広く閑散とした自宅の廊下を歩きながら、幼い頃の記憶を掘り返していた。
私達はお互いに物心つかない時分にはそれはそれは仲睦まじく遊んだものだ。血の繋がりと近い年齢差ゆえか年も男女の境も関係なく。趣味嗜好が似ていたこともあり遊戯の方向性も同じで、特に自己主張が激しくぶつかり合うこともなく一日の大半をつつがなく過ごしていた。けれど小学校に上がると視界は自然と広けるもので、今まで家の中しか見つめていなかった私の意識は急に外へと向けられるようになる。それに伴い閉鎖的だった交遊関係も幅をみせ、私は気の合う友達と遊ぶために毎日外へと出かけるようになった。特に不思議なことじゃない。小に始まり中高大の学校生活、やがて就職して社会人の仲間入り。誰もがそうやって環境の広がりとともに成長の階段を順当に登っていくものだ。周りに倣い、私もそういうごく当たり前の道順を辿っていたある日のこと、広い玄関のこれまた広い収納棚を開けた時、前日まではきちんと揃えてあったはずの私の靴が忽然と消えていた。お気に入りの靴も、そうでないものも一つ残らずすべてがだ。
家族達のものはあるのに何故私のそれだけがないのか。驚いて、子供の私は必死で家中を探し回ったけれども結局その日は見つからず、友達との約束を反故にして一歩も外へ出ることができなかった。半べそをかく私のためにお手伝いさん達が総出で探索したところ、庭仕事の用具を納めるプレハブ小屋の中でそれらが雑に積み上げられていたのが見つかった。私がそれを見た時には、ちょうど頂上からキャラクター柄の靴がころんと転がり落ちてきて。
犯人はすぐにわかった。私が学校に上がってからというもの、ほとんど相手をしていなかったベルだった。今までよき遊び相手だった姉が突然自分を省みなくなったことにショックを受けたのか、はたまた寂しく思ったのか。わからないけれど何か理由があったのだろう。口で言ってくれれば手っ取り早いのだけど、ベルはあまり自分の本心を語りたがらない。寡黙や口下手というわけじゃなく、寧ろ大人をも黙らせてしまう達者な舌を持っているくせに、それが繰り出してくれるのは実に捻くれたり意地の悪い言葉達ばかり。素直とか正直とかいう単語を母親の胎内に置き忘れて生まれてきたかのようなベルは、結局私や両親が何度問い詰めても靴を隠した理由を明かそうとはしなかった。反省したというよりは、まるで拗ねているかのように口をへの字に曲げたまま、周りが面倒くさがってもういいと匙を投げるまで沈黙を守っていた。
今回もきっと言わないんだろうな。でもこれは文句の一つも言ってやらないと気がすまない。使用人達は皆休みを取り、他の家族も出払って、常でさえ冷めた家内が今日はもう一回り冷たく感じる。床暖房を敷いたフローリングでも冷めきった家庭を温めることはできないらしい。別にいいけど。この温度にはもう慣れた。もはやこの家には何の期待もしていないからいつ独り立ちしてもいいけれど、ただ一つだけ気がかりな事があるせいで私はいつまでもずるずるとここに留まっている。


「電気くらい点けなよ」
「…………」
「ベル」
「…………」


真っ昼間だというのに室内は真っ暗だった。
締め切った窓にはブラインドまで垂れ下がり、外からの光をまるで拒むかのように遮断している。
背中を向け、ベッドの上で猫のように丸くなるベルは無反応。寝ているのかもしれないと思ったけど、薄暗闇の中で少し身じろいだように見えたからあれは多分起きている。引きこもりたがっている空気に構わず電気を点けた。


「…姉さん今日デート行くっつってなかったっけ」
「中止になった」
「へえ、フラれたんだ。御愁傷様」
「違う。行けなくなったの」


誰かさんのせいで。
少し刺のある口調で、先ほどから持っていたある物をベルに向かって放ってやった。無意識に当たらないように配慮した辺り私の中にもまだ優しさが残ってる。
ぽすっ、とベッドの上に落ちたそれをベルは見ない。振り向きもない。興味がないからではなく、それが何であるのかを知っているから。
今日のため、着ていく服に合わせて仕立てたオーダーメイドの靴だった。引き取った時はぴかぴかで傷一つない完璧な仕上がりだったのに今は見るも無惨な姿だ。カッター、ナイフ、包丁?種類は区別できないけどとにかく刃物的な何かでズタズタに切り裂かれ、もう二度と陽の目を見ることができなくなった。まだ卸したばかりで一度も履いていないのに。
それだけならまだしも、玄関に出していたものも棚に納めていたものも全て同様な有り様だった。これでは出かけたくても出られない。


「オレ知んないよ」
「何でこんな事するの」
「だから知らないって」
「ベル以外に誰がいるの」
「いるじゃん、ほらもう一人。タチの悪い目障りな奴が」
「ジルはこんなことしない」
「ふーん。あいつのこと庇うんだ」
「庇ってるわけじゃない。でもあの子は」
「やめろ、やめろよ、聞きたくない。結局姉さんもあいつの味方かよ」


耳を塞いでますます小さく丸くなるベルを見ると、言いたかったたくさんの言葉が喉に引っ掛かり、結局そのまま飲み込むはめになってしまう。

味方、そう、ベルには味方がいない。
一卵性の双子として生まれたにも関わらず、父母は早いうちから兄のジルばかりを愛でていた。きっかけはジルが初めて一人で立ち上がった時。言葉を口にしたのもジルが先、大人の言っていることを何となく理解し始めたのもジルが先。そうして幼い頃から、微々たる優劣の差が積み重なった結果、ベルはジルよりも劣った存在として見なされていた。何をやっても二番手で、何をやってもジルより下。拗ねることすら徒労になったベルはやがて諦め、頑張ることすら止めてしまった。両親が偏差値の高い高校へ双子を受験させると決めた時、もちろんジルは期待に応えて合格した。ベルはそうするだけの実力を持ちながら、わざと手を抜いて両親を落胆させた。もうジルと比べられるのは懲り懲りだったのだろう。思えばあれがベルにとって初めての反抗だった。
そうして、一度道を違えてしまった後は、まるで坂道を転がり落ちるかのようにベルは堕落街道を突き進んだ。不良が集う高校に通い出し、あまり品行が良いとは言えない友達とつるみ始めた。たまにしか帰らないけれど、我が家の敷居を跨ぐ時には必ず返り血のついた制服をだらしなく着崩している。暴力沙汰を起こすのはお手のもので、警察署から自宅に電話がかかってくることも少なくない。
当然、典型的な教育主義者の両親は顔を歪める。なぜベルがそうなってしまったのか、根源を考えもせず責めるばかりだ。しかも必ずジルを引き合いに出してくる。特進クラスで学年トップ、本性はどうあれ、親にさえ物分かりの良い優等生を取り繕っているジルの名を出してはなぜ兄さんのようにできないのか、と。兄さんはできるのに何故あなたはできないの、と。
最悪すぎて笑えもしない。まさに、幼い頃から耳にたこができるくらい聞かされていたそのフレーズが、ベルを堕としている一番の理由とも知らないで。
両親がジルを可愛がっていたからか、私は必然とベルを可愛がってきた。実際どちらが好きかと問われたらベルと答える。ただジルを好きなのも本当で、私からしたらどちらも可愛い弟なのだ。
ベルはそれが気に食わないらしい。


「あいつと飯食いに行ったんだって?」
「学校帰りにたまたま駅で会ったから」
「オレが誘った時はすげなく断ってくれたじゃん」
「あの日は用事があったんだよ」
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「そうやって遠ざけてんだろ」
「ベル」
「そうやって離れていくつもりなんだろ。姉さんもさ、あいつらと同じこと思ってんだろ。回りくどいことせずにはっきり言えよ。なあ。お前なんか嫌いだって、出ていけって、死んじまえって言えばいいだろ」


そんな事言わないし、思ったことすらない。でも私以外の家族はそう思っているし口に出すことも躊躇わない。出ていけ、お前なんか家族として認めない、この恥さらしが。いっそ死んでくれたらどんなにいいか。
明らかな侮蔑と嫌悪の籠もった視線を受けながら、ベルはいつも何を想っているのだろう。きっと両親に対する期待はとうの昔に潰えているはずだ。頭の良いベルは無駄なことはしないから。ジルなどはもう天敵以外の何者でもないから大論外だ。
では私は?私はどうなんだろう。時々聞かせてくれる、おっかないボスやらうるさい先輩とやら程度にはこころのどこかに住まわせてくれているのだろうか。
ううん、違う、わかってる。わかってるよ本当は。ベルはちゃんと私に合図を送ってくれているよね。決して口に出しはしないけど、正しいとは言えないやり方だけど、昔からベルなりのやり方で気持ちを伝えてくれているよね。ナイフで靴を裂くという猟奇的な行為の裏側に、世界でただ一人信じられる肉親への、側に居てほしいというけなげな本音が込められている。
いかないで。ほったらかしにしないで。
どこにも行かないでオレだけを見て。
目の前のベルとあの時の幼いベルの面影が重なった。幼稚で、拙くて、ひねくれてでも切実な訴え方はまさしくベルに相応しい。

怒るつもりでここへ来たのに、逆に哀しい愛しさが込み上げてきたのはなぜだろう。
そっと傍らに腰を沈めてベルの頭を撫でると、まるですがり付いてくるかのように膝に頭を乗せてくる。金色の頭が具合よくおさまるのは、昔からそこが自分の定位置だと知っているからだ。


「ベルがすきだよ」
「…………」
「嘘じゃないよ」
「…知ってる。本当はちゃんとわかってる。でもさ、あいつが姉さんと遊んできたって自慢してくるし、男と付き合い始めたとか言うし。オレそんなん聞いてなかったし」
「ごめんね。今度一緒にどこか行こうね」
「ん」
「彼氏とも別れるから」
「別にそこまでしなくていいよ」
「嘘でしょ」
「まあね。つか姉さんも別れるくらいなら最初から付き合うなよ」
「誰のせいだと思ってんの」
「オレのためだろ。姉さんが世界で一番大事なのはオレだもんな」
「今だけだよ。ベルにいつか大切な人ができるまでの間だけ」
「そんなのできるわけないじゃん」
「好きな人とかいないの。彼女欲しいとか思わない?」
「いらねーよ。興味ないし」
「それじゃあいつまで経っても姉離れできないじゃん」
「するつもりないし」
「じゃあ私はいつになったら彼氏が作れるの」
「作らなくていいよ。オレがいるから」


オレは姉さんさえ居てくれればそれでいい。
別人のような台詞に耳を疑いとっさに返事ができなかった。よもやベルの口からそんな可愛いげのある台詞が聞ける日が来ようとは。
照れ隠しなのか、ベルは膝に顔を埋めてちょっと寝ると宣言し、本当に寝息を立て始めてしまった。
華奢でも男の子に変わりはない、身長も腕力も今では到底敵わぬくらいに成長したはずなのに可愛い寝顔だけは昔のままだ。

こうやって、どんどん離れられなくなっていくのだ。私が私のためだけの私になるには、この子を突き放さなければならないと解っているのにそれが出来ない。
疎ましく窮屈に思う裏側で、このきつすぎる枷を愛しているのも確かだから。
行き過ぎた束縛を心のどこかで心地よく感じている私は、少し頭のどこかがおかしいのかもしれない。





いとしき

by 獣


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -