"希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである"
と、どこかの作家が言っていたが、今のエグジーもまさに希望……ではなく当惑に満ち溢れていた。
午後1時、パリ、リヨン駅構内。
鳥の巣にも似た鉄骨製のアーチの隙間から降り注ぐ木漏れ日のような光を見上げながら歩いていたら、ガタゴトと転がってきた革製のトランクに足を引っ掛けてしまい「おっと、失礼マダム」と老婦人にキスを投げて、エグジーは人混みの中を進んだ。
彩り鮮やかな旅人たちの装いの中から、まるで定規でも差し入れているかのようなすらりとしたチャコールグレーの背筋を探し、指先まで目一杯伸ばして捕まえて、彼の耳元にねぇと呼びかける。
「そろそろ行き先、教えてくれてもいいんじゃないの」
腕を掴んできたエグジーの手をトントン、と叩いて落ち着きなさいと示してから、ハリーは「もうすぐ着く」と告げて悠然と歩き続けた。
本部の書斎でデスクワークをこなしていたハリーが「一緒にランチに行かないか」と突然言い出したのはほんの三時間前のことだった。
任務を終えシャワーを浴びたエグジーを包んでいた心地よい疲れと眠気は、その一言でどこかへと消え去り、噛み殺そうとしていたあくびも一瞬で引っ込んだ。 呼び出されて直ぐ様ハリーのデスクに目をキラキラさせながら詰め寄り、
「それってデート?」
「解釈は君に任せよう」
「じゃあデートだ!」
はしゃいだ拍子に書類とメガネのレンズに水滴をまき散らしてくる生乾きの髪に眉をひそめて、エグジーの首にかかっていたタオルでわしわしと頭を拭いてやってから、ハリーはうっそりと溜め息を吐いた。
「スーツを着ていないと、君はすっかり君だな」
「それって褒めてる?」
「褒めてないが、」
悪いとも言っていないよ、とふわっと笑うハリーにエグジーは耳が熱くなるのを感じて、そっぽ向いてタオルに顔を埋めて深呼吸した。 不意打ちとかずるすぎるし心臓に悪すぎる!と心奥で喚き散らして、どうにか平静を取り戻してから、
「もう準備した方がいい?」
残りの書類に目を戻しながら頷いたハリーが「スーツで来なさい」と付け加える。 ドレスコードだろうか?
それに了解と敬礼をしてから、エグジーは踵を返した。浮かれる気持ちを押さえ切れずに書斎を出て廊下を駆け足で走っていると、クリップボードに目を落とすマーリンと曲がり角でぶつかりそうになる。
「わぁ!ごめん!マーリン!」
「何をそんなに急いでいるんだ」
「ハリーとデ、……ランチ!」
「ランチ?」
口を滑らせかけて胃の底の方がひやっと凍えた。マーリンにはまだハリーとの関係を打ち明けていなかったが、しかし心なしか察知されている気配がしなくもない。 いつかちゃんと報告しないとなぁ、と思いながらじゃあね、と怪訝そうなマーリンに手を振ってエグジーは更衣室へと足早に向かった。
それからハリーの言う通りに静々と行動していたら、いつの間にかパリにいた。
ほぼ三時間、海峡を渡る列車に揺られている間もハリーは書類の束を矯めつ眇めつしたり、頻繁に座席を立っては煙草を喫みにいったりして、エグジーの質問にはほとんど取り合ってくれなかった。
何を企んでいるんだろう?確かにランチって言ったよね?
あれこれ考えるのも不毛になって、しかしまんじりともせず当惑を抱えたまま黙り込んでいたエグジーだったが、リヨン駅のホームに着いて流石に再び尋ねたのだった。
もう着くって近いってことか?
以前訪れたことがあるのか、淀みなくすたすたと歩くハリーとは対照的に人の群れに揉まれがちなエグジーだったが、人垣を抜け少し開けた階段の前に辿り着いて、一度ふうっと詰まっていた息を解いた。
ハリーは辺りを静かにぐるりと見回すと、
「マーリン、この通信チャネルにエグジーを追加してくれ」
まーりん?今マーリンって言った?
狼狽えている間にも耳に呼びかけが届いて、エグジーの困惑はさらに強まる。
その動揺を感じたのか、マーリンが溜め息まじりに、
『エグジー、状況は理解しているのか』
「さっぱり」
『……ガラハッド』
「下手な予備知識はなくてもいいと思ったんだ」
と、責めるようなマーリンの声音とじっとりとしたエグジーの視線を、悪びれもせずにひらりとかわしてこちらへ、とハリーは階段を上って行く。
その後を追いかけながら、エグジーの困惑は怒りへと移ろい、そして落胆に変わる。
ハリーの嘘つき。デートって言ったじゃんか。……違うや、俺が勝手に浮かれてただけだった。
と、しょんぼり俯きながら階段を上っているとハリーの背中にぶつかって、うぐっと息が詰まり、反射的に顔を上げると、そこには古めかしい回転扉とけばけばしいネオンサインというギャップに溢れたエントランスが待ち構えていた。
ショッキングピンクとブルーに輝くネオン管を目で追いかけて、
「ル・トラン・ブルー?」
記憶の片隅にひっかかる名前だがどこで聞いたのか思い出せなくて、エグジーは小首を傾げて険しい表情になった。
そんな姿をハリーは数秒見つめてから、「入れば分かる」と回転扉へエグジーを導く。
ーー室内はまるで別世界だった、という表現は些か陳腐だろうか。それでも、あらゆる調度や彫刻品は黄金色に絢爛豪華に艶めき、様々な時代の絵画が天井と壁をずらりと埋め尽くしている。レストランらしからぬ内装。これを別世界と言わずしてなんと言おう。
溜め息を吐きながらテーブル席に腰掛けて一つ息をついて、エグジーはあっ、と小さく声を上げる。
「ニキータ、」
あの日試着室で問われた映画だ。「プリティ・ウーマン」「大逆転」それから「ニキータ」、見ようと思って先延ばしにしていたけれど、先日ハリーを巻き込んで鑑賞会をしたのだ。「以前このレストランで食べたカフェ・グルマンはなかなか良かったよ」ーー
本当にロケ地として使われたんだろう。駅の構内にあるとは知らなかった。
ハリーはウェイターに料理を注文してから、グラスに注がれる水にすら見蕩れているエグジーに、
「みっともないから口を閉じなさい」
ぽかん、と開いていた口を慌てて閉めて、でも滲む笑みを隠し切れないままそわそわと周囲を見渡した。
客入りはぽつぽつとしており、細波のような話し声が響いている。二つ離れた左手の席の若いカップルがかき混ぜるエスプレッソの香り、右手には老人が捲る古書のインクの匂いなども相まって、”平日の穏やかな午後”とラベルをつけて瓶詰めにされていそうな和やかな空気がホールには流れていた。
煌びやかなシャンデリアを眺め、腰掛けていた青い革張りのソファを撫でてから、エグジーはくいっと片眉を上げてミネラルウォーターのグラスを傾けているハリーを見つめた。
「……箱に入った銃を贈りつけたことってある?」
映画の主人公となぞらえた"絶望"が訪れやしないかとつい危惧してしまう。
『彼が贈らずとも、私が贈ろうか』
眼鏡から響いたマーリンの硬質な声音にエグジーははっと背筋を伸ばした。
そうだ、雰囲気に呑まれて忘れかけてたけどただのランチじゃなかったんだ。
マーリンのブリーフィングは、要約するとつまり偵察であった。
水面下で近頃活発化しているテロリスト集団に資金援助をしている疑いがある気鋭のIT会社の若社長を探れ、とのお達しである。
「こんなとこでランチミーティング?」
『カリスマ性の為には自身のブランディングも重要だからね』
「俺だったら話に集中できないよ」
「君は食事を楽しんでいなさい」
「うん。それなら得意」
ターゲットは窓際の日当りの良い席を使うのがお決まりらしく、偵察と盗聴は座席の位置としてもハリーの役目だった。エグジーはハリーのカモフラージュとして彼の食事相手を自然に務めていればいいだけである。完全に"おまけ"の要員だ。ハリー単独でも充分なミッションなのに、彼が声を掛けてくれたのはそれこそ善意、なのだろう。
嬉しくなってだらしなくにやけてしまいそうになる口元に力をこめてこらえていると、マーリンが標的の訪れを告げた。
それと同時に料理が届く。一口サイズずつ盛られた鮮やかな前菜の数々に、エグジーはハリーに食べていい?と許可を得るように目配せをした。ハリーがこくりと頷いたのでナイフとフォークを取る。
カシスとビーツのゼリー寄せ、夏野菜のコンフィ、鴨とイチジクのタルト、フェンネルと鯛のマリネ。
ハリーから教え込まれたテーブルマナーはすっかり身に馴染できて、余裕が出ると料理の味にもよく集中できるんだなとエグジーは感嘆しきりだった。
自然な動作の中でターゲットを監視しているハリーと、最近はとんと晴れ間が無いだの、政治家の着服は許してはならないだの、近所の煙草屋にお気に入りの銘柄が入荷しないだの、と取り留めのない世間話をした。
その折にふとエグジーはメインディッシュの鶏のローストにナイフを入れる手を止め、ぽつりと漏らす。
「俺たまに思うんだ」
「?」
「これが夢だったらどうしようって」
朝起きて、目蓋を開くのがたまらなく怖いことが稀にあった。今までのこと全て、寝ている間に脳が魅せてた心地よい幻だったら?って。
それだけ失うのが怖いくらい毎日楽しいってことなんだろうね、とふにゃりと笑うエグジーに、ハリーは何かを考えるように目を細めてから、
「左手で頬をつねってみなさい」
「こう?」
言われた通りにエグジーがぐいっと頬をつねると、口の端についていたオレンジソースに触れて気がつき、あー…とばつが悪そうにナプキンで口を拭う。
ハリーはふっと笑って、静かに囁いた。
「夢じゃないさ」
料理はどれも美味しく、それでも一番楽しみだったデザートのプレートをエグジーがそわそわと待っていると、ついとハリーが眉間に縦皺を刻んだ。
ターゲットの唇を読んでいるのかなとエグジーは振り返りたくなる気持ちをこらえて、かすかに動くハリーの唇を見つめていたのだが、彼の背後に不穏な気配を感知して視線をそらす。 と、厨房の方向から場に不釣り合いな、武装した黒服の男三人組がぞろりとホールに流れ出でるのが見えた。
エグジーはマジかよと目を見開く。
「ハリー、」
か細く呟くもハリーはターゲットに視線を縫い止められているらしく、反応が薄い。 どうしよう、とお腹がいっぱいで偏りかけてた血の流れを必死に頭に巡らせながら、エグジーが拳をぎゅっと握り込んだ時だった。
がちり、と硬質な音、こめかみに冷たい金属の感触。
左手で談笑していたはずのカップルが、いつの間にか冷めた瞳でハリーとエグジーを見下ろしながら、銃を突きつけていた。
「あんたたちが"邪魔者"?」
『どうした、二人とも』
ああ、油断した。つまり最初から俺たちの存在は掴まれていたのだ。
マーリンの緊張感に包まれた声を聞きながら、エグジーは喉が一瞬で干上がって息が詰まるのを感じた。
首を動かさずに眼球だけで、引き金にかかった赤いネイルの指先を見て、右手で本を読んでいた老人が震え上がりながら席を立つのを見て、それから真正面のハリーを見た。
あくまで落ち着き払いつつも、射抜くような鳶色の瞳とふっと目が合い、その一瞬で互いの意図が読めた二人の行動は迅速だった。
ほぼ同時にこめかみに突きつけられた銃を、射線を避けながら払い落として奪い上げ、躊躇いなく面食らっているカップル二人の頭を撃ち抜いた。
硝煙と血煙が弾け、それが号砲とばかりに穏やかだった空気はあっという間に張り裂けて、一般客たちが我先にと出入り口へ殺到した。
黒服の男たちが銃を構えるのが見えたので、エグジーがハリーの腕をむんずと掴んで机の影に引き摺り込むとアンティークオークの天板に容赦なくびしびしと銃弾が飛んでくる。
奪い取った銃の調子とマガジンの残弾数を確かめながら、もう最悪だ!とエグジーは喚いた。
「落ち着きなさい、エグジー」
喧噪の中でもハリーの低い声は不思議とよく通って耳に届き易い。
「落ち着いてるけど!俺のケーキ!アイス!」
「こんなことになって申し訳ないとは思っているが、今は兎に角集中しなさい」
「分かってる!」
ハリーが悪くないってことも、集中しないとあっさり死ぬってことも、全部分かってる!
エグジーがターゲットを窺うと、予定調和と言いたげな嫌みたらしい笑みと目が合って腸が煮えくり返るのを感じた。そのまま対象は入り口から悠然と逃げて行く。追う余裕はなく、ちきしょうデザートを返せ、とエグジーが憤っている合間にもハリーはマーリンと方針を打ち立てている。
『白か黒かと言えば黒だった、と。もう偵察の必要はないな』
「ああ、害虫はあまねく潰してしまうのが懸命だろう。いずれね。ーーさあ、逃げよう、エグジー」
「……Sir, yes, sir.」
敵が丁度リロードをするタイミングで二人とも机の影から身を乗り出し、的確に頭と心臓を撃ち抜いた。
正規のルートは混沌としていたので、裏口を目指して突っ走る。二人分の靴底の音しか聞こえなかったはずが、どこに控えていたのか進行方向に護衛らしき敵が溢れ出して靴底の音が倍以上に膨れ上がった。
エグジーは肝が冷えるのを感じた。どうしよう?とハリーを見やると既に涼しい顔でライター型の手榴弾を起動している所だった。ちょっと待って、と言う暇もなくハリーに腕を引かれ、通路を半ば塞いでいる用具入れの影に二人で隠れた。それとほぼ同時に、爆弾が炸裂して鼓膜がキーンと痛んで、その一撃で大半が行動不能になり、追いかけてこないように入念にトドメを刺しながら通路を進んだ。
建物の外に出るまではいいが、そこから先どう逃げる?
漠然と考えながらエグジーは、厨房の影から飛び出してきた敵をかわして、腕を取り上げ関節を固めて、手刀で昏倒させる。その敵の膝を片方撃ち抜いて動きを封じてから、ハリーはこっちだとドアへ向かって走った。
まさか本当に映画みたいにダスト・シュートに飛び込んで逃げたりしないよね?と恐怖と期待半々でその背中をエグジーは追いかけ続けたのだが、マーリンのガイドもあって案外すんなりと裏口に辿り着き、ハリーは停められていたシトロエンのコンパクトカーの車内を一瞬窺い、窓を銃のグリップの底で叩き割るとドアを開け運転席に乗り込んであっさりとエンジンをかけた。
「あのー……ハリー……?」
「キーがついていた」
「そうじゃなくて」
「持ち主にはしっかりと賠償するよ、そのうちね」
早く乗りなさいと諌められてエグジーは罪悪感を感じながら助手席に乗り込んだ。
先ほどまでの狂騒とはほど遠い静けさの中を、車は滑らかに大通りへと走り出た。追っ手が来たら気配をいち早く察知しなければとエグジーはバックミラーとサイドミラーを気遣わしげに見回しながら、ハリーに問う。
「本部に帰るの?」
「いや、とりあえずセーフハウスへ。それでいいだろうか、マーリン」
『承知した』
雨が降りそうだと空模様をうかがってからハリーを見やると、ハンドルを握る手に血がついているのが目に入って、エグジーはぎくりとした。
返り血かと思ったが、よく見ると手の平が切れているらしい。
……さっきガラスを割ったのとは反対の手だから、交戦中に怪我をしたのかな?
その心許なげに凍り付いたエグジーの視線に気がついて、ハリーは困ったように笑ってからひらひらと負傷した方の手を振った。
「かすり傷だよ、そんな顔するんじゃない」
「運転変わろうか?痛くない?」
平気さ、と呟いてハリーはアクセルをわずかに踏み込んだ。
20分ほど安全運転をして、辿り着いたセーフハウスは閑静で治安の良さそうな住宅街の中に潜んでいた。
追っ手はついていないようだが、念のために少し離れた場所に車を乗り捨て、素人目に見ても老朽化がひどいカナリヤ色のセメントモルタルが吹き付けられた五階建てのアパートに入る。
蛇腹式のエレベーターで三階に向かうと、外装の雰囲気とは打って変わってどの部屋も施錠がパスワード式だった。長い廊下の行き止まりにある部屋へ、ハリーはマーリンにパスワードを確かめてから打ち込んで中に入った。
人の気配は無論なかったが念のためエグジーが室内全ての安全確認をして、
「大丈夫そうだよ、マーリン」
『良かった。迎えを差し遣わすからそこで三時間ほど待機していてくれ』
「了解」
マーリンとの無線を終わらせ、眼鏡を外して、ようやっとエグジーは体の強ばりをほどいた。
詰まっていた息を長々と吐いてから、上着を玄関脇のハンガーにかけて、シャツの一番上のボタンを外し、カフスボタンも外して袖をまくる。
知らず知らずのうちにひどく緊張していたみたいで、変な汗が出るし心臓は早鐘のように打っていた。
狂騒の余韻が首筋の当たりにまだ貼り付いている感覚もある。
そしていつの間にか口の中が鉄臭い血の味でいっぱいになっている事に気がついて、エグジーは眉をしかめて頬の内側を舌でなぞってみた。噛んだのか切ったのか、ずきりと痛む場所があったけどきっとすぐに治るだろう。
ハリーもかなり疲弊したようで、上着を脱ぎ捨てるとソファに深く腰掛けてゆるゆると息を吐いた。かと思うと、脚を組み、目をつむって、負った傷もそのままに動かなくなってしまった。
眠いのかな。
エグジーはその様子が落ち着かなくて、ウロウロと部屋を歩き回ってとある物を探し始めた。
ごく一般的で、まるでモデルルームのように明るく小綺麗な室内だったが、リビングに置かれた赤茶色のビューローの引き出しの裏側を何となくかがんで覗き込んでみたらハンドガンのパーツが一式隠されていた。きっとトイレのタンクを開けたらフリーザーバッグに入ったパスポートと札束がずるりと出てくるんだろうな、と思い描きながらエグジーはビューローと浴室とキッチンでそれぞれお目当ての物を見つけてハリーの下に戻る。
「ハリー、怪我、手当てしとこうよ」
眼鏡を外しながら天井を仰いでいるハリーだったが、スイッチが切れてしまったのかうーんと呻くばかりで、エグジーは仕方ないなぁと跪いて彼の手を取ると勝手に処置を始めた。
タオルを手の下に敷き、まだじくじくと血が滲む傷口をミネラルウォーターで洗って、たぶんこれだろうと応急処置のセットの中から見当をつけた被覆材で傷を包む。ガーゼを当て、包帯を少し緩めに巻いて、端をテープで押さえた。今エグジーに出来る処置はこれが限界だ。
立ち上がって道具を片付けて、すまないと掠れた喉で呟いて眠たそうにまばたきをしているハリーのほつれた前髪を撫でて、エグジーは疲れたね、と笑う。
「何から何まで驚きっぱなしで、もう心臓がもたないかと思ったよ」
レストランは超クールだし、ご飯は美味しかったし、あのクソ社長はむかついたけどさ…ハリーと話せたのは楽しかった…と天真爛漫に感想を話しているエグジーの腰へとおもむろに腕を回して抱き寄せると、ハリーはお腹のあたりに顔を埋めて重たい溜め息を吐いた。
なんかハリー珍しく疲れてるなぁ、と母や妹にするように、つい癖で頭を撫でてしまう。けれど、心臓は煩いし、アフターシェーブローションや香水の混ざり合ったハリーの体臭が近くて条件反射的に眠たいようなじれったいような気持ちが込み上げてきて、エグジーが「大丈夫?」と耳元へ囁くと、ハリーも胡乱げに顔を上げた。
その不意にカッチリと噛み合った鳶色の瞳の奥のざらつきを認めた瞬間、急にお互いの呼気がやたらと耳元に迫った気がした。胸の奥にどろりと熱いとも冷たいとも取れる何かが零れ落ちるのを感じて、エグジーは目が眩んでたたらを踏み、ハリーの肩に思わず手をつく。
「……ぁ、」
脚が竦むような感覚に怯んで小さく息が漏れ、エグジーの頭は疑問符でいっぱいになった。
なんだろうこれ、引きずり込まれて落ちてしまいそうだ。怖い。
一方のハリーは幾許か目を見開いて停止したかと思うと、無言でエグジーの体をそっと押し戻して静かに立ち上がった。眼鏡を掛け直し、神経質そうにこめかみを押さえて顔をしかめながら、
「……酔っている」
「? アルコールなんて注文したっけ」
「いや。……エグジー、早速だが私は眠るよ。寝室は一人で使わせてもらう。君も迎えが来るまでリビングでゆっくりしていなさい」
ぽかん、としているエグジーに向かって、特に後半はまくしたてるように矢継ぎ早に言い捨てると、ハリーは速やかに寝室に入ってきっちりと扉を締め、あまつさえ鍵までかけてしまった。
かちり、あの輪郭のくっきりした小さな音。
数秒、空気すら止まって置いてけぼりをくらったエグジーは「へ?」と気の抜けた声を上げた。とぼとぼと寝室の扉まで歩いて行ってドアノブをばかみたいに捻るが、錠が固く噛み合う音が空しく響くばかりで開くはずもなかった。
「ハリー?具合悪いの?」
「そうじゃないんだ」
「じゃあ開けてよ。開けてくんないなら勝手に開けるけど」
いや、別に開けてくれなくてもいいし出てこなくてもいいし眠ってくれてても構わないんだけど。
ーーさっきの感覚の正体が気になってたまらないのだ。
エグジーは妙な焦燥感に駆られながら鍵の形をチェックして、これはペーパーナイフか?クリップで行けるだろうか?などと持ち前の手癖の悪さを発揮するか否か考えあぐねていると、その眼前でおもむろにドアが開いた。
目をぱちくりさせているエグジーの腕を取って引き寄せながら、ハリーは顔を寄せ、頬を撫でて、額に口付けをして、優しく耳朶を噛んで、それから唇にキスをした。
突然の口づけの雨に早鐘を打っていた心臓がさらにかしましくなり、エグジーは彼の名前を呼ぼうと薄く唇を開けたのだが、「……ッ……」と、突如走った鋭い痛みとガリッという鈍い音にエグジーは息を止めた。下唇を強く噛まれ、一筋の血が顎を伝って、指を添える前にぽたりと白いカーペットに赤い染みを作った。
ハリーはエグジーを険しく睨みつけて胸を突き飛ばし、乱れる息を無理矢理飲み込んだような不規則な息づかいでぴしゃりと吐き捨てる。
「こういう、気分だから、今日はダメだ」
すまないと呟く彼の瞳はぐらついて、今にも泣き出してしまいそうにも見えた。
エグジーは「……なるほどね」と心中で頷いた。
部屋に引き返そうとするハリーとドアの隙間につま先を捻じ込んで、強引にこじ開けると、エグジーは彼の襟首を掴んでたぐり寄せながら唇を重ねた。貪るように舌を絡めると、苦い鉄の味が広がって、口の端から赤い唾液が滴り落ちて二人の顎を汚していく。
エグジーの青とも緑ともつかない万華鏡のような瞳の奥底にも、彼に感化されたのか今はざらりとした光が宿っていた。それは、死線を潜った時にふつりと涌き上がる、血への渇きだったり、生存本能だったり、死への恐怖だったりが、カクテルみたいに綯い交ぜになった得体のしれない衝動だった。いつもは一人で鎮静化させる荒ぶりを、今回は二人居合わせたが為にちょっとばかし"混線"してしまって厄介な事になっているだけ。
それだけ、だ。
エグジーはハリーの眼鏡を取って床に放り捨てると、シャツのボタンをぷちり、ぷちりと外しながら、伏し目がちに彼を見やった。
「一人じゃつらいでしょう。手伝ってあげてもいいよ」
その青緑色の瞳の奥を覗き込んで真意を汲み取ったハリーは「欲しい時は強請れと教えたはずだが、」とほくそ笑みながら、エグジーの体をとんっとベッドへ押し倒した。
シャツの前を乱暴にはだけさせ、ハリーは獣みたいに呼吸を荒げながらエグジーの白い首筋や喉笛に噛み付き薄い肉を食んでは歯形をくっきりと残していく。痛みと心地よさのせめぎ合いにエグジーはふるりと体を震わせてハリーの背中にしがみついた。
「…っ…もっと……」
いっその事噛みちぎってはくれまいか、とすら思う甘やかな痛みだった。彼の血となり肉となれたらずっと一緒にいられるのにーー
肩や二の腕を一通り食んでから、ハリーはやおらエグジーの胸に顔を埋めると、淡い色の乳首に噛み付いた。熱い吐息がかかり、硬く勃ち上がった先端を舌先で転がされて、エグジーはびくびくと爪先を弓なりにしならせる。眉根を寄せてハリーの髪に指を差し入れ、頭蓋の形をなぞるとそれだけで愛おしさが募って体がひどく火照った。
「んん、はりぃ……」
その鼻にかかった声に答えるように、空いた片方の乳首を指の腹でぐりぐりと刺激されて「ふああ」と声が漏れた。脚の間がじわりと湿って熱を帯びるのが分かって、エグジーが呼吸を整えながら自らベルトを解くと、ハリーの手がスーツも下着も搦め捕ってしまい、ベッドの下には死体の山みたいに衣類が放り捨てられていく。
エグジーの白いなめらかな太ももを割り開いてゆっくりと内股を撫で上げると、ハリーは愛撫を強請って蜜を垂らしていた陽物をおもむろに口に含んだ。想定外の感触にエグジーは膝を閉じてしまいそうになるがぐっとこらえる。
「あ……う、ハリー…、そこ、だめだ」
「ダメという割にはしっかり硬くなっているようだが」
ケガをしていない右手で根元を扱き上げられて、円を描くような舌に尖端を舐められた途端に腰の辺りへ急速に重たい快楽が滲んでエグジーはシーツを握りしめた。
「っ、ん……ふ、」
どんなに歯を食いしばって声をこらえても、雁首のあたりをきつく吸い上げられただけで情けなく「んあああ…っ」と悲鳴が零れてしまう。そして覚束ない記憶をさらって、彼に口で施されたのは初めてだと気がついた途端に烈火のごとく熱が昂った。いつも優しい言葉と微笑みをくれる唇が、今はただただエグジーを苛んでいる。ぐちゅぐちゅ、と淫靡な音を立てて唾液を絡ませてストロークをかける口元には涼しい笑みが浮かんでいた。
わらわれてる。だって、でも、
くらくらと揺らぎ始めた視界の中、彼の頭にじっとりと指を這わせて、エグジーは懇願するように声を漏らす。
「は、……も、だめ、っ、ハリー……」
それに応えるようにハリーは目を細めると、エグジーを根元まで飲み込み尖端を口蓋で刺激してから、きつく吸い上げてストロークをかけた。腰骨が一気に溶け落ちるような感覚とは対照的に意識は天に昇り詰める。
「ふ、ぁあああ……っ!」
びくびく、と震えて脈打ち放たれた精をごくりと飲み込んでから、彼は残滓まで綺麗に舌で舐めとってようやく陽物を開放した。ハリーはエグジーの眦に浮かんだ生理的な涙を指先ですくって、柔らかに唇を重ね合わせた。空いた手が胸から双丘のあわいへと降りて行く気配に、エグジーは乱れる息に唇を震わせながら「まって、」と紡いでその厚い胸板をやんわりと押し返した。
溶けてぐずぐずになりかけた意識を何とか繋ぎ止めて、体を起こすと、ハリーの脚の間へとエグジーは緩慢に手を伸ばした。ベルトを抜き取り、筋張った下腹を撫でてからズボンの前をくつろげて、半ば勃ち上がったペニスを取り出すと、硬く尖らせた舌先でちろちろと尖端を舐め上げる。愛おしげに撫で、うっとりと咥内へ頬張り、チュッとわざと音を立ててキスを落とす。この不器用ながらも懸命な愛撫を、彼が口には出さないが密かに好んでいることをエグジーはよく知っていた。
エグジーの耳のあたりに触れ、キャンディを舐めるような舌の動きを手の平にも感じながらハリーが苦しげに呻く。
「…っ…、ふ」
と、ふいに頭を抑え込まれて喉の奥へとごりごりと尖端を穿たれた。息がままならず彼の大腿部に爪を立てる。たまらず喉が痙攣して咳き込むとやっと開放されて、だらしなく糸を引いた唾液が咥内の傷から滲んだ血と混じって薄紅色にてらてらと光っていた。
より硬さを増して反り返ったハリーの陽物に、手の甲で顎を拭きながら潤んだ眼差しを送って、エグジーは再びベッドに身を委ねた。
二人とも汗ばみ、ノイズまじりの息を肩でしていた。あの仄暗いざらりとした瞳の光は、とっくに野生の獣とそう大差ないぎらつきに変わっている。
ハリーはエグジーの膝の裏に手を差し入れ、腰を半ば持ち上げながらぐいっと脚を開かせると、唾液に濡らした指をそろりと秘孔に進み込ませた。その感触にエグジーは静かに息を止めてしまう。いつもこの時だけは違和感や恐れを説き伏せる必要があった。
内壁をこすり上げる指が一本から二本へと増え、充分に濡れそぼりほぐれたと判断したハリーが覆い被さってくる。無言のまま、力を抜きなさいと言いたげに包帯にくるまれた手で頬と唇を撫でられ、その手に戯れるよう掻き抱いて指を甘噛みしてから、エグジーはほっと息を吐いた。
ぐちゅり、と淫靡な音を立てたかと思うとハリーの熱いペニスがずんっと突き立てられた。
エグジーは「ふっ、う、ああああ」と悲鳴とも嬌声ともつかない声をあげて仰け反った。
いつもならそこで「つらいか」だとか聞いてくれるのに、今のハリーは言葉を忘れてしまったみたいだ。
黙々と貪るように腰を叩き付けられ、体の中を熱い杭で乱暴にぐちゅぐちゅと抉り上げられるたびに、ちょっと痛いし苦しいはずなのにばかみたいに甘い疼きが全身を侵して行く。
「は、はりぃ、……ぅ」
ぽろぽろと零れ落ちるエグジーの生理的な涙を舐めとってから、ハリーはエグジーの唇に深い口づけを落とした。エグジーも律動に揺さぶられながらハリーの首に腕を回して、苦くて、けれども今は甘い血の味のするキスに舌を絡めることで応える。
激しい腰の動きに目の前にぱちぱちと火花が散るのを見ながら、エグジーは自身もゆるゆると扱いて二度目の絶頂を迎えた。熱い内壁に締め上げられて、ハリーもすぐにエグジーの中へと吐精した。
目の前が白い光に包まれ、世界の音も消えていたのだが、二人とも繋がったままハッ、ハッ、と犬のように短い呼気を繰り返している景色がしばらくして鼓膜と網膜に戻ってきた。
エグジーはふいに「ああそっか、」とその白い世界で何かを見てきたみたいに、ぽつりと呟いた。
「ハリーになら痛いことされても平気みたい」
すごい今更だけど。
その言葉にハリーは乱れた前髪の影で目をぱちくりとしてから、ふっと微笑んで、矢庭にエグジーにもう何度目かのキスを落とした。唇の隙間からその甘言にまみれた舌を引きずり出すと、一度躊躇うように口の端で息をしてから、強く、その舌を噛んだ。
忘れていたのにふと思い出してしまった。
「そうだ、デザート、」
喘ぎすぎて掠れた喉でそう一言うっそりと漏らして、エグジーは着衣も乱れたまま寝室の天井を見上げていた。対照的にすっかり身だしなみを整えたハリーが、床に散らばったエグジーの服を拾い集めて埃を払い落とす。
「そんなに楽しみだったのか」
呆れの混じったハリーの声に、エグジーは体を起こしながらふてくされたように頬を膨らませた。
「ハリーが美味しいって言ったんじゃん。カフェ・グルマン」
「季節によっても変わるし、ほぼランダムな盛り合わせだから、私が食べたメニューとは違うと思うが」
「それでもいいんだよ。……ハリーと一緒に食べたかっただけだから」
「……そろそろ本部から迎えが来るはずだ」
早く身なりを整えなさい、とスーツと新しいワイシャツを投げられてエグジーはしぶしぶシャツを脱いだ。新しいシャツに腕を通しながら姿見を覗き込むと、首筋に強く残ったハリーの青紫色の歯形と目が合っておーこりゃすごい、と指で撫でる。
「大きい絆創膏とかあるかな」
何故?と言いきる前に察したハリーが、リビングから救急セットを持って引き返してきた。
「……すまない」
「平気って言った。でも、デートしてくれたら超許す。めっちゃ許す」
「ル・トラン・ブルー?」
「デザートがおいしいところならどこでもいいよ」
どこがいい?何が食べたい?とハリーはすらすらと店の名前やメニューを並べ立てながら、首の痣に念のために軟膏を塗り、ガーゼを当て、テープで止め、処置を終えた。
そこで何故か反応が薄いエグジーにどうしたんだい、と俯きがちな顔を覗き込むと、
「……っ、ん」
口元を押さえ耳まで顔を真っ赤にしてふるふると震えているエグジーと目が合って、思わずハリーはぎょっとした。
「ううう、なんでもない……」
「本当に?」
「……なんか、ここが、おかしいんだ」
少し涙目になりながら、ハリーが近づくのを手で制して、首筋を指差した。
……青い痣に触れられるたびに何故だか情事を思い出してしまって、油断していたら体の芯が疼いてしまった。自分で触る分には問題なかったのに、ハリーだとダメみたいで。なんて短絡的な体なのだろう。
エグジーはもぞりと内股を擦り合わせてから、火照った顔を手でパタパタと扇いで深く息を吐いた。
「ふぅー……よし、大丈夫。ほんとごめん。あっちでさっさと着替えてくるね」
へへへ、と笑って真っ赤な顔のまま服を一揃い掴んで寝室を出ようとするエグジーに、ハリーは一度腕時計に目を落としてから、静かにエグジーの胸に手を当ててその進路を制した。
「まだ少し時間がある」
「えーっと」
「一人じゃつらいだろう。手伝ってあげてもいいが」
すっげぇ、どっかで聞いた台詞。
遠慮しなくていい、とニコリと微笑んで、ハリーは寝室のドアへと手を伸ばした。
冗談でしょう?と口元を引きつらせたエグジーは再び、あの輪郭のくっきりした小さな音を聞くのだった。
『鍵のかかる部屋』
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