18 「ただいま、双葉ちゃん!」 帰りの挨拶はとても元気なものだった。仕事にいくときは戸惑うくらい寂しげな表情をしていたのに、元気に帰ってきたなあ。仕事でいいことでもあったんだろうか。 私はというと言われた通りに身体を休めて過ごしていた。もらっていた紙とペンも申し訳程度に身体を横にして。いつのまにか意識が途切れたりもしていたので、時々ストレッチとかを間に挟んだりもした。今までの毎晩のことや、昨日の突発的な仕事の同伴で疲れが出たのだろうと思う。環境が変わるとストレスになるというし…そこまで大きく影響を受ける自覚はなかったけれど、わたしも疲労が出るんだなとわかった。今後のためのいい収穫になったのでよしとしよう。 「おかえりなさい…ぐぇ」 で、だ。帰ってきて早々、わたしに抱きついてきた日和さん。帰ってきたときの勢いとはまた別の部類の力加減で身体が圧縮される。はじめから力強いわけではなくて、むしろ段々と時間をかけて締め上げられているような…?さすがに苦しくて痛みも出てきたので小さく抵抗を示すがびくともしない。ちゃんと私が押し返しているのはわかっているだろうに。 「…今の、イイね」 「は?」 「おかえりなさいの挨拶!」 ようやく解放されたと思いきや、目をキラキラさせてとびっきりの笑顔を浮かべた日和さんが肩を掴み掛かってきた。別に挨拶とか普通では?特別なことでもなかろうに。と、ここで私は日和さんのもとへ来てから彼らを迎えたり送ったりするときにあまり挨拶していなかったなと思い返す。なので私の挨拶は宛ら懐かなかった拾いもののペットが親愛を示したような、それはそれは特別なものに聞こえただろう。まあ挨拶とか、日和さんへの反抗心や抵抗の方が勝っていたのでしていなかったのは確かだ。今日は本当に自然と、何も意識をせず「ただいま」という言葉に「おかえりなさい」を返していた。 「キスは?」 「はあ?」 「おかえりなさいのキス」 「しませんよ」 ベッタベタの新婚夫婦か。何でそこまでしなきゃならんのか。私と日和さんとの間でテンションの落差が激しい。勿論わたしがキスをするのが当然のような空気を醸し出しているが、絶対しません。むしろする理由ないでしょ。 身体を離そうと押し退けているが、なかなか離れない。彼の方が勢いがあるから余計だ。期待の眼差しを向けられて正直しんどい。黙ったままなのも怖い。しませんから…と再度伝えれば今度は顔を掴まれた。まさか、と思った瞬間、日和さんの顔がドアップで視界に広がる。加えて唇に当たる柔らかな感触にキスをされたと自覚をした。重なってしまったものは仕方がない。キスなんてむしろ今までの行為のなかで何回もしているから特別なことはないのだ。このまま舌まで入れられるかもと思っていると、意外にも重ねるだけで大人しく温もりが離れていく。 「…しないって言いましたよね」 「ふふん、しちゃったものは仕方ないね!」 いたずらが成功したような、無邪気な子どものように笑う。最近この笑顔が憎めなくなっている自覚はある。どうしたものか、自分のなかでどういう立ち位置に彼を置いているのかよく分かっていないのだが、とりあえず以前より彼のことを受け入れてしまいがちなのは確かなのだ。 「いってきます、もしようね?」 「ええ…」 これ絶対強制的にやられるやつだ。知ってる。彼の強引さに振り回された挙げ句、逃げもそこそこに捕らわれるのが目に見えている。いつまでやらされるんだろうなぁ。ため息をつくと、同じく日和さんの後ろからも重ねてため息が聞こえた。えっ…もしかして。 「あの、お二人さん。俺がいること忘れてますよね」 日和さんの後ろから出てきたのは、彼と同じく今朝仕事へと向かった漣くん。若干疲れの色が強い顔で私の視界に映り込んだ。 「ごめんねっ ジュンくん!」 「え…うそ漣くんいたの…」 「いたのって…ずっとおひいさんの後ろに控えてましたけど…」 うっっっっわ…今のやり取りを見られてたなんて…穴があったら入りたい。いや、この場から立ち去りたい。漣くんには日和さんとのことを察せられているから内容自体はそれよりも軽いということはそうなのだが、如何せん前戯を見られたような気恥ずかしさが残る。 絶望に打ちひしがれるように俯けば、日和さんはよくわかっていないように「どうしたの?」と問い掛けてきた。お願いだから傷心の乙女心を察してほしい。 「まあいいっすよ。それよりおひいさん、着替えてからこっち来てください」 「ええー」 「色々するのは夕飯食ってからにしてくださいねぇ」 そういって彼は部屋からでて行き、隣の自室へと帰っていく。ありがとう、漣くんありがとう。突っ込まずにいてくれて。このまま掘り下げられてしまったら羞恥でどうにかなってしまうかと思った。気遣いが出来る男って素晴らしいな。 私が漣くんに心の底から感謝をしていると、日和さんはもう、と彼が出ていった扉を見てため息を吐く。恐らくこのまま多少のスキンシップが過ぎてもいいようにと早々に退散をしてくれたのだろうけど、日和さんは分かっている…筈はないか。漣くんに対して「何で先にいっちゃうの」なんて思っているのかも。 「全く、ジュンくんはせっかちさんだね」 そんなにお腹すいてたの?と呟いていたけど、そうじゃないです。居たたまれなくて隣に行ったんですよ、なんて私から言えるわけがない。本当にごめん、漣くん。重ねてお詫びと感謝を心の内でしておこう。 日和さんの言う通りお腹は減っているはずだし、仕事終わりで疲れもあるはずだ。早く食事を摂って休息した方がいい。この休日の二日間、朝から二人とも仕事で詰まっていたのだ。私が先導してでも休ませなければ。そう考えて俯いていた顔をしっかりとあげ、目の前の日和さんをみた。顔をあげた私に気が付いた日和さんはぷん、と怒った顔ではなく、穏やかに私を見つめている。 「さ、双葉ちゃん。ごはんを食べに隣の部屋に行こうね」 差し出された手のひらが何を示すのか一瞬わからなかった。日和さんの手と顔を交互に見て、何秒か経過したあとに漸くエスコートされようとしていることに気が付く。 戸惑う私に日和さんは何も言わずに待っている。まさかそんな、エスコートされるようなことになるとは。たかが隣の部屋なのだけれど、私の胸はドキドキと速度を加速させる。それに伴って顔が少し熱くなった気がした。緊張で震える手をゆっくりと動かして、大きな日和さんの手に重ねる。彼は包み込むように私の手を握り、扉に手をかける。ガチャリと音を立てて開いた扉の向こう、まるでおとぎ話の始まりかのように私は彼に手を引かれて部屋を出た。 2020.03.19. |