帝光中学校
男子バスケットボール部一軍マネージャー


それが、私の肩書きだった。
誇りを持っていた。
選手達に頼りにされて嬉しかった。
みんなが勝つ姿を見たらいちいち泣いてしまうくらい嬉しかった。

あの時は、それが崩れてしまう日がくるなんて、思わなかった。


「さつきちゃん、私これ赤司くんに渡して来るね」
「はーい!」


さつきの元気な返事を聞いたなまえは、ファイルを抱えて赤司の元へ。そのファイルに入っている書類には、さつきの情報や自分の目で見た選手一人一人に合った練習方法やケアの仕方が書かれている。これはなまえが独自で行っているもので、試合ごとに毎回書き換えているのだ。

このデータをもとに赤司が選手にその練習方法を伝え、指示を出す。それが男子バスケ部の常だった。
先日行われた練習試合から二日。なまえは急いで仕上げて赤司に提出しに行くところなのだ。


「赤司くん!ごめん遅くなっ……」


慌てて入ったミーティングルームの殺伐とした空気に、なまえは思わず固まってしまった。此方に背を向けていた赤司は酷くゆったりとした動作で振り向く。やがて、色違いの目に捕らえられたなまえは、最早呼吸すら忘れてしまっていた。


「――あぁ、なまえか」


いつからかなんて定かではなくなってしまった、名前呼び。それがこんなにも怖いと思うなんて。
なまえは「は…、」と軽く息を吐きながら部屋の中に集うキセキの世代の面々を視界に入れながら、震える手で持っていたファイルを差し出した。


「い、いきなり入ってきてごめんね。いつものやつを渡そうと思って……」


声も若干震えているのが分かる。けれどここで話すのをやめてしまえば、もう一生話せないと思ったなまえは懸命に言葉を紡ぐ。
早くファイルを受け取ってくれ。そう切に願うなまえだったが、赤司は物の見事にその期待を裏切った。


「ゴミを持ってこないでくれるかい?」
「………え、」
「だから、もうそんな物いらないって言っているんだ。なまえも先日の練習試合を見たんだろう?それなら、もうそれが必要ない事くらい分からないか?」


冷たい声色だった。なまえには赤司が言った言葉の意味が理解し難く、けれどももう頭の中では理解していて、指先の力が抜けてしまった。

――カシャン

ファイルが床に落ちた音が部屋の中にこもる。赤司の言葉に返事をしないなまえを見かねてか、緑間はカチャリ、と眼鏡を直しながら鋭い目でなまえを睨んだ。


「お前はもっと賢いと思っていたのだよ。あの試合で何を得た?今更みょうじのデータなど無くても勝てるのだよ」
「そうだよねー。むしろこっちは練習に出たくないって言ってるくらいなんだしさぁ」


同調するように紫原が頷く。しゃくしゃくとまいう棒を食べるその姿は、一見して前と変わりないのに、どうして中身は変わってしまったのだろう。


「てかほとんど書いてること変わってなくないっスか?心のどこかでは思ってたっしょ?もうデータこれがいらないって。それでもこうして持ってくるって…なんか、必死すぎて逆に哀れに見えてくるっス」
「おい黄瀬ェ、女の子にそんなこと言っちゃっていーのかよ?」
「何スか?青峰っちは欲しかったんスか?」
「ちげーよ、誰がいるかよンなもん」
「そーっスよね!だいたい飯も好きなもの食べさせてほしいっスよねぇ。飯くらいでどうにかなる程軟弱な体をしてるつもりはないし」


突き刺さるその言葉に、なまえは恐怖を抱いた。目の前にいる人達は誰だと、柄にも無く叫びたくなった。


「細かな所まで見てくれているんだな、ありがとうみょうじ」
「人事を尽くすみょうじの事は、前から認めているのだよ」
「練習方法変わってびっくりしたけど、今はこれのが楽ー。ありがとねぇなまえちん」
「何でこんなの食わなきゃならねぇんだよ、なまえ!…あ?栄養が偏ってる?あーあー、わぁかったよ!…その、ありがとな」
「なまえっちー!昨日してくれたマッサージ今日もやって!アレ超気持ちよかったっス!てか足がスゲェ楽になった!ありがとっス!」



笑って、「ありがとう」と言う君達が、好きだった。
こんな事でしか支えられない自分を必要だと言ってくれて、態度で求めてくれて。それだけで私がここにいる理由になった。
けれど、それが全て無くなった今、私はどうしたらいいのだろう?


「はっきり言おうか、なまえ」


名前で呼ばれて何だか距離が近くなったと思ったが、それは全くの見当違いだった。


「お前はもう、ここにはいらない」


近くなったんじゃない。
遠くなる、前触れだったんだ。








あれから数ヶ月。なまえは元々決めていた海常高校への進学を取りやめて青道高校に入学した。海常には中学2年の進路希望の時に、黄瀬から誘われていたのだ。他にもキセキのみんなから誘われていたけれど、一番最初に誘ってきた黄瀬に頷き、進路希望調査の紙に『海常』と書いた。

けれど、あの時確かに言われたのだ。『いらない』と。ならばもう海常だけでなくキセキの進学校には行けなかった。必要ないのなら、彼らの側に居ても意味がない。


「ぐぬぬ……」
「……?」


ふと、隣から呻き声のようなものが聞こえ、そっと目を向ける。隣の席の沢村は教卓に立つ自身の部活の監督、片岡と教科書へと視線を行ったり来たりしていた。それだけでピンとくる。――問題が分からないのだ。
片岡は公私混同をしない人間だが、沢村は見るからに馬鹿。つまるところ、授業で片岡が沢村を当てるのは分かりきっている事だった。


「くそう……監督めェ……!」
「…くす、」


思わず笑ってしまったなまえは、こっそり沢村の名前を呼ぶ。すると少し涙目でこちらを見た沢村に、問題を解き終えたノートを貸してやった。


「解き方は後で教えるから、まずはそれを写したら?」
「い、いいのか?」
「うん。これくらいなら沢村くんもきっと解けるから、時間がある時に一緒にやろ」
「さ、サンキュー!よーし!」


沢村は必死に答えを写し、その後片岡からの質問にもバッチリと答えていた。
それから授業が終わり、なまえは沢村に教えようとしたがそれよりも先に片岡に呼ばれ、ドキッとしながらも駆け足気味で向かう。


「はい、なんですか?」
「沢村にはいつもああしているのか?」
「い、いえ、今日はたまたまです…」
「そうか」


サングラスを掛けた片岡の目は見えない。これで話は終わりかな?と思っていたら、片岡はまた口を開いた。


「みょうじは部活に入っているのか?」
「は?あ、いえ、入っていません」
「なら、野球部のマネージャーにならないか」


思ってもみなかった誘いに、なまえは動揺を隠せなかった。部活監督直々のお誘いとはなまえも初めての経験なので、どうにもこうにも混乱してしまう。それに、


「(…私は、もう部活には……)」


たとえ違うジャンルの部活でも、どうしても思い出してしまうのはあの日の事。『いらない』という一言は、中学を卒業した今でもなまえを雁字搦めに縛り付けているのだ。


「嫌なら構わん。だが、みょうじの能力は埋もれさせるには勿体無い」
「!?か、片岡先生は知ってるんですか?」
「噂程度なら聞いた事がある。…暫く考えておいてくれ。返事はいつでもいい」
「で、ですが私は、」
「少なくとも野球部には、」


なまえの言葉を遮り、片岡は強い眼差しでなまえを見据えた。そこから先の言葉は聞きたくない。なのに、心のどこかで聞きたいと思っている自分がいた。


「お前の力が必要だ、みょうじ」


真っ直ぐなその言葉は、まるで凍りついたなまえの心を溶かしていくようだった。「それだけだ、時間を取らせて悪かったな」と言って去っていった片岡の背中を見つめながら、なまえはぼんやりと考える。


「(…野球部の、マネージャー……)」


バスケ以外のスポーツにはとりわけ興味もなかったなまえにとって、野球とは未知な世界だ。入学して随分と立つ。それなのに今更部活動に、それも強豪として謳われる野球部に入部だなんてそう簡単には頷けなかった。


「あ、話終わったのか?」
「ん?うん、待たせてごめんね。今から問題やろっか」


先ほど沢村が分からなかった問題を教えようと席に座ってノートを覗き込むが、どこか慌てた様子で沢村が話しかけてきた。


「その、ちょっと聞こえてよ…」
「?…あぁ、さっきの?」
「おう…やんねぇの?マネージャー」
「………考え中」
「みょうじが!?」
「なにその反応!まるで私が考えるのが珍しいみたいな…」


大袈裟に驚いた沢村に対して若干傷つくなまえ。けれど沢村はそんな傷ついたなまえを気にしてか、何処となく目を泳がせながら自分の思っている事を言葉にした。


「いや、だってさ…みょうじって割と人を待たせてる時ってすぐに答えを言うだろ?あんま考えずに。だから…その、珍しいなと思って…」


ごにょごにょとだんだん小さくなる声に耳をすませながら聞くが、その紡がれた内容になまえは目を丸くした。
たかがクラスメイトという間柄なのに、席が隣で割と良く喋る友達というだけなのに。自分を知ってくれている沢村になまえは不覚にも泣きそうになった。


「……ありがとね、沢村くん」
「おおおお!? な、何がだ!?」
「ふ、あははっ!何でもない!ほらやろ、この問題は――」


笑い出したなまえに首を傾げながらも、沢村はそれ以上首を突っ込まず、ひたすら問題と向き合っていた。