに勉強は続けている。今後の天祥院へのためになるものや、英智くんの手助けになればいいなと思いながら。

今日の私は花嫁修行の一日だった。レディとしての振る舞いだったり、社交の場での心得だったり。天祥院に嫁ぐ者としての教育を受けている。実家もそこそこの家柄だったが、正直いって求められるもののレベルが違う。お淑やかに振る舞うことは慣れているけど、それを普段から当たり前のようにしなくてはならない。そう感じさせなくてはならない。
今まで実家ではゆるく自由に私らしく過ごしていたけれど、こちらに移ってからはそうもいかなくなっていた。実家にいた頃からの馴染みの使用人は何人か連れてきたけれど、ここにいる多くは天祥院の使用人だ。彼らにわたしへの興味はないだろうが、評価される立場なのは興味があるなしに関わらず変わらない事実。何かおかしなことがあれば私ではなく、英智くんへの評価へと変わる可能性だって高い…いや、むしろ英智くんへの評価になる、のだ。これから彼に正式に嫁ぎ、天祥院を名乗るのならば。
花嫁修行を行うのに都合がいいから…なんていうものの、そういった「天祥院へ嫁ぐ意識付け」というのも目的にあるのだろう。今までに遊びにきていたことはそこそこ多いが、その頃とはもう違う。使用人たちもわたしへの態度が少し変わった。私は彼らが仕える人の伴侶となる。間接的に仕える立場の人間に、客として遊びにきていた婚約者の期間と同じ振る舞いはできないだろう。立場が変われば環境も変わる、態度も変わる。当たり前だけれどなんだか悲しいなあ。


「…おや、まだ起きていたんだね」
「! 英智くん、おかえりなさい」
「ただいま」

扉を開けたのは紛れもなく待ち望んだ人。仕事に持っていった鞄は既に使用人の誰かに預けられていて、英智くんは手ぶらで室内に入ってくる。
私は彼に駆け寄って手を握る。うん、暖かい。冷たくなって血流が悪いわけではないし、顔色は…疲労が滲んでいるが、とてつもなく悪いわけではない。ほっと何事もなく帰宅してくれた婚約者に息を吐いた。

春頃は自分も環境が変わり、英智くんも事務所のことで残業をするようになっていたからなかなか一緒に過ごす時間がとれなかった。けれど今はそれも少しだけ改善している。環境に慣れた私、ユニットの人たちのお陰で少しだけ肩の荷を下ろしたような英智くん。少しずつ余裕のあるときにはお互いの時間を増やすようにしている。
私が休んだあとに帰ってきて、すぐにお休みをして。そうして朝は彼が起きる前に私が起きて、彼が起きて仕事へ向かう…なんてことはざらだったのに。時間がとれないことで私はすこーしだけイライラしていたし、英智くんは英智くんで色々な疲労を抱えていて、互いに爆弾を背負った状態みたいだった。状況は大きく変わっているわけではないけれど、余裕が出たお陰で爆弾が作用せずにすんでいる。こんなことも笑い話に出来る日がくるんだろうか。
なんて、いつか本当に倒れて目を覚ましてくれなくなるんじゃないかって、心の奥底で心配している私は帰宅をした彼の体調を一番に問いかける。

「英智くん、疲れてるでしょ。早くお風呂にはいってきたら?」

ソファへと座ろうと隣で一緒に歩いていたが、歩みを止める。お風呂にはいるのならこの部屋をでなくてはならない。着替えは確かに寝室のほうにあるけど、あとで私が持っていけばいいし。疲労の色がにじみ出ている英智くんには早々に休んでもらわなければ。

「うん、そうするよ…流石に疲れてる」
「あ。お背中流してあげましょうか?」
「なにそれ。今日はそんなことを習ったの?」
「習うわけないでしょ。良くある言い回しだよ」

ほら、と背中を押せば簡単に前に進んでいく。抵抗する元気もそこまでないらしい。彼に無理をさせないように乱暴には扱わない。そっと優しく手を添えて、いってらっしゃい、と送り出した。
わたしは既にお風呂にはいっている。部屋着で過ごしていたけれど、英智くんが帰ってきてお風呂にはいった流れなら、そう時間を置かずにベッドへ行くことになるだろう。彼が上がるまでに部屋を少し片付けて、寝間着に着替えて待っていよう。





英智くんがお風呂から上がって来る頃に、わたしは既に寝間着に着替え終えていた。そろそろかなと飲み物を準備していて正解だったらしい。同じく寝間着姿の英智くんは疲れからか、お風呂が心地よかったからか、とろんとした目をしている。わたしが差し出したお水を口にして少しだけ意識がクリアになったようだ。そういえば、とゆったりな口調で話し始める。

「今日は母が様子を見にいくっていってたから、てっきり疲労困憊で先に休んでいると思ったよ」
「え?お母様来てないよ。お菓子は送られてきたけど」
「…はあ、全くあの人は。まあ気分でこなくなったんだろうけど」

突然送られてきた天祥院の母からのお菓子。何の前触れもなくて驚いていたのだが、まさか本日、来訪することになっていたとは。私は何も知らされておらず、英智くんも日中に突然連絡があって私が不在でないかを問われたらしい。会議があったから結局私に連絡ができずにいたみたいだ。
今後、こうしてアポ無し訪問があるかもしれないと分かったことはひとつの収穫だろう。まあここも天祥院のおうちなのだし、お母様が訪れることだって当たり前のことだ。私が今のところイレギュラーなだけなので。
と、そうやってお母様がきたのだと思っていた英智くんはすっかり私が疲れて、さっさと休んでいると思っていたらしい。だから帰宅したときに休んでいないことを言及したのか。


「ここの生活にも、少しは慣れたかい?」
「うん。でもやっぱり、英智くんがいてくれた方が居心地がいいなあ」
「あはは、嬉しいことをいうね」

話しもそこそこに、水のはいっていたグラスをまとめてから部屋を暗くする。二人して広いキングサイズのベッドへ滑り込みながら声量を抑えて、眠気が訪れるまでお話をする。恐らく英智くんは時間もかからずに眠りの波が襲ってくるだろう。話しているのに、ゆったりとふわふわ浮いているように軽い喋り方になっているので私の推理は当たっているはず。

「僕も幹那がいるから、ここに帰ろうって思うんだよ」
「英智くんも嬉しいこといってくれるね」
「紛れもない事実だからね」

向かい合って、ぎゅ、と手を握られる。温かくて大きい手。お風呂に入ったからか、眠気からか、帰宅したときよりも温かいそれに私も少しずつ眠気に取り込まれそうになる。
ここの生活には少しずつ慣れている。慣れなきゃいけないと思っているのもひとつだが、まったく知らない場所ではないのが大きい。以前遊びに来ていたこともあるのでなんとなくの知識はある。ここが住まいになるなんて思っていなかったけれど。ここは別邸のため住んでいるのは私と英智くんが主だ。泊まり込みの使用人もいるけれど、それにしても人数比率にたいして家のなかが広いし敷地も広い。実家もそこそそ広いのだが、また別格だ。そんな広い家のなか一人でまつのは寂しいけれど、それでも私がここで待つのは。

「あなたが帰ってきてくれるって、信じてるから。だからいつまでも待てるの。ここにいるの」
「幹那…」
「ちゃんと、絶対、帰ってきてね。わたしはずっとずっと、待ってるから」

私の言葉に英智くんがどういった表情をしたのかは分からない。暗がりのなかで覗き込んでも、彼の表情は見えないまま。けれど握られた手に力が込められたのは分かった。こつんと、額同士をくっつけられたのも、唇同士が軽く掠めたのも、微睡んだ意識のなかでみた夢なのか現実だったのか。そのまま目をつむって眠りに落ちた私たちは夢の中でも手を繋いでいるのだろうか。

2020.09.22.
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