28 玲明学園を出て必死に地図とにらめっこをし、何とか辿り着いた夢ノ咲学院。近付くにつれて海の潮風が肌を撫でる。懐かしい香り。まだ一週間しか経ってないのに懐かしんでしまうほど、わたしは日常とは逸脱した日々を過ごしていたのだと思う。 本当にこれでよかったのか、正直なところ分からない。日和さんに対しての私自身のことは分からないことだらけだ。凪砂さんに問われた日和さんのことをどう思っているのか、出てくるときに漣くんにいわれた「戻れないところ」が何処なのか。今こうして彼のもとから逃げ出してきたことは私にとって、彼にとって何を示すのか。漣くんは私が分かっていると言ったけど、ぐちゃぐちゃとした感情で塗り潰したみたいに胸のうちに潜んでいるこれを表す術を私は知らない。答えなんて示せないのに、わたしは放棄してきてしまった。 様々なことを頭のなかで巡らせながら、正門で生徒手帳を見せ校内に入る。もうお昼休みなんてとっくに過ぎていて午後の授業が始まっている。この時間に登校してくるとか警備員さんにすごい目で見られたけど、わたしだってこんな時間に登校したくてしてる訳じゃないし…。言い訳を飲み込んだまま真っ直ぐに自分の教室へと向かう。目的の場所は違うけれど、荷物くらいは下ろしたい。 「え、双葉?」 時間的に授業の中休みだったのか廊下ですれ違うアイドル科の生徒に驚かれる。だがそんなこと気にもせず2-Bの教室へ足を踏み入れた。いの一番にわたしに気が付いたのは衣更くんだ。え?と皆がわたしを見るなか何も言わせない勢いで口を開ける。 「衣更くんでも伏見くんでもどっちでもいい、今日、英智先輩は登校してる?」 わたしの質問に答えたのは伏見くんだった。先輩が登校していることを知ったのならすぐにでも会いに行かなくてはならない。荷物を置いて携帯を見る。充電は帰ってくる道中で切れてしまった。あとでどこかの教室に籠って充電しなくては。 教室を出て行こうとすると、何故か伏見くんがわたしを先導して歩いている。教室ではなくて別の場所にいるのだろうか、と聞けばいいえ、と返ってくる。 3-Aにいてくれるなら一人で行けるんだけどな。最近わたしは子供だと思われている事案が多い気がする。けれど伏見くんは「そうでございますか」と言って会話を終らせてしまう。向けられた笑顔は有無を言わさぬもので、いくら穏やかに見えても彼に刃向かう気にはなれないのだった。 3-Aに辿り着くまでも通りすぎたアイドル科の生徒に振り向かれつつやりすごす。教室の前でも先輩方に驚かれたけど、なかには幽霊を見たみたいな反応する人もいて結構傷ついた。わたしにはお構い無く、短い中休みを過ごしてください皆さん。そうして伏見くんが3-Aの扉を潜り、目的の人物を捕らえる。 「会長さま。少々お時間よろしいでしょうか」 「弓弦かい?…おや、」 会長…英智先輩は伏見くんの隣に立つわたしを見て一瞬、驚いた表情をした。しかしそれもすぐに笑みに変わる。つくづく何を考えている人かはよく分からないのだけど。 「おかえり、双葉ちゃん」 その言葉に返事はしなかった。涼しい顔で笑っているこの人に少しだけムッとしてしまったから。感情的になるべきではないとは思ってはいるのだけど。それもこれも上手くいかない。感情のままに口を動かさずにいるだけでもいい子だと思って欲しいくらいだ。 「ちょっと雰囲気が変わったかな。一週間くらいだったけど」 「そういう話は置いといてもらっていいですか」 「…うん、そうだね。それで君が僕を訪ねてきた理由は?」 訪ねた理由は様々ある。だが今、一番気がかりなのは日和さんの元にいた時もずっと引っ掛かっていたこと。 「今週末の2winkのプロデュースは、どうなっていますか」 自分の不手際で、中途半端に残してしまった仕事。それは自分だけではなく担当したアイドルにさえ被害が被るもの。ましてや今回は一年生ユニットである2winkであったのだ。経験を増やしつつあり、紆余曲折あったものの二人兄弟で仕事をしてきた彼らが、プロデューサーがいない状態で脆く崩れてしまうことはあまり考えられなかったが。それでも年下の彼らを、ユニットを導くべくプロデューサーがいないのは話が別だ。仕事は一蓮托生、相互作用をしあって仕上げていくもの。そこに肝心の自分がいないなんてあってはならない。 英智先輩に自分の居場所が知れているのであれば、うまい具合にフォローをしてくれるだろうと考えてはいたものの…不安を拭いきれるわけがない。 「問題なくちゃんと進んでいる。あんずちゃんが引き継いでくれているよ」 穏やかに、そういった先輩の言葉を聞いてほっとする。ずっと気掛かりだった。忙しいだろうに、あんずにも迷惑をかけてしまったけれど。それでも彼らの活躍の場を奪うことがなかったことに安堵した。 「ああ、いや、問題はあったね。双葉ちゃんが突然いなくなってしまうということが」 「ご迷惑を掛けて…申し訳ありませんでした」 「なんてね、いいんだ。僕の方も結局何一つ、君を取り戻すのに有益なことはできなかったから」 きっと私は今、ひどい顔をしている。英智先輩が動いていてくれたことに安心している自分がいる。 日和さんのもとでは情報が遮断されていたので、本当に英智先輩が何かをしてくれているのか等わからなかった。私はこの人に、この学院に、必要とされたかった。失くすのは惜しい人間であると、少しでもそう思ってくれる人がいてほしかった。もしかしたら口先だけかもしれないけれど、先輩の言葉にどれ程自分が安心しただろう。結果的に手助けもあって戻ってこれた。今はその事実が大事なのである。わたしは夢ノ咲に戻ってきた。 「それで、本当に身も心も日和くんのものになってしまったのかい?」 ほっとしているわたしに、何の気なしに聞いてきた英智先輩は鬼畜なのかと疑う。ここ、どこだか分かっています?不特定多数の生徒がいる教室なんですけど。むしろ私が日和さんのもとに捕まっていた情報を知る人物がほぼいないなかで、そんな発言どうしてくれるんだ。視界の端で守沢先輩が戸惑い、瀬名先輩が驚き、蓮巳先輩が固まっている。 「あれ?日和くんからそうするって聞いたんだけど」 「…先輩、それ普通にセクハラに値しますからね」 「あはは、うん、ごめんね。ちょっと下世話が過ぎたよ」 下世話が過ぎるどころではない。公開セクハラです。状況が状況なら訴えてる。 笑顔で謝る目の前の先輩に、ため息をついて返事をした。後ろから伏見くんも同じく大きなため息をつく。楽しげな英智先輩と、反対の表情の私たち。わたしはこの一週間のことをどう説明すればいいのか、ぐるぐると思考を巡らせていた。 2020.05.14. |