大学生活ももう3ヶ月が経った。
なまえは新しく出来た友だちと一緒に、カフェテリアで講義までの時間を潰していた。


「ねぇねぇ! 昨日の御幸選手凄くなかった!?」
「凄かったー! まさかあのタイミングでホームラン打つなんて思わなかったよ〜!」
「まぐれかなぁっ!?」
「まぐれでもなんでもいいよー! 超かっこいい〜!」


きゃあきゃあと昨日の試合の話をする友人達を横目で見ながら、なまえは缶ジュースを煽った。
――御幸一也。青道高校野球部でキャプテンを務めあげ、見事ドラフト一位でプロ入りした野球選手であり、今再びジュースを飲んだみょうじなまえの恋人である。


「ちょっと、聞いてる? なまえっ!」
「え、あぁごめんごめん! ぼーっとしてた」
「もー、ほんとなまえって野球興味ないよねぇ。ほら、見てよこの御幸選手! ほんとかっこいい〜!」


隣に座っていた友人が自分のスマホの画面をなまえに見せる。そこには不敵な笑みを浮かべた御幸が映っていた。(うわあ…)と内心苦笑しながら「確かにかっこいいね」と無難な一言にとどめておいた。


「でもさぁ、野球選手って遠い存在だよねー」
「あー、それわかる。高校の時の友達が野球部でも、プロになる人なんて一人もいないもん」
「ま、かっこいいだけのイケメンなら、この学校にも結構いるしね」
「うんうん。たとえば経済学部の水谷みずたに秀人ひでととか! ふつーにイケメンだよね」
「法学部の島崎しまざきういくんも愛嬌のある顔してるよね、私好きだなあ…あーいう人」
「てかその二人って幼馴染みじゃなかった?」
「えっ、そうなの!?」
「多分ね、多分」


ぽんぽんと弾むテンポの良い話に、なまえはうんうんと頷きながらも意識は携帯へと向いていた。
ぴこんとLINEのアイコンに『1』という数字。中を見なくても誰からの通知か分かるのが悔しい。指がLINEのアイコンにまで伸びるが、いきなり友人に話を振られてアイコンをタップする事はなかった。


「で、なまえはかっこいいって思う人とかいないの?」
「いきなりだね…んー、あえて言うなら島崎くん、かなあ?」
「なまえも初くん狙い!? 負けないよ!」
「いや、狙ってないよ! かっこいい人はって聞くから!」
「はいはい。で、何で初くん?」


脱線しかけた話を元に戻され、なまえは悩む。何でと言われても、今さっきまで上がっていた名前を適当に言っただけなのだ。二人とも見た事はあったが、話した事があるのは島崎のみ。だから島崎を選んだのだが…、


「わくわく」
「ねえ! どこがいいのっ!?」


目をキラキラさせる友人に、こんな理由で終わる訳がない。かと言って嘘を言えば後々面倒な事になってしまうのは間違いないだろう。
さて、どうしたものか。半ば諦めモードに入ったなまえだが、突然大きな手に目を覆われて視界が真っ暗になった。


「えっ! ちょ、何!?」
「キャーー!!」
「なんで!? なんでここに、ってかなんでなまえの目を!」
「ずるいずるい! 私にもやって!」


黄色い声を上げる友人達にドン引きながら、なまえはわたわたと慌てて目を覆う手を外そうと試みる。しかし、思っていたよりも簡単に手が離れ、なまえは突然舞い込んだ光に少し目を細めた。
ぼやぼやとする視界の中で後ろを振り向くと、見られた本人はにぱっと明るい笑顔を見せてきた。


「ひさしぶり、みょうじちゃん」
「……あ、れ? 島崎くん?」
「んふふ〜、みょうじちゃんがオレの話ししてたから来ちゃった!」


緩くパーマがかった髪がふわふわと風に揺れる。すると、その頭をぺしんと隣にいた水谷秀人が軽く叩いた。


「何で俺まで連れて来たんだよ」
「いーじゃん。てかぁ、ヒデには話したでしょ? 前に知り合った女の子のこと。それがこの子!」


ぐいっと後ろから両肩を掴まれ、なまえの身体は水谷の前へ。つまり、後ろには島崎、前には水谷といった構図になっている。
いきなりの事で何の反応も出来ずにいるなまえの顔を、水谷はじろじろと無遠慮に眺め出した。


「あ、あの……」
「……ふーん、そこそこいいんじゃね?」
「ヒデの『そこそこ』は『結構いい』って事だから」


補足するように島崎がそう付け足し、ぱちんとウィンクする。「はぁ……」と気の抜けた返事しか出来ないなまえは、テーブルに置きっぱなしにしていたスマホのバイブ音にハッとなり、未だに肩に置かれていた島崎の手を外してスマホを手に取った。
さっきは躊躇ったLINEを今度は迷わず開き、トーク画面へ。そこには静かな怒りの文面が記されていた。


「だぁれ? ともだち?」
「せっかく俺が構ってやってんのに…んなモン見るな」
「そーそ。放置だなんて初くん悲しいっ!」


えーん、と泣き真似をする島崎と、腕を組んでふんぞり返る水谷。だが、なまえはそれどころではなかった。


「あ、彩音っ!」
「なにー? ってか初くん達がいるのにスマホって、」
「午後の講義ってなんだった!?」
「はぁ? えっと…確かミクロ経済学じゃなかったっけ?」
「そうそう! あのおじいちゃん先生の授業」
「なに、学部一緒なわけ?」
「えー、ヒデいいなあ」
「私たち、学部一緒でも授業重ならないからねぇ…」
「秀人くんと一緒に授業受けたかったぁ!」


きゃあきゃあと騒ぐ友人達を他所に、なまえは必死に文字を打ち込む。言い訳がましい返事を送信するが、既読はつくものの相手からの返信はこない。


「(これはヤバいやつだ…)」


怒った、どころではない。ど怒りだ。
あわあわと顔を真っ青にさせるが、突然スマホがブルルッと震えたのですぐに画面を見る。


《そっちに向かってるから》


たったそれだけ。けれどなまえを地獄に落とすには充分すぎる一言だった。テーブルに広げていた私物を慌てて鞄に押し込み、カフェテリアを出ようと友人達に声をかける。


「ごめん! 私帰る!」
「は!? 午後の授業は!?」
「サボる!」
「え〜、みょうじちゃん帰っちゃうの?」
「帰ります…! じゃあ、失礼しま生命を」


す、まで言えずに終わった言葉。何故ならばまた後ろから島崎が、今度は口を塞いだからだ。直に感じる少しひんやりとした手の感触に、なまえはなす術もなく混乱した。


「〜〜〜っ!!?」
「帰んないでよ。ほら、みょうじちゃんと、お友達も一緒にもうちょっとここで話そ?」
「初、」
「ヒデだって仲良くなりたいでしょ〜?」


咎めるように島崎の名前を呼んだ水谷だが、そう言われてしまえばもう何も言えない。まさに島崎の言い分は的を得ていたからだ。幼馴染みである初が気に入った女。それだけで水谷が興味を持つには充分だった。


「てことで、きーまりっ! えっと…彩音ちゃんだっけ?」
「なーに?」
「彩音ちゃん達も俺たちと一緒にいたいよねぇ?」
「うん!」
「てことでほら! なまえも座って!」


せっかく肩にかけた鞄も、友人らの手によって早々とテーブルの上に逆戻り。声を出したいのだが、いかんせん島崎の手が未だになまえの口元にあるため唇を動かせない。
こうしている間にも、刻一刻と時間は過ぎてゆく。ちらりと見た腕時計の針は、そろそろ怒っている彼がやって来る時間に差し迫っている。


「、っ、」
「ん? あぁ、ごめんごめん! …で、ここにいてくれる?」


「イエスなら頷いて、ノーなら横に首振って」と言う島崎に、なまえは考えるよりも先に首を横に振った。
途端にクスクスと笑う島崎。その手はより強く、なまえの口を塞いだ。


「じゃあこの手は離さなーい」
「!?」


無理だ、とぺしぺしと後ろから伸びる腕を叩くが、島崎は楽しそうに笑うだけ。友人らに助けを求めようと目を向けても、ただ羨ましそうに此方を見ているだけ。


「(や、やばいって…! そろそろほんとに時間が…)」


そう思った瞬間、ポケットに入れていたスマホがブーッ、ブーッ、と震える。この長さは電話だ。しかしこの状況では出るに出れない。
やがてバイブは止まる。だがもちろんなまえの心は休まるはずもなく、むしろ心臓がばくばくと激しく波打つ。
基本的になまえは御幸からの電話はなるべく取るようにしている。ということは、今回休み時間だというにも関わらず電話に出なかったのは、『出られない状況』だというのが御幸にすぐ分かってしまうのだ――つまり、なまえが電話に出ずに切れてしまったということは、なまえの身に何かが起きているということ。そう解釈した御幸がとる行動は一つ。――なまえの元へ行くことだ。


「―――っ!」
「え、なーに? 喋っていいよ?」


すぐにその考えに至ってしまったなまえは、今まで以上に島崎の手を振り解こうと力を込めて抵抗するが、島崎には通用しない。それでも必死に抵抗を見せるなまえの耳に、するりと自分を呼ぶ声が入り込んだ。


「なまえ」


ガヤガヤと騒がしいカフェテリア。それなのに、どうしてこんなに鮮明に聞こえるのだろうか。
前からゆったりとした歩みで近寄ってくる男は、つばの広いキャップを深くかぶり品のいい服を身に纏っている。その口元には緩い笑みが。


「え、だれ?」
「なまえの名前言わなかった?」
「なに、なまえの知り合い?」
「てかスタイルめっちゃよくない?」
「あ、思った!」


一歩一歩着実に近づいてくる男のシルエットは、周りにいる女達を虜にしていく。ぽーっと赤く上気した頬に、とろんと蕩けた瞳。それらを一身に受けていながら、男はすべて無視。むしろ煩わしそうに口元の笑みを濃くした。


「なまえ、お待たせ」
「〜〜〜、っ、」
「だれ? みょうじちゃんの知り合い〜? 悪いけど、みょうじちゃんは今から俺たちと遊ぶから無理だよ。ね、ヒデ?」
「あぁ。どこの誰だか知らねぇが、他所当たれ」


しっしっとまるで虫でも払うかのような仕草を見せた水谷に、なまえの顔は青を通り越して白い。
そんな島崎と水谷の態度を気にする様子もなく、男の目はなまえの口を塞ぐ手へと向く。瞬間、辺りの温度が一気に下がったかのように感じた。


「……なまえ」
「(怒ってる……怒ってる…! でも喋れないんだよ! 察してよ!)」
「早く帰るぞ」
「だからぁ、聞いてた? それは無理だって、」


島崎はそれ以上言葉を紡げなかった。一気に間合いを詰めた男が、なまえの口を塞いでいた島崎の手を強引に引き剥がし、なまえをぎゅうっと抱きしめたからだ。