なまえ様は破水なさっていた。

警備と設備の整った最奥の部屋になまえ様は運ばれた。スクアーロ隊長がこの時のためにと用意されていた部屋だ。24時間体制で詰めていた医師たち、そして最新機材さえあれば何も問題はないだろうと俺達は思っていた。女の匂いにすら乏しいこの部隊、妊娠には無知に等しい。殺すのは得意だがその反対は専門外なのだ。

やがて分娩室の扉が開いた。案外早く終わったのだなと腰を浮かせた俺達だったが、開いてから閉まるまでの小さな間に、中から聞いたこともない悲鳴が聞こえた。拷問にでもかけられているのではと疑うような悲鳴、それがなまえ様のものだと最初信じられなかった。苦い顔で出てきた医師曰く、なまえ様は破水なさっておられる(というのだが俺たちにはそれがどう悪影響を及ぼすのかがわからない)らしく、難産で、母子共に命が危うい状態なのだという。もともと30をいくつか過ぎた方の初産なので、多少のリスクは覚悟しなければならなかった。加えてなまえ様は、妊娠を知らずに身体に負担ばかりかけてきた。その影響が今この瞬間で表れてしまった。

医者は言った。このままでは二人とも危険であり、なまえ様とお子様のどちらかを選ばなくてはならないと。助けられるのは一人だけ。
まさかの選択に迫られたボスは、問われてすぐには返答ができなかった。一度は母子共に死を免れたが、そんな奇跡が二度も起こるとは思えないし、奇跡に頼った儚い賭けになまえ様とお子様の命を危険にさらすわけにいかない。


「本人はどっちだと言ってる」
「女性はこういう場合、必ずと言っていいほどお子様を選ばれます。なまえ様も例外ではございません」
「フン。社会一般の女に当てはまる要素があいつにもあったのか」


ご冗談めかしておられたが、ボスがいつになく緊迫なさっていることは全員見てとれた。そして彼がどう答えるのかも。
もともとボスは父親になる自覚を持っていらっしゃらなかった。今もないのではなかろうか。なまえ様と並ぶ未来は想像していたが、その間に自分たちの子どもが挟まれているイメージはなかっただろう。となれば、この方がどちらかを選ぶなどわかりきっていた。
案の定ボスはもうすぐ自分の妻になる女性を選んだ。すると医者が、なんとも言いにくそうに、額に冷や汗を浮かべながら言った。


「あの、実はなまえ様から、もしザンザス様がそうお答えになったときはこう伝えるようにと、御伝言を言付かっておりまして…」
「なんだ?」
「は。それがその…まことに言いにくいのですが、一言一句違わずにお伝えしろと仰られますので、どうかお気を悪くなされませんよう」
「だからなんだ。勿体ぶってねえでさっさと言え」


それでもまだ医者は言いにくそうに迷ったり唸ったりしたが、ボスの右手に不穏な光が集まっていくのを見て、あわてて口を開いた。


「“このボケナス”」
「…………」
「“勝手に子どもを殺してみろ。結婚なんかしない。ヴァリアーからも出ていく。一生あんたを嫌いぬいてやるから覚悟しろ!!”――…とのことです。…はい」
「…………」


ボスの眉間がぴくりと痙攣した。
幹部の皆様が一斉にボスを見た。
今まさに死にかけているというのに、相変わらずというか、やっぱりなまえ様はなまえ様である。

しばらく無言が続いた。医者は大量の冷や汗をかきながら、首を竦めてボスの顔色を伺っている。スクアーロ隊長が、なんとも言えないお顔でボスに問いかけなさった。


「…うお゛ぉい、ボス」
「あの女」
「ん゛?」
「さっき言ったこと、もう忘れてやがる」


何があっても、どんなに非道い男でも、決して死ぬまで離れるな。そう誓わせたはずなのに、もう結婚しないとか出ていくとか言いやがる。果ては嫌いぬいてやるとまで。


「言うなっつっただろうに」
「ボス?」
「…もういい。腹ん中のを優先させろ」
「なっ、いいのかぁ!?」
「本人がああ言ってんだから仕方ねえだろ」
「だがあんたにはなまえのほうが大切なんだろ。生きててほしいんだろぉ」
「さあな。死ねばいいと思ったことなら何度もあるがな」
「おい、不謹慎だぞぉ!!」
「うるせえな。俺のものにならねえなら死ねばいい」


ガキを切り捨ててなまえを生かしても、なまえが俺から離れるなら意味がない。それは死なれんのとなんら変わりねえ。だからガキを選ぶ。もともと生命力で言えばガキよりなまえの方が半端無い。あのバイタリティーの権化みたいな女がそう簡単にくたばるわけがない。それなら、弱いガキに救いの手を差し伸べて、あいつに死の縁から自力で這い上がらせる方が勝算が高い。
仮にも自分の好きな女性をくたばるだの権化だのとひどい表現である。しかし、「好きだ」とか「愛してる」とかいう単語を一つも使わずに、ああそんなに好きなんだなと思い知らされるようなお言葉だった。そして信頼も。普通、そこまで好きな女に「隣にいないなら死ねばいい」など本気で言えない。切り捨てる決断などできない。今までなまえ様が切り抜けてきた修羅場の数、死地から生還してきた数、そこにボスの度胸がプラスされてこれだけの決断が成されたのだった。
スクアーロ隊長は呆れたように笑った。きっと敵わないと思ったのだろう。それからはもう何も言わず、ボスの判断に従った。

医師が戻り、また待ち時間が続いた。今度のはさっきと比べて重く辛い。なまえ様の御命の危うさを知らされたせいで、最初のような楽観視ができなくなったからだ。
いつものように軽口を叩くでもなく、フラン様は大人しく椅子に腰かけられていた。たまに足をぶらつかせる。そんな後輩に暇さえあればちょっかいをかけるはずのベル様も、長椅子に行儀悪く寝そべって天井を仰いでおられる。もしかしたら寝ておられるのかもしれないが、例のごとく長い前髪のせいでわからない。こんな空気の中で寝ていられるとしたらかなりすごい。レヴィ様は腕を組んだまま瞑目され、彫像のようにぴくりともせず、ルッスーリア様は静かにお茶を飲んでいらっしゃる。隊長は椅子と扉を行ったり来たりされていた。扉の前で待ち、まだその気配がないとわかると椅子に戻ってため息をつく。そしてまたしばらくすると扉の前に行く。その繰り返しだ。
ボスはいつものようにテーブルに足を乗せ、玉座のような椅子の上でゆったりとくつろいでおられる、ように見えた。しかし右手の人差し指がトン、トン、と一定のリズムで肘掛けを叩いている。いつもはこんな仕草などなさらない。心の内側にある、絶対に拭いされないかすかな恐れが小さく表に出てきてしまっているようだった。
上の方々がそうなので、隅で待機する俺達はもっと緊張していた。息の吐き吸いの音にも気を遣ってしまううくらいだ。沈黙が怖すぎてこのままでは心臓が保たない、情けないが本当にそう思った。
気のせいかなんとなく視界が霞み始め、やばい、本当に倒れるかも…というとき、分娩室の扉が開いた。再び聞こえた叫びに意識がはっとする。しかし今度の声はなまえ様のものではなかった。


「生まれました、ザンザス様、生まれました!おめでとうございます、元気な女の子でございます!」


興奮した看護師が、血にまみれてぎゃあぎゃあ泣いている赤子を抱いて飛び出してきた。幹部の皆様が一気に椅子から立ち上がり、看護師の腕の中身を見ようと駆け寄っていく。


「やったわ!おめでとうボス!」
「よく泣いてんなー」
「赤ちゃんですからー」
「ボスに似ている。あいつじゃなくてよかったな」
「うお゛ぉい、こんなしわくちゃじゃまだ誰に似るとかでも…」


ねえだろぉ、と隊長がボスを振り返ったが、ボスは赤子には目もくれずに彼らの横を通りすぎた。あまりの速さに幹部の方々はなにも言えず、ボスが分娩室に入っていったのを見送ってからはっとする。


「…い、…なまえ!!」


すぐに中からボスの焦ったような怒声が聞こえた。
全員の脳裏に悪い予想が浮かんだ

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