「ねえねえ、御幸くん!」
「んぁ? なに?」
「御幸くんって好きな人とかいるの?」
「好きな人ー?」


ドクン、ドクン、と心臓が鳴る。友達の話に相槌を打ちながらも、私の意識は御幸と女の子達の会話に向けられていた。


「あぁ…、いるよ」


キャー! と黄色い声や悲鳴が女の子達から発せられる。色めき立つクラスに私は耐えられず、静かに教室から出て行った。


「……やだな」


恋なんてしなければよかった。私はあてもなく廊下を歩きながら、先ほどの御幸を思い出す。好きな人がいる、そう言った御幸の横顔はあまりにも綺麗で。私なんかが到底入り込めるはずもない。


「あれ、なまえ?」


もんもんとネガティブなことばかり考えていたら、誰かに名前を呼ばれた。『誰か』なんて、声を聞けばわかるのだが。


「亮にぃ、どうしてここに?」
「御幸と倉持に伝言があってね……って、なに、その情けない面は」
「情けないって! ……な、情けない顔…してる…?」
「そりゃあもう、見てるこっちまで辛気臭くなるくらいには」
「う……」


やはり実の兄だから、ズケズケと遠慮のない物言いに、沈んでいた気分がさらに沈んでいく。そんな私を見た亮にぃはいつものようにくすりと笑うと、「おいで」と私の手を引っ張った。


「へ、あ、亮にぃ? そっちは教室と真反対だよ?」
「いいから」


それっきり亮にぃはなにも言わず、ただ私の手を引っ張りながら階段を上る。そうしてたどり着いた先は三年生の――亮にぃのクラスだった。
普段三年生の教室なんて入らない私の足は竦んでしまうが、亮にぃはそんなの関係ないとばかりに私の手をグイグイと引っ張って中に入った。途端に視線を浴びる私たち兄妹。


「ちょ、亮にぃ!」
「哲、純」


亮にぃが呼んだのは、同じ野球部の人たち。亮にぃ繋がりで私も親しくさせてもらっている。もらっているが、なぜ今この二人を?


「んぁ? おー! なまえじゃねぇか!」
「久しぶりだな」
「お、お久しぶりです」


歓迎ムードの二人に私もホッとなり、とりあえず肩の力を抜く。すると亮にぃは「じゃ、こいつ頼んだよ。」と言ってすぐに教室から出て行ってしまった。
何の説明もなしに置いてけぼりにされた私。「嘘でしょ…」と呆然と呟くと、結城先輩は隣の席の椅子を引っ張って私に座るように促した。


「今日はどうしたんだ?」
「へ? い、いえ! 私も何が何だかわからなくて…」
「じゃなくて! 哲が言いてぇのは、なんでそんな面してんのかってことだよ」


伊佐敷先輩の言葉に、結城先輩は一つ頷く。先輩たちにもわかるくらい酷い顔をしていたか、とペタペタと自分の顔を触ってみるが、やはりわかるはずもなく。しかし、自分がそんなに酷い顔をしている原因はわかる。だって自分のことだ。そこまで鈍感ではない。


「これは…その、私の問題といいますか…」
「ったく、兄貴とは似てねぇなァ! 遠慮すんなよ。俺たちは…その、お前の兄貴分だろうが」


ぽりぽりと恥ずかしそうに頬を指先で掻く伊佐敷先輩に、私は軽く目を見開いた。


「純の言う通りだ。お前が困っているのなら、俺たちは力になってやりたい。…もう一度聞く、何があったんだ、なまえ」


…そう言われてしまえば、もう口を閉じることなんてできやしない。私は滲む視界の中、ぽつりぽつりとゆっくり話し始めた。







話し終えたあと、その場の空気は微妙なものとなっていた。それもそうだ、女子と恋バナをするだなんてきっと二人は今までなかっただろう。


「恋愛に現を抜かしている場合ではない」
「うっ」
「…と、本来なら言うところなのだろうな」


結城先輩はふっと口元を緩めると、まるで兄のように私の頭を優しく撫でた。伊佐敷先輩は「ケッ!」と悪態つくように口を尖らせ、明後日の方向を見やる。


「いいか、なまえ」
「は、はい!」
「御幸は、どうしようもなくヘタレ野郎だ」
「……はい?」


まさかいきなり御幸ヘタレ疑惑が浮上するとは思ってもみなかった私は、目をぱちくりとさせて聞き返す。


「いいから! もうなまえは黙って待っとけ!」
「え? え??」
「あいつも男だ。やるときはやる。」
「ゆ、結城先輩?」


まったく話が掴めない。いったい二人は何を言っているのだろうか。


「あ、っと…ていうか! もうすぐ授業始まるじゃないですか! すみません、ありがとうございました!」


時計を見ればこんな時間。私はハッとなり、二人への挨拶もまばらに教室を出た。


「……なぁ、あいつら…」
「御幸はまだ言ってなかったのか?」
「…みたいだな」


残った二人は、臆病で意気地のない御幸に対して重い重いため息を吐いた。野球では強気なくせに、こういったことではとことん尻込みしてしまうのだから、困ったものだ。
まあ、どうせ今いない亮介が何とかしているだろう。結城と伊佐敷は、実はシスコンな小湊家長男を頭に浮かべ、そっと御幸にエールを送った。


「ふぃ〜、間に合った…」
「おかえり」
「ただいま……って、亮にぃ!」


まさか、あのまま私を置いてこのクラスにずっといたのか! 私はなんの理由もなしにあそこへ置いてけぼりにされた憤りをありのままに伝えた。しかし、さすがは亮にぃ。そんな私の怒りをさらっと受け流してしまう。


「ほら、授業始まるよ」
「〜〜〜っ、もうっ!」
「ふふ、そんなに怒るなよ。可愛い顔が台無しだよ?」
「……可愛くないし」
「可愛いよ。俺が言うんだから間違いない。それとも、お兄ちゃんの言葉を疑う気?」


そう言われてしまえば、私も押し黙るしかなくて。むぅ、と膨れた頬をしゅるしゅると元どおりにさせた。素直な私の態度に亮にぃもにこやかに笑い、結城先輩にされたように頭を撫でて今度こそ教室を出て行った。


「……みょうじ」
「っ……! み、御幸?」


結局亮にぃは何がしたかったのか。もんもんとそんなことを考えていると、突然御幸が話しかけてきた。その不意打ちに私の心臓はばっくばくだ。


「あの、さ」
「う、うん…」


改まった態度に、私の不安も倍増する。なんだろう、何を言われるんだろう。想像すらつかないそれに、もう頭がパンクしそうだ。しかし、そんな雰囲気をぶち壊すかのように授業開始の合図であるチャイムが鳴り響いた。


「……あー、っと……後ででいい?」


さすがに授業をサボるわけにもいかず、御幸に尋ねる。すると彼は「あ゛ーっ!!」と髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱し、眼鏡の奥にある瞳を私に向けた。
御幸の突然の大声に、クラスの視線は私たちに向けられる。な、なにこれ、公開処刑でもされるのかな。


「す、す……っ」
「す?」


なんだ、なんなんだ。
訳が分からず、「す」しか言わない御幸に首をかしげる。するとくいくいと制服の裾を引かれ、私は反射的にそちらを向いた。
そこには、クラスで割と仲のいい男子生徒がどこか焦ったように私と御幸を見比べていた。


「な、なに?」
「…御幸に先越させるのは勘弁だし…、」
「は?」


ボソッと呟いた彼は、私の裾を掴んだままその目を細めた。


「好き」


まるで日常的に使っているかのように、するりと彼は愛の言葉を口にした。そのたった一言に含まれているのは、甘い甘い愛。普段とはかけ離れた表情をする彼に、私は考えることを放棄してしまった。


「あれ? ねー、聞いてる?」
「…へ、あ、いや、え……、」
「あ、だーめだこりゃ。…てなわけで、御幸ー、今日は諦めてくれる?」


にやり、と挑発的に御幸に笑った彼に、私もなんとなく御幸を見た。けれどそこにいたのは、怒ったような、悲しそうな、辛そうな――とにかく、見たことのなかった御幸だった。
どうして、そんな顔をしているのか。目を丸くしてただただ御幸を見つめる私に、とうとう御幸は動いた。とんでもない速さで私の前まで来たかと思うと、ずっと掴まれていた服の裾を彼の手からひきはがすように私を抱きすくめた。――教室の、ど真ん中で。


「み、御幸?」
「………」
「せ、先生来てるよ。席に戻らないと…」
「好きだ」


なんとかこの状況から抜け出そうとする私の言葉を強く遮ったその台詞は、つい先ほども聞いたものだった。
けれど、彼に言われた時よりも信じ難かったのは、なぜだろう。


「……うそ」
「なんでこんな嘘つくんだよ、しかもこんなとこで」
「だ、だって」


なにこれ、実はクラス全員で仕掛けたドッキリ? だとしたら笑えない。むしろ怒るかも。人の気持ちを弄んで! って。
……だけど、きっと、違う。だって御幸、震えてるもん。


「……ほ、んと…?」
「…うん」
「……御幸、好きな人がいるって…さっき言ってたじゃん…」
「…みょうじのことだけど」
「う、うそ…」
「だから、なんで俺がこんな嘘つかなきゃなんねぇわけ?」


だめだ、このままだと延々ループを辿ってしまう。
だけど、どうしても信じられないのだ。御幸が、私を好きだなんて。


「ずっと好きだった…なまえ」


初めて呼ばれた名前。なのに違和感なんて感じない。
ああもう、なに、これ。


「…わたしも、ずっと好きだったよっ…!」


一生言うつもりなかったのに。
勝手に口から滑ってしまった言葉に、御幸は顔を破綻させた。