あやかしあかし | ナノ
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現代から何百年も前の時代、ある城下街にとある武家の住む屋敷があった。
そこに連れて来られた子犬が初めて出会ったのは、一人の娘だった。
絹糸のような黒髪を赤いリボンで高く結び、凛々しく麗しい顔を緩め、しなやかな手つきでその子犬の頭を撫でる。
「中々良い顔付きだな。今日から此処がお前の家だ」
放たれたのは透き通るように美しく、かつ一本芯が通ったような力強い声。
その娘は見事なまでに完璧だった。


その武家に飼い犬としてやって来てから数日後、子犬に名前が付けられた。
「幸村。お前の名だよ」
きょとんとした子犬の頭を撫でながら、娘は続ける。
「立派だろう?私の弟が元服した暁に貰うはずの名だったんだ」
その手が止まると、子犬…幸村は娘を見上げた。太陽の光が降り注ぎ逆光となったその表情はよく分からない。
「…生きていたら、きっとお前を可愛がっただろう」
ただ、沈んだ声色が彼女の心根を彷彿とさせた。
幸村は聡い犬だった。娘の手に鼻をこすりつけ、慰めるようにくぅんと鳴く。
「いい子だね、お前は」


* * *


それから幸村と娘はいつも一緒だった。毎日近場を散歩し、店を覗き、庭ではしゃぎ、疲れた後は飯を食べて眠る。
娘の部屋を守るように丸くなる幸村を見て、屋敷の者達は皆顔を綻ばせた。
「ほら幸村、今日はあの甘味処へ寄って行こう」
娘が座すと、それに習って幸村も伏せる。運ばれてきた団子を美味そうに頬張るのを丸い瞳がじっと見詰める。それに気付いた娘が、一本串を取った。
「お前も甘味が好きなのか?ふふ、似た者同士だな」
団子を一つ、幸村の前に落としてやると、用心するように鼻を鳴らした後食いつく。初めての感触に戸惑う幸村を見て、娘がからからと笑う。
「お嬢様、犬に団子をやるのはいけませんよ」
「あら、それはまずかった」
もちもちするそれに四苦八苦していた幸村は、しかしなんとか飲み込んだ。そして尻尾をご機嫌に振って、物欲しげに娘を伺う。
「なんだ、やっぱり好きなんじゃないか」
いたずらっぽい笑みを向ければ、従者の男は呆れた溜め息をつくのだった。


* * *


何年もの時を共に過ごし、幸村は立派な成犬へ育ち、娘もより美しくなった。
「幸村。こいつをお前に送ろう」
幸村の首に、苦しくないよう緩く巻かれたのは、燃えるような赤い布。鉢巻きのように長いそれは、風に吹かれてひらりと揺れた。
その姿をじっくり眺め、娘は大きく頷いた。
「よく似合ってるじゃないか。お前ももう大人と言えるくらい育ったからな、その祝いの品だ」
大切にするんだぞ?と頭を軽く叩くように撫でる。
「私とお揃いだ。赤は私が好きな色なんだ。命溢れる美しい色だろう」
幸村は嬉しそうに目を細め、元気な声で返事をした。
娘と幸村は互いに離れようとしなかった。どんなときも、どこへ行くにも共にいた。二人の間は、もはや家族よりも固い絆で結ばれていた。


しかし、別れは唐突にやって来る。
「…こうしてお前を抱くのも今日が最後だな」
娘の腕の中、大人しく抱かれた幸村が、小さく鼻を鳴らす。
「お前も立派になったなぁ…ずっと一緒にいたかったけれど、もう行かなくちゃ…」
震える声を押し殺し、娘が立ち上がる。幸村は座ったまま、丸い瞳で娘を見上げた。
真っ白な衣装に身を包んだ彼女の、赤い紅が妙に印象的だった。
幸村は聡い犬だった。娘が悲しそうな目を向けても、必死に引き留めようとはしなかった。
娘が歩き出す。幸村に背を向けて。幸村は見詰める。娘は振り返らない。
やがてその姿が見えなくなると、弾かれたように幸村が立ち上がる。悲痛な声できゃんきゃんと吠えるが、その声は届かなかった。


娘が嫁いでいった翌日、屋敷から幸村の鳴き声が消えた。昨日あれ程喚いていたのに、ぴたりと止んでしまったのを不思議に思い、使用人達が屋敷中を探し回ったが、誰一人として幸村の姿を見付けることが出来なかった。娘と共にいた時は、片時も側を離れなかった犬。
幸村は、屋敷に二度と戻らなかった。


* * *


走る。走る。
足がちぎれる程に。
荒い道を駆け抜け、橋を渡り、草村を掻き分けて。
幸村は走っていた。
道行く人々が驚いて振り返っていたが、その目ももうない。人影の無くなった薄暗い林へ、なんの躊躇もなく飛び込んだ。
幸村の背を、何かが追っているのだ。薄ら寒いような、どす黒いような何か。
それに掻き立てられるままに、道なき道を走る。
幸村の主は、たった一人。
例え娘に捨てられたとしても、例え娘と離れ離れになってしまっても、幸村は、娘を慕い続ける。
だからこそ、走っていた。


やがて、林に犬の大きな声が響く。
牙を剥き出して唸る幸村の前には、汚らしい身なりの男達。手にしているのはぼろい刀。
それと、真っ白な上質の布。うら若き乙女が憧れるような雅やかな櫛。
「野犬、じゃあねえな。随分綺麗にされてんじゃねえか」
「ヒッヒ、憂さ晴らしにゃあちょうど良いかぁ?」
「おいおい、さっき晴らしたばっかだろうが」
下卑た笑みを浮かべた男がちょっと後ろを振り返る。
「嫁入り前の綺麗な女になぁ?」
足の隙間から見えた。地面に広がる美しい黒髪。
白い肌に広がる、無数の赤。紅。朱。緋。
赤は、美しい色だ。命溢れる、美しい色。
命が溢れ、溢れて、こぼれ落ちた。
幸村が、地を蹴った。
「ぎゃあぁぁあ゙あ゙?!!」
男の金切り声が、ごぼりと泡の音に変わる。口から血反吐を零し、巨体が倒れる。
一人目の喉笛を噛み切った幸村が、続いて飛び掛かる。
「この…ぎゃっ!!」
幸村の足が、二人目の顔を踏み潰す。
「ヒィッややめッ!ごばっ」
骨の砕ける嫌な音が響いた。
無残な顔面を曝した男から降り、幸村が振り返る。その顔には、紅い化粧が施されていた。
「う、うああああああ!!!」
残った男の内一人が、小さな瓶を投げた。
それは幸村の左にそれ、地面にがちゃんと音を立てぶち当たった。
途端、燃え盛る炎。
幸村が驚き怯んだ瞬間に、もう一人の男が刀を突き刺す。
苦痛に叫ぶ幸村。
その隙に、二つ目の火炎瓶を投げ付けられた。
「!!!」
一瞬にして、幸村の体が炎に包まれた。
甲高い鳴き声を上げて跳ね上がり、地面に崩れ、苦悶に頭を振る。だが、やがて力尽きたように動かなくなった。
男達が、安堵のためか震えた笑い声を漏らすのを、炎の向こうで見留めた。


嗚呼、熱い。熱い。
この熱は、何なのだろう。
体の内側から焦がすようなこの熱は。


「ひ、ぅひいぃあ?!!」
「ば、バケモンだあぁ」
男共の怯えた声を、何処か遠くに感じていた。
幸村は、火だるまのままゆらりと立ち上がると、腰を抜かしている男に飛び乗る。火が男に移り、脂の燃える臭いが立ち込める。腕を振り回して幸村を退けようとするが、がっちりと足を掛けられ、逃れることは出来ない。
気味の悪い断末魔を叫ぶ男を見下ろし、幸村は考える。


これは怒りなのだろうか。
これは憎しみなのだろうか。
それともこれは、悲しみなのだろうか。


逃げ出した最後の一人の背を睨むと、その男は不自然な体勢でびきりと固まる。
叫ぶように息を吐いた幸村。その口から出た空気に火が付き、それは男の体を焦がした。化け物のような声を上げ、男が倒れる。
体の火が草に移り、草の火が木に移り、やがて辺りは火の海と化した。燃えていく林の中、動くのは幸村だけ。
全身を覆っていた炎は、幸村の中に吸い込まれるように消えた。体の何処にも傷などついていなかった。
幸村は静々と歩く。
やがて、彼女の前にたどり着くと、その側にそっとしゃがんだ。
瞳を閉ざした娘は、とても美しかった。白い肌も、整った眉も、少し掠れた紅の乗った唇も、白魚のような手も、全て幸村の記憶のままだった。ただ、もはやその頬に桜色が宿ることはないのだ。
幸村が人の手を持っていたならば、その衣服を丁寧に直してやれただろう。だが、幸村は犬だった。
そう、今まではただの犬だったのだ。体の中に燈る火が、最早己がただの犬で無くなったことを幸村に示していた。
林が音を立てて燃えていく。炎が二人を包んでいく。木がめきめきと軋みながら崩れていく。
幸村は娘に寄り添ったまま丸くなった。
いつものように、二人で眠るように。
どうか最後まで、娘と共に。
願うように、瞼を閉ざした。


この熱は、何なのだろう。
体の内側から焦がすようなこの熱は。
これは怒りなのだろうか。
これは憎しみなのだろうか。
それともこれは、悲しみなのだろうか。
いや、違う。
これは、この燃え盛る想いは、怒りよりも憎しみよりも、ただ大きな恋慕だった。
もしも己が人であったなら、助けることが出来ただろうか。もしも己が弟であったなら、引き留めることが出来ただろうか。もしも己が彼女を愛することが出来たら、彼女を幸せに出来ただろうか。
嗚呼どうか、人を憎む心だけは生まれないでほしい。
己が愛したこの人は、こんなにも美しかったのだから。


* * *


後日屋敷に、嫁ぎ先への道中、娘が族にさらわれたという知らせが届く。
燃えてしまった林の中で、娘の櫛だけが美しいまま見付かった。






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今度こそ、守れますように。
2012.2.10