雨夜の楽園 『はぁ!?坂内さんが夢ノ咲に戻った!?』 「ええ、まあ」 電話口で伝えると、茨は珍しく大きな声で驚いていた。そりゃそうだろう。まさかこのタイミングで坂内さんがいなくなるなんて。誰も想像がつかなかったはずだ。 『この…馬鹿!ジュンの馬鹿!!』 「え、ええ…?俺が怒られることっすかあ?」 端から見たら坂内さんはおひいさんに心を許し始めていた。というか明らかにはじめとは違う態度だったし。状況が状況だったので素直に従いにくかったとは思うが、馴染み始めていたのは事実だ。俺だって気まずいながらも何だかんだ日常にしようとしていた。 おひいさんも細かくいえば変わっていたと思う。どこが、とか言われると説明するには困るが、坂内さんを連れ去ってきた日と俺が逃げるように先導した日と比べれば違いは明らかだ。貴族みてえな振る舞いは変わらないけれど。それでもおひいさんなりの変化はあった、と思う。 『ジュンの差し金でしょう。殿下がそう簡単に手放すとは思えない。かといって、彼女も状況を鑑みて早急に逃げ出すつもりはない様子だった。そう考えると要因はジュンにしかないんですよ、分かります?』 「あはは」 渇いた笑しか返せない。俺が主犯で、っつーか俺が勝手にやったことだ。ネタバラシをする前に茨にはばれてしまっている。ちぇっ 混乱するかと思ったのに。 『本当に…馬鹿ですか。殿下のモチベーションが下がるなんて分かっていたことでしょうに』 「そうなんすけど。そうなんすけどぉ…」 自分の負担は増えている。というか逃がしたのが俺だとおひいさんも何となく気が付いているのだろう。俺に直接説教はなかったが、八つ当たりのような感じで当たられているのは重々承知だ。 『あとはですね。短い期間でも貴方たちEveの近くで過ごしていた彼女を、よく簡単に逃がそうと思ったなと。純粋に驚いてます、ええ、本当に!』 「なーんかきっかけがないと、あの二人進もうとしないんすもん」 『だから逃がしたって言ったら殴りますよ』 そう、変わっていた二人。夜だってそれなりに過ごしていただろう二人は、どうしてもぎこちなさが残っていた。愛だのなんだの、俺が語れるものはないけれど。だからといって何も思うことがない、なんてことはない。むしろ二人をみて「なんでだよ!」と思うことはある。 あそこまでしておひいさんに愛されてる坂内さん。愛されていることなんて一目でわかるのに、あの人は随分と受け入れるまでに時間がかかっていた。戸惑っていたと言うのもあるかもしれない。どうして自分が?と。かつての俺だっておひいさんに拾われた当初は受け入れるまでに戸惑いはあった。何かあれば変わりはいくらだっているのだからと思っていた。おひいさんの近くにいる俺は、坂内さんと似たような経験をしているから何となく彼女の戸惑いは理解していた。 ただ俺と彼女が違うのは、あっちは男女として熱烈に愛を注がれたこと。そっち方面はからっきしなのでよくわからないが、俺からしてみれば坂内さんだって初めと比べれば随分と心を許していた。本当に。おひいさんへの対応も柔らかくなっていたし、会話を聞く限り嫌っているわけではなさそうだと早い段階で気がついた。受け入れているようにさえ見えた。 黙ってみてりゃ、何であんたたちは素直に好き合って愛し合ってられないんですかねえ?ごちゃごちゃ難しいことを考えすぎなんですよ。と、文句をいいたくなる。おひいさんだって坂内さんのことを顔にも言葉にも出さないけれど、想像している以上にいろいろと考えて行動している。その心理は俺にはわからない。坂内さんも難しいことを考えていると思う。たぶん、夢ノ先のことで思うことがたくさんあるのだろうと、こっちは簡単に想像がついたけれど。 『ああ、本当!どうしてくれるんです!』 「え、茨、そんなに激おこなんすか?」 『当たり前です!よくよく考えれば猿でも分かります!』 ぶつぶつ淡々と独り言を呟いていた茨が声を荒げる。確かにまずいことをしてしまったとは思うが、これ以上平行線を歩かせるわけには行かないでしょうよ。近くにいる俺がそういうんだし、そっちの方がいいはずだ。というか、このまま道がわかれて交わらないなんてことはないとどこかで確信しているからあんま心配してないだけなんだが。 『外の仕事まで見せておいて、ましてやEveの日常を近くで見せておいて、内部事情を知っている人間を野放しにしたという自覚はないんですか!それこそ本当の馬鹿です!!』 そこに関しては申し訳ないと思いますよ。情報漏洩されたらたまったもんじゃない。だが坂内さんとはなにも契約を交わしたわけではないし、見聞きしたことを外部に漏らさないという保証はない。茨が頭を抱えるのも分かるが、たぶん、恐らく、あの人はここにいて知ったことを口軽く漏らさないだろうという根拠のない自信があった。だから茨みたく焦らないし落ち着いている。変に心配していないから気苦労はない。そんな俺を相手しているから、茨はさらに苦労が耐えないのだろうが。 『よしよし、日和くん元気だして』 「凪砂くん、もっと慰めてほしいね…っ」 「……………」 『……………』 電話越しと部屋の角から、お互い以外の声が聞こえる。部屋の角にいるおひいさんは俺が茨に電話をしはじめてから電話を掛けているようだし、耳からはいる情報からしてナギ先輩に電話をしているらしい。茨も同じような状況になっているのだろう。先ほどまで熱をもって感情のままに振る舞っていたようなのに、やけに静かだった。 『……まあこの件はわかりました。ジュンが言いたいのは仕事の件でしょう。こちらでなんとかします』 「あ、はい、お願いします」 『はあ〜〜、まったく…チッ』 舌打ちをして、ブチッと通話が切れる。最後はおひいさんとナギ先輩に乱されたが、茨にもちっと苦労を掛けてしまった。すんません、と通話が切れた向こうの相手に今更ながら謝る。そうしてぐっと拳を作り、ふ、と息を吐いた。未だに電話を続けているおひいさんに気付かれないよう、手の中の携帯を見る。 「…俺は、絶対あの人は、おひいさんのところに戻ってくるって確信してるんです」 根拠なんて更々ないのだけれど、これだけは譲れない主張だ。 * 茨に連絡をした本来の目的は仕事の調整だった。電話はすぐにきられてしまったが、しっかりとこちらの要求を察してくれたらしい。事情が事情だが、今、仕事をしない選択肢はない。俺たちは事務所が落ちぶれないように必死に繋ぎ止めなければならないからだ。Eveへの負担が少し減り、変わりにAdamの比率が多くなった仕様だ。 勝手な真似をしたことに追求はないが、おひいさんは調子が万全とは言えない。坂内さんのことを引きずっている姿をファンに見せるわけにもいかず、かといって仕事を少なくされた腹いせはどこかにいくかと言えば俺だ。俺は俺でおひいさんに理不尽なことをされることを許容した。この事態は俺が招いたことだし、大人しく受け入れている。それでムカつかないわけではないが、俺も俺で反省しているのだ。 今だってレッスンをしながら、おひいさんから理不尽に怒られながら俺だけ踊っている。普段よりも視点が鋭く、ちょっとしたミスでさえつっかかってくる。ミスしてないのに「いつもより遅い!」とかで止められる。面倒くせえことこの上ないな…。二人であわせて踊っていたのに、いつの間にか俺一人だけ踊ってて、おひいさんは俺の動きをみてダメ出しをしている。 「ほらジュンくん!そこの視線はこっち!」 端からみててもおひいさんは空元気だし、下手に意識が変な方向へ向いて怪我をされても困る。だったら俺をしごいて監督役で指摘をしてもらった方が長期的にみて助かる。目に見えて落ち込んでいる割りにこうしてダメ出しはバサッと切りつけるようにしてくるからいい性格をしている。 さすがに躍り続けて体力の消耗が激しい。俺の様子を見ておひいさんも休憩をいれてくれた。スポーツドリンクを身体に流し込む。染み渡る水分に、ぷは、と息を吐いた。 このレッスン室も、平日の日中は坂内さんがいた場所だ。放課後なんかに仕事がない場合は、何回かあの人の前でレッスンをした記憶も新しい。そんな場所であることをおひいさんも気が付いているのか、いつも坂内さんがいた場所を見つめて大人しい。 めちゃくちゃやりづれえ…っつーかこう見ると俺は結構ヤバイとこすれすれのことをしちまったんだなと自覚をする。 「あの人が戻ってきたら、俺は用済みっすか」 とくに計画もなく、ふと思ったことを口にした。やべ、と思ったが、口にしてしまったものは取り消せない。声をかけられたおひいさんは頭上に「?」を浮かべて俺を見る。 「何の用が済むの?」 まぁそうだよな。俺だって、無意識に考え込んでいたことが口をついてでてしまっただけ。求めた答えもないし、おひいさんが困惑するのは当たり前だ。「何でもない」とこの話題を切り上げよう。まだキツいが、レッスンを再開すれば忘れるだろう、お互いに。そっちのほうがいい。こうして休んでしまうから周りの景色に意識が注がれてしまう。レッスンに集中していればなにも見えないんだ。目の前のこと以外、なにも。そう思って「何で…」まで口にした俺の言葉を遮って、おひいさんは少し怒った表情で言った。 「ジュンくんはジュンくん、双葉ちゃんは双葉ちゃんだからね」 …なんだ、わかっちまってるのか。恥ずかしい。 俺は俺と似た境遇にいた坂内さんに同情を向けていた。お互いに同じようなことを考えてるんだろうなとか、おひいさんへの突っ込みどころが被っていることがあったりだとか、同じ【巴日和に選ばれた者】として仲間意識があった。それと同時に後ろ暗い気持ちを抱いていたのも事実。いつかの俺がおひいさんに手をさしのべられて、変わりはいくらでもいるんだと思っていた頃の俺が顔を出す。 おひいさんは坂内さんが大切だ。愛していると、言っていた。おひいさんの大切なひとが側にいるのであれば、俺は必要か?その疑問が頭を過った。坂内さんが戻ってくれば、俺はお役御免か?坂内さんが戻ってこなければ、俺は変わらずここにいるのか?くだらない考えが渦巻いていた。それをおひいさんは知ってか知らずか、言い当ててしまった。ただ単に俺の言葉に単純に返しただけかもしれないが。 「そんなこと考えてたの?ジュンくんってば、もっとすることあるよね?」 「いや……まあ、そうっすね…」 「ならレッスンするね!」 ああ、こりゃ気が付いてるな。そんで怒っている。今日のレッスンは本当に俺がくたくたになるまで続くだろう。おひいさんのお小言が延々と述べられるだろう。失言だったな、と数分前の自分の口を塞ぎたくなる。だが時は巻き戻せない。ついさっきのことも、昨日のことも、一週間前、半年、一年も前のことでさえ、起きてしまったことはひっくり返せないのだ。 俺と同じようなことを、あの人も思っているだろうか。今のこの状況を思い返してみて後悔や、失敗だったと思っているのだろうか。だけど俺は、さっきのことは別としてあんたを逃がしたことは後悔していない。何度もいうが、あんたたちに平行線を歩ませ続けるほど俺もお人好しじゃないんだ。 ったく、早く気づいてくださいよぉ……双葉さん。 2020.06.28. |