野球部の練習が終わった日曜日の午後、二年生の御幸一也は、どこかそわそわした様子でフェンスのそばに立っていた。そんな様子を遠目から眺めていたレギュラー陣はなんだなんだと勝手に噂話を始める。


「あいつ何してんだ?」
「トイレっスかね!」
「栄純君…さすがにトイレじゃないと思うよ。」
「彼女かァァ!?」
「純うっさい」


いつもの御幸なら、こんな会話筒抜けだっただろう。しかし今日の御幸は『いつも通り』の御幸じゃなかった。飄々としてつかみ所のない表情がデフォルトのはずなのに、今は緊張気味に汗を拭っている。まるで因縁の相手と試合をする前のようだ。
そこへタッタッタッ…と軽やかな足音が近づいてきた。部員達は思わず目を向けてみると、ちょうど少し向こうからこちらへ駆けてくる女を見つけた。


「一也くん!」
「なまえ!」


互いの名前を呼び、照れたようにはにかみ合う二人。それはどう見ても恋人同士の姿だった。
フェミニンな服を身に纏ったなまえは、私服姿の御幸の身体をジッと見つめている。「え?何してんの?」とレギュラー陣もゴクリと生唾を飲み込んだ瞬間、なまえはペタペタと触り始めた。


「「「(え!? 何してんの!?)」」」


先ほどとは比べ物にならないくらい驚いたレギュラー陣のことなど知らず、なまえは御幸の腕も触る。御幸は驚くこともなく、慣れたようにされるがままになっていた。

もう我慢できない。これは確実に不純異性交遊だろう。誰もがそう思い、息巻いて二人の元へ駆け寄った。


「御幸ィ!!」
「は、え? 倉持?」
「うっせー!!」


腹いせも込めた、綺麗なジャンピングキックだった。軽く吹っ飛ばされた御幸は未だに状況が理解できず、勢揃いのレギュラー陣に目をぱちくりとさせている。そんな御幸に沢村は容赦なく肩を掴み、グラグラと上下左右に揺らした。


「あんた! こんな大事な時期に何してんすか!」
「ちょ、沢村、やめ、」
「こんな暇あるなら俺の球受けてくれてもいーだろ!」
「うあ、おい、沢村……うぷ、」
「あ、あのー…そ、そこまでにしてもらっても…」


恐る恐る沢村の肩に手を置くと、彼はなまえの方を見てカァァーっと顔を赤くして、パッと御幸から手を離した。いきなり解放された御幸はその勢いのままどさっと再び地面とこんにちはをしている。


「あ、え、その、」
「アンタ、御幸の彼女か?」
「はっ、はい! 一年の相田なまえです!」
「え、同じ高校?」
「はい、えっと…小湊くんと同じクラスで…」


一斉に目を向けられてしゅるしゅると縮こまるなまえ。そんな彼女の恥ずかしがり屋な性格を知っている御幸はすぐに立ち上がり、レギュラー陣から隠すようになまえの前に出た。目の前に見慣れた背中があることになまえもホッとし、軽く深呼吸を繰り返す。


「先輩達まで…なんなんすか」
「御幸がやけにそわそわしてたから、気になって。で、その子は彼女?」
「…そうっすけど……、」


代表として話し出したのはやはりこの男、小湊亮介。何も読ませない笑顔で御幸に問いかけてゆく。
と、そこへ御幸の後ろに隠れていたなまえがひょこりと顔を出した。うずうずとした様子を見せ、舐め回すようにレギュラー陣を一人一人見ていく。そんななまえを沢村達はいち早く気づき、こちらも思わず見返してしまう。
沢村の視線がなまえに向いていることに気づいた御幸は、まさかと思いつつ後ろを振り返った。


「…はぁー……なまえ…」
「! ご、ごめんっ……つい…、」
「ったく、それ浮気?」
「ちっ違う! 知ってるくせに!」
「はっはっはっ、悪い悪い。ほら、もっかい自己紹介すれば?」


もうこうなれば、みんなにもなまえをちゃんと知ってもらおう。そもそも隠れて付き合っていたわけではない。
御幸は優しげな眼差しで、後ろにいるなまえの背中をとんっと押した。途端に向けられる無数の瞳。なまえはどうすればいいかわからずぎゅっと目をつぶり、そろ…っと開けた。


「あ、改めまして…! か、み、御幸くんの彼女の、相田なまえです。その、よろしくお願いします!」


『一也くん』と呼びそうだったのを無理やり『御幸』と言い換え、丁寧に言葉を紡ぐ。そんななまえを見ていれば、もう『不純異性交遊』だなんて言葉はどこか彼方へと飛んで行ってしまった。
言い終えても恥ずかしそうにうつむくなまえに、レギュラー陣も各々自分の名前を言っていく。一つ名前を言われれば、なまえはそれを口の中で反芻して覚え、顔と名前を一致させてゆく。


「相田、と言ったか」
「は、はい!」
「なぜ御幸の身体を触っていたんだ?」


結城は気になっていたことをど直球で尋ねた。(おいぃ!)と誰もが思ったが、恥ずかしがり屋なはずのなまえは「実は…、」とまた御幸の腕に触れる。


「久しぶりに一也くんに会ったものですから、彼のフィジカルが気になって…」
「フィジカル?」
「はい。服の上からだと正確な数値が分からないので、つい触ってしまいました」


「ごめんね、一也くん」と謝ると、御幸は「いーって、頼んだの俺だし」とそのまま好きなように触らせる。
ここで疑問が浮かぶレギュラー陣。フィジカル? 数値? 目の前の女は何を言っているのだろう。


「御幸」
「は、……い?」


呼ばれて振り向くと、そこには真っ黒い笑みを浮かべた亮介がいた。


「説明してくれるよね?」


こうなった亮介に逆らえるはずもない。御幸は口角を引きつらせると、やがて諦めたように頷いた。


「なまえは少し特殊な“目”を持ってるんです」
「目?」
「はい。なんて呼ばれてたっけ?」
「『読みとる目アナライザー・アイ』。身体を目で見るだけで、その人の身体能力や肉体の疲労度合いを、数値化して分析することができる目です」


なんて、言葉にしても分からない。特におつむが弱い沢村や降谷なんかはちんぷんかんぷんだ。そこで御幸は悩んだ挙句、もう一度自分の身体を触らせた。


「ん」
「んって……、」
「ど?」
「あ、えーっと………最近柔軟サボってるでしょ…」
「………、」
「もー! あとここ! ちょっと無理しすぎて疲労が溜まってる! 適度に休んでっていつもいつも…!」
「悪りぃって! 許して?」


御幸の身体に触った。触っただけなのに御幸の健康状態を間違いなく言ってみせた。レギュラー陣もこれには目を丸くするしかない。だって、こんなの、有名なトレーナーでも出来るか出来ないかぐらいの能力だ。


「ど、どういうことですか…」


春市のこめかみから頬にかけて、冷や汗が流れる。なまえはさっき自分で言った通り、同じクラスの女の子だったはずだ。なのにどうしてそんなことがわかるのか。春市には不思議でたまらなかった。


「なまえのお父さんがスポーツトレーナーらしくて、よくお姉さんと一緒に小さい頃からその仕事を見てたんだと」
「だから、姉も私と同じ目を持ってるんです」


にっこりと微笑んだなまえはもう堪能したのか、御幸から離れて今度は沢村へ。ペタペタと無遠慮に触るなまえにあの沢村もタジタジだ。


「は、えっ!?」
「わぁ、肩柔らかいですね! もともとかな……でもまだ瞬発力はそこそこですね、反復横跳びとかしたらどうですか?」
「んな!?」
「小湊くんは…わあ! すごくいい脚してるね! これなら取れないボールもあんまりないんじゃないかな?」
「え、ほ、ほんと?」
「うん! 貴方は……すごい肩…! あ、でもスタミナが不足しがちかな…ご飯はたくさん食べて、たくさん走り込みしてくださいね」
「(ガーン…)」


一年生3人組のフィジカルをいとも簡単に当ててしまった。もう十分だ。彼女の能力はしっかり分かった。分かってしまったら、もう見て見ぬふりなど出来やしない。


「相田」
「は、はいっ!」


再び結城に呼ばれ、なまえは一気に興奮を鎮めて結城と向き合う。真っ直ぐな目に射抜かれてなまえは金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。
結城が二の句を告げようとしたとき、御幸がまたなまえの前に立った。結城の目からシャットアウトしようとする御幸に、自然と結城の眉間にも皺が刻まれる。


「どうした、御幸」
「今、哲さん何て言おうとしました?」
「…分かりきっていることだろう」
「分かっちまったからこそ、言わせるわけにはいきませんよ…。こいつは、シニア時代からずっと一緒にいた俺の大事な女です。ここに関わらせる気は毛頭ありません」


はっきりと断った御幸の後ろ姿を、なまえはただ眺めるしかできなかった。シニア時代に御幸と出会い、その時に少しお手伝いをしていたのだが、なまえの“目”目当てで来る人も少なくはなかった。
姉のリコとは違い、もともと人前に出て何かをするのが苦手ななまえにしてみれば、それは恐怖でしかなかったのだ。そんな過去を側で見てきた御幸だからこそ、こんなにも頑なになまえの入部を否定している。


「(……こんなとき、お姉ちゃんなら何て言うかな…。お姉ちゃんだけじゃない、日向くんも、鉄平くんも、黒子くんも……)」


そう思ったなまえだが、彼らが何を言うかなんてすぐに思い浮かんだ。
きっと、姉なら、友人達なら――…。
なまえはそこまで考えて、目の前にある御幸の服をそっと引いた。


「なまえ……?」
「……ありがとう、一也くん」


それは、今まで見てきた笑顔とは少し違っていた。幼さの残る、けれどもどこか大人っぽい笑みだった。
緊張でキュッと唇を噛み締め、御幸の前に出る。足元に向けていた目を結城へと移し、ふっと肩の力を抜いた。


「わ、私は、愚図で、鈍間で、この“目”以外あまり役に立たないと思います。ですが、こんな私でも皆さんの力になれるなら…野球部に、入部させてください」


鈍く光る双眸は、結城と同じように相手を射抜いた。
その覚悟をしかと受け取った結城は一つ頷き、手を差し出す。それが何を意味するかなんて、聞かなくたってわかる。なまえはそっとその手に自分の手を重ねた。


「よろしく頼んだぞ、なまえ」
「はい……!」


夏の甲子園前。
その日は、野球部に新たなメンバーが加わった日となった。