雨が上がったばかりの、ひどく静かな夜の事だった。
ギネスビールの空き瓶やポルノ雑誌が転がる雑然とした街角に棒を呑んだように立ち尽くして、エグジーは震える息を一つ吐いた。引鉄に掛けた指からそっと力を抜く。まだ熱を持つ拳銃を懐に仕舞う折に、硝煙の匂いが一段と漂った。
丁寧に撫でつけられた栗色の髪に、濃紺の生地で仕立てられた一目見て上等と分かるスーツ、磨き上げられた革靴。そんな紳士然とした上品なシルエットの足元に横たわるのは、何とも不釣り合いではあるが血溜まりの中に沈んだ死体だった。
覚せい剤を売り歩くマフィアのボスを排除すること、それがマーリンから言い渡された今夜の"おつかい"だった。命令は忠実に実行できたと思う。そして恐らくこのまま現場を離れてしまえば、任務は完了だ。
都合の悪い物が残っていないかと最終確認の意味合いでまじまじとほの白い街灯に照らされた死体に目を向けていると、赤い血が、一瞬だけどこか滑稽に映った。これは本物か?作り物では?と無意識に問いかけている自分に危機感を覚えて、エグジーはしばらく息を止め、思考を止めた。まっさらな白いベッドシーツを頭蓋骨の内側に張り巡らせるイメージ。聞こえるのは自分の呼吸の音だけ。
悲しきかな、人を殺す事にもすっかり慣れてしまった。
けれど、稀に形容しがたい違和感の塊が喉の奥から込み上げてくる事があった。飲み下す事には慣れつつあるが、それの存在には決して名前をつけてはいけない気がしている。
違和感を嚥下して、意識のリセットにも成功すると、あとは母と妹の待つ家に帰るだけだ。鼻唄でも歌いながら湯船に浸かって、ベッドに滑り込んでしまえば、明日になる。そしてまたきっと殺す。決まりきったルーチンワーク。
それが彼の誇り高き仕事だった。
 
 
かつて世界中の人間が突如として暴れ出す、という奇っ怪な事件があった。それから各国の政治家やら権力者がこぞってデュラハンのように首無しで事切れている、という事件も。原因は混乱しか来さないと判断されたのか公表されず、専門家及び評論家がこぞって闇に葬られた真相を求め独自の解釈を垂れ流していたが、そのブームも飽きが来たらしく今は終息に向かいつつある。
空席を埋めるべく代理の人間が暫定としてトップに立ち、誰が立とうと世界はそれなりに回るものだ。エグジーが勤める"紳士服屋"もその一例だった。
淋しさや戸惑いを置き去りにして、空いた穴がじわりじわりと塞がるくらいの月日が早くも経とうとしていた。
 
 
手配したタクシーが待つ通り沿いに向かって歩いて行く。高らかに鳴る靴底、足首にまとわりつくゴシップ紙、浮浪者と野良犬の臭い。あまり治安が良い場所とは言えないが、下町で育ったエグジーにとってはかつての遊び場にも似ており、珍しくも何ともない。はずだった。
視界の端にあるはずのない見慣れた姿が過ぎって、エグジーはピタリと足を止める。
見間違いだ、そう決めつけながらも体は自然と動いて振り向いていた。
丁寧に撫でつけられた栗色の髪、濃紺の生地で仕立てられた一目見て上等と分かるスーツ、磨き上げられた革靴。
胸にぽっかりと虚ろに空いていた穴の感覚がすっと遠のいていくのが分かった。
革のベルトの腕時計から目を上げると、彼は何食わぬ顔でひらりと手を振る。
「こんばんは、エグジー」
挫けそうな時、辛い時、叱ってほしい時、そんな時にもう一度聞きたいと何度も願った、聞き慣れた声だった。
どうして?なぜ?とは不思議と思わなかった。 あんなに強い人が死んでいるはずがないとずっと、ばかみたいに祈っていた。だから意識に刷り込まれてしまって拒絶反応も何もなかったのかもしれない。
それでも体は言う事を聞かず、手が震え、肋骨を叩く心臓の音がいやに大きく聞こえた。
エグジーはぎこちなく微笑んでから、パニックにならないように長く息を吐いて慎重に言葉を選ぶ。
「化けて出るほど、この世に未練があったとは知りませんでした」
その反応に、ハリーは眉を顰める。つまらないだの愚かだの、色々な言葉を飲み込んだような顔で歩み寄ると、僅かに見下ろす位置にあるエグジーの頭をぽんぽんと気だるげに撫でた。
「幽霊を信じているのかい」
ふるふるとエグジーは首を横に振る。
「ゾンビはいそうだけど、幽霊は別に」
久しぶりに面と向かったハリーの左目は少しばかり青白く濁り、瞼から額の辺りにうっすらとだが引き攣れたような痕が見て取れた。あの時ノートPCで見た光景と、マーリンから聞いた検死の報告を思い出し、エグジーは一度下唇を強く噛み締める。
「元気そうで安心した」
「リハビリ中だがね。今も散歩をしていたんだ。君の存在は想定外だったけれど」
「まだ仕事はしてるの?」
「まぁ、極秘でね」
川のせせらぎにも似た美しいイントネーションは耳に心地よく、本当に彼が帰ってきたのだとようやく実感が湧いた。自然と目の奥が熱くなりエグジーは一つ鼻をすする。泣くなんてみっともない真似したくなかった。
エグジーは俯きがちだった顔をゆっくりと上げる。と、怪訝そうなハリーに向かって、唇をパクパクと開けては閉じてを数度繰り返し、ようやっと言葉を絞り出した。
「また一緒にいられるかな」
「どうだろう」
彼の考えるような素振りにエグジーはあっという間に焦ってしまう。
「あれから結構仕事も任せて貰えるようになったんだ。単純に人手不足なのもあるけど……マーリンもロキシーも毎日胃に穴が空きそうな顔しててちょっと心配なんだ。ところで今はどこに住んでるの?地下?森の奥?潜水艦?今、ハリーの家を使わせてもらってるから、何なら出て行くけど」
と、ほとんど一息にまくし立てた。
そのペースに釣られることなく、
「いいや、あの家はもう君のものだよ」
好きにしなさい、と穏やかに言いのけるハリーにエグジーは口の端を下げてでも、と言い淀む。 声を紡ごうとした喉がばかみたいに震えてしまって、自分への怒りが込み上げた。泣いてたまるか。呆れられたくない。
そんなエグジーの様子に、ハリーはふっと目を細め、逡巡してから、懐から取り出した手帳を開いて万年筆で何かを走り書きした。 ページを破り取ると、エグジーの鼻先に差し出す。
「本当に困った時だけ、だ」
受け取ったクリーム色の紙には見覚えのある地名と番地が記されていた。
エグジーは目を見張った。極秘だの何だのと言いながら自分にだけは所在を明かすだなんて、実は特殊なマスクを被った偽物なのでは?と罠の可能性すら疑った。 まあそれでもいいか、とエグジーは一つ頷いてから、イタズラを思いついた子どものように笑った。
「誰にもバレない方がいい?」
「そうだ。また引っ越すのは面倒だからね」
そして「さて、」と囁いた。
「私は帰るよ。君も帰りなさい」
エグジーの言葉を待たずにハリーは颯爽と踵を返した。その後を追いかけたくなったがぐっと堪える。今日は早く帰れるから家で夕食をとるよ、と母に伝えたのを思い出したのだ。
「おやすみなさい、ハリー」
路地裏を優雅に歩いて行く恩師の背中にそう呟いて、エグジーも帰路を急いだ。
今夜は気分良く眠れそうだった。
 
 
 
 
あれから一週間、エグジーは毎晩飽くことなくハリーから受け取った手帳の切れ端を眺め続けていた。 ベッドサイドのランプに透かしてみたり、インクの匂いをかいでみたり、手触りを何度も確かめたり。 思案しながら紙のエッジをなぞっていたら、指の腹を切ってしまいマットレスから飛び上がったこともあった。
紙自体は、エグジーが機関から支給されている手帳とそっくり同じもので、恐らくマーリンもロキシーも使っているものだ。それがこんなにも重い価値を持つなんて。
エグジーは深く溜息を吐くと、紙片をナイトテーブルの引き出しにしまい込んだ。
"ついあのメダルと同じ意味合いで受け取ってしまったけれど、それよりももっとカジュアルな贈り物だとしたら?"
本当に困った時だけ、とハリーの言葉を額面通り呑み込む必要はないのでは?自分もエージェントとして経験は積んできた。尾行されたとしても見破るのも撒くのもお手の物だ。ハリーもそう期待してくれているのでは?きっと家には独りぼっちで、話し相手の一人二人欲しいのかもしれない。
そんな疑問と願望が闇雲にぐるぐると毎晩渦巻いてエグジーを絡めとっていく。
もういい。キリがない。ハリーを困らせるのだけは御免だった。認めなければ。寂しがっているのは彼ではなく、自分自身だと。
明日は久しぶりに休みを貰ったので、友人らと昼間から呑む約束をしている。飲めば気が晴れるかもしれない。
エグジーはそう踏ん切りをつけ、ランプの紐を引いた。




結論から言おう。
気が晴れると思ったのは大間違いだった。
アルコールへの耐性はそれなりにある方だと思っていたけれど、酔っ払って口を滑らせ機密事項を漏らすかもしれない恐怖が首筋の辺りに張り付いていて、酔うに酔えないのをすっかり失念していた。
セクシーな女の子の尻を追いかけてみたり、ビールを掛け合って踊ったり、酔ったフリをして友人らとバカ騒ぎするのに疲れてしまい、エグジーは具合が悪いと嘘をつきパブを逃げ出した。
ハリーもマーリンもパーシバルもロキシーも、こうやって世渡りをしていたのかと今更気がついてひどく孤独な気持ちになった。以前と何ら変わらず接してくれている友人たちへの罪悪感も込み上げてきてエグジーは項垂れた。
街並みはまだ夕闇に包まれ、オレンジ色の光が人々の頬を照らしている。
水が飲みたい。中途半端な酔いが鳩尾のあたりにわだかまっていて吐きそうだ。いっそのこと舌の根を押さえて吐いてしまった方が楽かな。当たりを見回して公衆トイレはどこだろう、と視線をさ迷わせる。
その時、ふと脳裏に過ぎった文字列にエグジーはピタリと歩みを止めた。数瞬か数十秒か、もしくはそれ以上悩んでいたかもしれない。傍から見れば白痴の哀れな若者、とでも思われたかもしれないが今やそんな事はどうでも良かった。
一つ答えを見つけたエグジーは、そのままとある場所を目指してフラフラと歩き出した。


 
 


「気分が悪いので水が欲しいんだ」
玄関口に立つハリーの表情はいたってフラットで何を考えているのやらさっぱり分からなかった。エグジーは遅れてやってきた大きな酔いの波にゆらゆら揺られながら彼の返答を待つしかない。
あれこれ考えても分からなかったので叱られるのを覚悟で突撃してみよう。それがエグジーがあの紙片の使い道に対して、酔いの勢いに任せて出した答えだった。
ハリーが記した番地は案外エグジーの自宅やパブからさほど離れておらず、高所得者向けに売り出されている一帯だった。住人も富裕な老人たちが多く、いつも通りゆるい普段着のエグジーはただそこに居るだけで悪目立ちしてしまう。 昔の家と心なしか雰囲気は似ているが一回り小さく、それでも高そうな家だ…と感想を抱きながら二階の窓枠を呑気に眺めていると、ハリーはどこか観念したようにゆっくりとドアを開けた。
「入りなさい」
面食らって硬直してしまったエグジーの腕をぐいと引き入れて、ハリーは静かにドアを閉める。
「……てっきり追い返されるのかと」
「客人をもてなすのは紳士の義務だ」
ハリーがもてなすと言うと途端に血の匂いがするね、というコメントはぐっと飲み込んで、エグジーはハリーの後をついていった。ちゃんと生活感のある室内ではあったが、写真などは一切合切エグジーの家に置いてきたせいか全く飾られておらず、素っ気ない印象だ。
ダイニングで大人しく座って待っていると、ミネラルウォーターを手渡された。冷蔵庫から取り出してきたばかりの冷えきったボトルを手の平で包み込んで、エグジーはテーブルの真向かいに座ったハリーに笑いかける。
「潜水艦じゃなくてちょっと残念」
「マーリンに言えば見繕ってくれると思うが」
「…………マジ?」
自分は飲みさしだったらしき紅茶を啜りながら「ん、」と小さく頷いて、
「もちろん冗談だ」
「なーんだ」
「任務に必要かつ正当な理由がないと予算的に通らないだろうな」
「正当な理由があればいいんだ……」
知ったつもりになっていたがそれらは所詮断片に過ぎず、やっぱり自分が所属している組織は異常なんだなぁ、とエグジーは認識を密かに改めた。
そしてぼんやりと室内の調度を見回して、
「ここにはいつから?」
「数ヶ月か、数週間か。忘れてしまったよ」
「極秘の任務って忙しいの?」
「言えない」
「今度母さんに会って欲しいんだ。寂しがって泣いていたから」
「お気持ちは山々だが、今は不可能に近いな」
「……ですよね」
ほぼ想定通りの答えに、エグジーは深く深く息を吐いて、そこでふっと、ハリーの鳶色の瞳を青緑色の瞳で真っ直ぐに捉えた。先日の夜に再会してから、ずっと聞きたかったことを思い出したのだ。
「みんながどれだけ心配したか、知ってる?」
ハリーは肩を竦めると、空になったティーカップとソーサーをテーブルに静かに置いた。
「もちろん、すまないとは思っている。でもあの状況の後では伏せた切り札も必要だっただろう」
「誰も信用できなかったものね」
「そうだ」
「俺のことも?」
嗚呼…馬鹿げた事を聞いた、と言ってからひどく後悔した。こんな事を聞くつもりじゃなかった。全部酔いのせいだ。 吐き気がせり上がってきて、それを押さえ込もうとエグジーはボトルの封を切り勢いよくあおった。冷たい水が少しばかり意識を明瞭にしてくれたが、吐き気は一層ひどくなった。
ハリーは黙ったままエグジーの首元の辺りを無感情に睨んでから、ぼそりと、
「マーリンだけだ」
「何?」
「私が生きていると知っていたのは」
刃物を突き立てられたみたいに胸の奥の方がズキリと痛んだ。 そんな答えを聞きたかったんじゃない。 それはどういう意味で受け取ればいいの?信用できるのはマーリンだけってこと? そう尋ねかけたが口内で言葉をねじ伏せてぐっと飲み込んだ。何から何まで質問攻めして、まるっきり子供じゃないか。……これ以上居座っても、みっともない醜態をさらすだけな気がしてきた。
酔いがすうっと醒めていくのを自覚しながら、エグジーはもう一口水を飲んだ。
そして口元に力を込めて、笑顔を何とか貼り付ける。上手く笑えてる自信は皆無だったけれど。
「……そろそろ帰ろうかな。水、ありがとうございました」
「そうか」
ボトルを片手にぶら下げて外へ出ると、忍び寄る夜の気配がちょっぴり寒々しかった。ハリーは通りをサーチライトのようにぐるりと見回してから最後にエグジーを見つめた。
「あんまりくだらない理由で来るんじゃない」
そこで一つ息をつき、
「心配せずとも、君は私がいなくても立派に振る舞えている」
もっと自信を持つといい、とハリーは微笑んだ。その笑みにずきんずきんとまた胸が疼いて、エグジーは空笑いを返すことしかできない。もっと気の利いた台詞を、と頭を巡らせてみたが血の塊にも似た何かが喉を塞いできて意識が散漫になり、それを必死で飲み下してなんとか一言だけ絞り出した。
「おやすみなさい」
ハリーの表情を伺う前に足早にその場を去る。が、心はまだ彼の家に留まっていた。俺には言えないこと、伏せた切り札、信用できるのは彼だけ、くだらない理由で来るな……ハリーの穏やかな声が耳元で重なり合ってノイズに変わる。
ずきんずきん、胸の痛みが増してエグジーはふらふらと覚束ない足取りで家路を急いだ。
 
 
 
 
「ねぇ、晩ご飯、何が食べたい?」
「…………」
「おーい?エグジー?」
ひらひらと揺れる手の影にはっと息を飲んでエグジーは我に帰った。 そうだ、仕事が早く終わったから母の買い出しを手伝っている途中だったんだ。 耳に残っていた母の声を揺り起こしてエグジーは、あー……と幾許か悩んでから、
「コテージパイとかどうかな」
その提案に、あらいいわねそうしましょう、と野菜コーナーへ軽やかに歩いて行く母・ミシェルの背中をカートを押して追いかけながら、エグジーは細く静かに嘆息をついた。




あれからまた一週間が経った。
泥酔、とまではいかないが思っていた以上に酔っていたせいで、あの夜の記憶は全体的にぼやけたタッチで保存処理がされていた。それでも大半は覚えていると思う。ハリーの家を訪れた事も覚えている。くだらない理由で来るなと叱られた事も、信用のくだりも。
苦々しい気持ちを堪えるように、スーツのポケットをそっと押さえるとカサリと乾いた音が鳴る。メダルに代わる新しいお守り、という訳ではないがあの紙片を持ち歩くのが最近癖になっていた。落ち着きはしない。が、見られているという感覚があって妙に気が引き締まるのだ。




会計を済ませて夕飯の材料が詰まった紙袋を抱えてスーパーを出ると、
「なぁ、あんた」
絵に描いたようなストリートギャングの集団に声をかけられ、エグジーは不審げに眉をひそめた。
「俺に何か用?」
「あんたがエグジー?」
「そうだけど」
ギャングたちは仲間内で目配せをして下卑た笑いを浮かべてから、もう一度エグジーを見やった。
よく見ると皆一様に若く、エグジーよりも年下で、ほとんどが十代の子どもに見えた。そして素手ではなく、鉄パイプやバールといった武器になりそうな何らかの物をずるずると引きずっており、事情の大半を察したエグジーはミシェルをそっと背中にかばった。 怯える気配が伝わってきて、材料の紙袋を手渡し、極めて冷静な声で大丈夫だよ、と腕をさすって宥める。
「ごめんね、母さん。ちょっと野暮用ができちゃったから、先に帰っててくれないかな」
「お願いだから無茶しないでね」
「このくらいちょろいもんだよ」
車のキーを手の平に握り込ませて、ミシェルの頬にキスをした。母が車に乗り込むのを見守るまでの間、ギャング達は不動であった。遠のいていくエンジンの音にひとまずホッと安堵してから、で?とエグジーは口の端をちょっと上げて笑ってみせた。
「ご要件は何かな?クスリ漬けオヤジの報復?」
どこから情報が漏れたのか突き止める必要性があるなと考えつつ、先日殺したマフィアの男の顔を思い出そうとしたが、上手く脳裏に描けなかった。吹き飛ばしてグチャグチャにした覚えはないから、きっと地味な顔だったのだろう。
リーダーらしき男が怒りを押し殺した表情に笑みを貼り付けて、そうだと首肯し、
「分かってんなら…話は早いな!」
十数人が奇声を上げながら一斉に凶器を振り上げ襲いかかって来た。
振り下ろされた鉄パイプをひらりと避け、顔面を狙って横薙ぎにされた木材を手首で去なしてから肘打ちで真っ二つに叩き折る。木片を払いのけながら勢い良くスイングされた金属バットは、目もくれず空を切る音だけで受け止め、その力を流用して相手の手首を捻り上げた後、一発鳩尾を蹴り上げた。
報復と言ったが、彼らは小遣いを貰って動いているだけの、末端の末端の人間だと思われた。動きは単調で、殺意は大して感じられず、殺してはならないと思った。一人一人淡々と気絶させていく事は今のエグジーの実力ならば容易い事で、乱闘は一瞬で方がついた。
少し乱れた息を整えようと胸に手を当てて深呼吸をする、とパタリと地面に血が一滴落ちた。見ると手の甲にいつの間にか裂傷が出来ていて、エグジーはウソだろちきしょうと天を仰いで憤慨した。完璧に動けたと思ったのに、やっぱりまだまだだった。舐めとけば治るかなと舌を這わせてみたが、浅い傷のクセに意外と血が出て煩わしかった。


"君は私がいなくとも立派に振る舞えている"


先日の夜のセリフが不意に蘇って、エグジーは苦虫を噛んだような表情になった。口の中にじんわりと広がった血の味が一等苦く感ぜられた。
ハリーは嘘つきだ。自分はまだまだ未熟で、素人相手にも傷を負っている。これのどこが立派な振る舞いなんだ?
八つ当たりにも似た感情が、排水溝に吸い込まれて行く髪の一筋のように、どろどろと空回りしていた。
こんな事になるなら、あの日の夜立ち止まらなければよかったんだ。エグジーは握りしめた拳で額を小突いてから、肺の中の空気を全部吐き出した。ポケットへと重々しく息をひそめる紙片をスーツの上から一度叩き、エグジーは意を決したように歩き出した。
そうか、どうすればいいか分かった。







knock-knock-knock.
無垢のオーク製のドアをノックする。感情がこもって少々荒々しくなってしまったが、ノックしただけマシだから褒めてほしいと思った。しかし、一分ほど待ったが返事がない。留守かと判断し、ポーチの下で座り込んで待っていようと階段を降りようとした時だった。
「エグジー」
細く開いたドアの隙間からハリーの声が漏れ出して、エグジーは足を止めて身を捩った。
「こんばんは、ハリー」
「先日の私の話を忘れてしまったのか」
絵に描いたような呆れ顔がチラリと覗く。
「そんな事はないよ。ほら、困りごと。哀れな子羊の手当てをしてほしいなって」
差し出された血の赤を見て驚いたのか、すぐにドアが開いた。
ハリーはエグジーの手を取ると生乾きの患部の具合を数秒睨みつけてから、ぱっと手を離して、
「くだらない理由で来るなと言っただろう。マーリンに頼みなさい」
「冗談だよ。今日は違う理由で来たんだ」
くいっと片眉だけ上げたハリーの目の前で、エグジーはマジシャンのような仕草でポケットから手帳の紙片を取り出した。それを両の手でつまんで顔の前に掲げると、真ん中からぴりぴりと破る。一つが二つになり、それを重ね合わせてもう一度真ん中から破る。それを繰り返して細かな紙くずになった紙片を手の平から地面へすくい落とした。エグジーとハリー、お互いの革靴の上にハラハラと雪のように舞い散る。その景色はエグジーが昔お気に入りだったスノードームを自然と思い出させるものだった。
そして胸の前で両の手の平を合わせて祈るようなポーズを取ると、僅かに戸惑いを滲ませるハリーの瞳をすっと静かに射抜いて、
「これで元通り」
「どういう意味だ?」
「つい甘えてしまってたけれど、これでまた俺一人で頑張れる。ハリーだって、もう俺のことなんて義理で面倒見てるだけなんじゃないの?」
ね?そうでしょう?無理しなくていいんだよ。
職業病なのか癖なのか分からないが、ハリーの表情からは戸惑いすら読み取れなくなった。そののっぺりと無色になっても端整なかんばせに、ほらやっぱり、とエグジーは口の端だけで微笑みかけて、軽やかにポーチから飛び出し通りへと降り立った。
これがどうすればいいか分かったこと、だった。これでやっとお互いに楽になれる。胸の痛みもキレイさっぱりなくなる。きっと今日はよく眠れるはずだ。
エグジーはひらりと手を振って、踵を返した。

「おやすみなさい、ハリーさん。もう二度と来ないから安心してください」








「問題解決の基本手順からおさらいしよう」
「OK」
「まずは問題の認識からだ。先日、君は他のエージェントの露払いの為に、麻薬組織を潰そうとトップの人間を殺した。だが、組織はまだ機能し、安穏と薬を売り歩いている。この場合、どうしたらいい?」
「原因である、活動拠点を根絶やしにすればいいんじゃないんですか。歩けないように体を奪えば良い」
「それが理想論ではあるが」
「ねぇ、マーリン。最初から諦めるのは止してください」
「今までの経験上、こういう類いの組織はゴキブリ並みにしぶとくて、キリがないって分かってるのさ」
「俺のやる気を返して?」
「大丈夫。撹乱してくれるだけでいい。それだけで君の後ろに控える主役が動き易くなるから」
さあ解決策を実施してきなさい。私は紅茶を淹れてくるよ、と投げやりなマーリンの声を最後に通信は途切れ、エグジーは憤りのため息を飲み込んでそっと銃のグリップを握り直した。
さて、紳士的に解決しますか。隠れていた物陰から飛び出して作戦開始。
住宅街に埋もれるように建った三階建ての雑居ビルが件の病巣だと調べはついていた。すぐ傍には活気ある下町のマーケットが広がり、一階は小洒落たパン屋で二階は若者向けの古着屋、三階は入居待ちとなっているが、実際はマフィアのアジトでもあり薬物の生産所でもあるようだ。
細い通路と階段をかけ登って、エグジーはマーリンが手配してくれたガスマスクを装着し、催眠効果のある神経ガスを放出させる手榴弾であるライターを握りしめ、三階のドアを薄く開けて中を窺った。
下調べの段階でこの生産所のタイムラインは把握していた。今も丁度よく覚せい剤を製造している所で、青緑がかった蛍光灯の下で几帳面に並べられたビジネスデスクに向かって粗悪なマスクを着けただけの男たちが黙々と作業していた。粉末状の薬から錠剤を精製し、袋詰めし、トランクにきちんと格納していく。かれらの働きは蟻のように整然で精緻で美しくもあった。もっと違うジャンルでその力を活かせばいいのに、と嘆きながらもエグジーは何の躊躇いもなく作動させたライターを室内へポイッと放り込んだ。
一瞬パニックになり騒ぎ声が聞こえたが、すぐにくぐもり、室内はシーンと静まり返る。
そろりと中を窺うと、大の男たちがバッタバッタと床に倒れ込んで眠っていた。作戦成功。エグジーはガスマスクの下でにんまりと笑みを浮かべた。あとは彼らを縛り上げて警察に通報してしまえば、ここの生産ラインはひとまず潰せそうだ。その"主役"さんとやらが動き易くなるならば、本望である。詳細は特に興味もなかったので聞いていないのだが、恐らく資金繰りを阻害して弱体化させるといった点が狙いなのだろう。
エグジーは結束バンドにも似た拘束具を懐から取り出して、一人一人男たちの手首と足首を結い上げた。作業はすぐに終わり、足下に寝転がっている太り過ぎた男のポケットを漁ってスマートフォンを拝借。あとは警察に通報すればフィニッシュ、と番号をタップし発信している時だった。
背後で靴音が聞こえたのとほぼ同時に、銃声が鳴り響いた。
脊髄反射で脇へ飛び退け机の影に身を隠したが逃がすまいと間髪入れずに追撃が迫る。エグジーは至って冷静に頭を防弾スーツでガードしながら状況を窺った。敵は男一人、目立った武器は拳銃だけのようだ。足下に酒瓶が詰まった近所の食料品店の紙袋が転がり、衝撃で割れた瓶からスコッチウィスキーがどぼどぼと零れ出している。きっと下っ端の人間で、買い出しに行って帰って来た所なのだろう。油断していたのは反省すべきミスだが相手が一人なら何とかなる、と即判断を下し、エグジーはヘリンボーン柄の木目を蹴り退けて男との間合いを詰めた。
それと同時に弾を撃ち尽くした銃がホールドオープンになる。男の判断も早く、銃を後方へ放り捨て反対の腕でエグジーの脇腹に拳を振り抜いた。重心移動で寸でのところでひらりと避け、エグジーは男に足払いをかます。それを男も飛び上がって避け、勢いを利用して蹴りを繰り出した。ちょっと喧嘩の強い素人、と侮っていたのだが案外動ける奴らしい。面食らいながらも、振り下ろされた重たい踵を両腕で受け止めてから、エグジーは男の脚を左脇で抑え込んだ。そのまま右のピンキーリングをお見舞いして気絶させてしまおう、と拳を大きく振りかぶる。が、その拳も弾かれ、隙だらけになった胸に蹴りを食らって派手に体が吹っ飛んだ。スチール製のビジネスデスクに背中から突っ込んだ衝撃で息が詰まり、さらに運が悪いことにガスマスクも弾け飛ぶ。
エグジーは冷たい氷水のような嫌な予感が背筋に走るのを感じた。そしてその予感は大正解で、次の瞬間、ひっくり返ったデスクから大量の白い粉が舞い落ちた。紛う事なく精製過程の薬物である。全身に浴びながらも必死に息を止めるが、粘膜にざらついた感覚が確かにあって、これはやばいと脳の芯で警鐘がカンカンと轟いた。
どうしてこうもヘマばかりしてしまうのだろう!
男も派手に薬を吸い込んだらしく、体を折ってひどく咳き込んでいた。立ち上がったエグジーに警戒し、ファイティングポーズを取ろうとするもすっかり千鳥足である。
どうやら勝敗は決したようだった。
そこで窓の景色を見やると、少し遠い所でパトランプの光がちらつくのが見えた。床に転がったスマートフォンからオペレーターの声が漏れ聞こえてくる。念のために近場のパトカーを送って寄越したのだろう。サイレンも鳴らしていたのかもしれないが、エグジーの耳には不思議と届かなかった。
ふらつく男の首筋に指輪を押し当て、とどめを差してから、エグジーはアジトから逃げ出した。




転げ落ちるように階段を降りて、通りとは反対の住宅街へと逃げる。安全圏へ向かう道としては遠回りではあるが、人の多い場所で迂闊に目立つよりはマシだろう。スーツにまとわりついた粉を払い落としながら駆け足で逃げ切ってしまおうと、速度を上げようとした時だった。急に脚が重くなり、エグジーは道ばたのゴミ捨て場に頭から突っ込んだ。
おかしいな、なんでだろう。体が上手く動かない。
戸惑いながらもう一度立ち上がろうとするも、酷い耳鳴りと吐き気に襲われ、堪えることも出来ずに、朝食べた消化しかけのパンとスクランブルエッグその他胃の中の物を全て吐いていた。呼吸も浅くなり、地面がぐにゃぐにゃと揺れてバランスが上手く保てず、エグジーはぺたりと吐瀉物の上に伏せた。薬のせいか。大した事ないと思ったのだが、明らかにオーヴァードーズ気味だった。やんちゃしていた頃に大麻ならば少々お世話になったことがあるけれど、こんなに不快感の強い症状が出た事は一度もない。
腐っても覚せい剤にだけは今後一切手を出さないでおこう、とエグジーは心に強く誓った。
マーリンなら助けてくれるだろう、と眼鏡の通信機能に呼びかけようとするも喉が掠れて声が出なかった。
もしかするとマーリンの方からもずっと呼びかけてくれていたのかもしれないが、世界の音が遠くて何も聞こえない。
ここで死ぬのかなぁ、最後にもう一度会いたかったなぁ。
ぼんやりと彼の事を思いながら、エグジーの意識はブラウン管のテレビのようにぷつりとブラックアウトした。







目を覚ますと、あたりは白い天井、白い壁、白いカーテンにぐるりと囲まれていた。何もかもがハレーションを起こしたように白く眩しく、目の奥がずきずきと痛んでエグジーは耐え切れずに掛けていたメガネを気だるげに取りバスタブの外に投げ落とす。
ぎゅっと固く目蓋をつぶって、そしてもう一度ゆっくり目を開けると、少しだけ世界が捉え易くなった。
あまりにも真っ白なのでてっきり病室か何かだと思っていたのだが、どうやら自分は浴室に居るらしかった。それから異常に体が凍えていて、冷水の張られたバスタブの中でスーツのまま全身ずぶ濡れで眠っていた事にも気がついた。
あまりに奇妙な状況に何があったんだっけか、と記憶を辿り起こそうとした時だった。
白いシャワーカーテンが揺れ、ぽかんとエグジーが見上げていると、私服姿のハリーが現れた。
張られた水に手を差し入れ温度を確かめると、ぬるいなと呟いてカランを捻った。湯気が立ち上って視覚的には暖かい、と分かるのだが皮膚に触れる感覚は相変わらず冷たいままだ。
怪訝に思っていると、ハリーに突然顔を覗き込まれ、顎を持ち上げられた。ビックリして息を潜めていると、医者の診察のように下瞼を親指で下げて青緑色の瞳を天井のライトに晒し、
「眩しい?」
エグジーはちょっとだけ、と頷いた。
「寒気は」
「真冬のプールって感じ」
ハリーはそうかと肩を竦めると、マシになったみたいだなと囁いた。これでもまだマシってどれだけ酷かったんだろう。
そこでやっと目を覚ます前の出来事が走馬灯のように脳裏に蘇った。
マフィア、アジト、割れたスコッチウィスキー、覚せい剤、吐瀉物。
エグジーはあーと小さく声を漏らしてから、
「……マーリン怒ってる?」
「いいや。心配はしているがね」
ぽんぽんと宥めるように頭を撫でられ、嬉しさよりも子ども扱いされた気配の方を強く感じてエグジーはムッとむくれた。
どうせ俺はポンコツエージェントですよ、とすねたところで急に情けなさと恥ずかしさで胸がいっぱいになった。それにもう来ないって断言したばかりなのに。薬をキメすぎて眠り姫みたいに昏睡さえしてなければ、まだ二週間しか経っていないはずだ。もう嫌だ、家に帰りたい。
嫌気がさして勢いよくバスタブから上半身を起こしたら背中が軋んで痛みが走り、何時間この体勢だったのかとついハリーに問い質すと、二時間という答えが返ってきた。思っていたより短い時間だったけれど体が痛い事に変わりはないので、エグジーはここから出たいというジェスチャーをした。
「ふやけちゃいそうだし」
「どうぞ。寒いと騒がなければね」
さっきまでチクチクと肌を刺すようだった冷水の感覚は突如薄れたのでその心配はなかったが、引き換えに今度は頭が火照ってズキズキと痛みだし、いずれにせよ不快で仕方ない。
ハリーもそれに気がついたのか、エグジーの前髪をかきあげると額にぺたりと手の平を当てた。妙に冷たくて心地よく、エグジーは猫のように目を細めた。
「体温は平熱なんだが……」
「俺そんなに騒いでた?」
「やたらと寒がるし、全身物騒な粉だらけだったから一石二鳥と思ってここに放り込んだ」
俺ハリーに洗濯物か犬か何かだと思われてるのかな、と疑念を抱きつつエグジーはよろよろとバスタブから上がって上着を脱いだ。とうに素足だったので、靴はどこかと探すと床に転がっていてほっと一安心。外で脱ぎ散らかしたせいで死人でも出したらたまったもんじゃない。
「バスタオルと着替えならそこに用意してある。濡れた服はそこに置いておきなさい」
終わったらキッチンへ、と言い残してハリーは浴室を去っていった。
ガンホルスターを外し、ワイシャツのボタンを外し、エグジーは服を脱ぎながら自分の体を点検をしてみた。が、ものの見事に無傷であった。早々に男にトドメを刺せていれば、ガスマスクが外れなければ、あの過剰摂取さえなければ、完璧だったのに……それも詮無い話だ、とエグジーはタオルで髪を拭きながら溜め息をつく。
シャツも下着もエグジーよりワンサイズくらいずつ大きいハリーの服に腕を通し、ズボンも脚の長さの差を見せつけられたような思いになりつつ、引きずらないように裾をまくり上げてから身につけた。
浴室を出てルームシューズをつま先に引っ掛けると、無垢の床をペタペタと鳴らしながら紅茶とスパイスの良い香りに満たされた廊下を進み、キッチンをそーっと覗き込んだ。茶漉とカップへミルクパンを傾けるハリーの背中を見つめてどう声をかけるか迷っていると、
「二人分淹れてしまったから、これを飲んだら帰ってもいい」
チャイティーが注がれたマグカップを差し出されて、エグジーは大人しく受け取った。
「もちろん、体調が良ければ、だが」
向かい合ってダイニングテーブルに着き、ヤケドをしないよう慎重に一口啜る。 ちょうど良い甘さとスパイスの刺激が染み渡って、頭痛が少しだけ和らいだ気がした。
そこでエグジーはあ、と何かを思い出して、
「あのさ、もしかして俺ここまで歩いてきた?」
やらかしかねない、と思ってどうしても確かめたくなった。
「いいや。マーリンから拾って本部に送り届けろ、とたまたま手の空いていた私に通信が入ったんだ」
「本部、」
ふうむ、と唸って答えを濁しハリーは黙り込んだ。
エグジーも上手い言葉が見つからなくて沈黙を選んでしまう。
そして幾許かの居心地の悪い静寂のあと、
「先日の、君の言葉だが、」
一番触れられたくなかった話題にハリーから切り込んできたのでギクリと体が強ばった。
「私の態度が気に障ったのならばすまなかった」
「違う。あの時のは……ただの俺のワガママなんだ。あなたはちっとも悪くない」
俯いて唇を噛み締めてエグジーは泣きだしたくなるのをぐっと堪えた。伝えなきゃいけない事がたくさんあるはずなのに、何もかもが怖くなった。
マグカップに視線を落とすとまだなみなみとチャイが残っていた。さっさと飲み干して家を飛び出してしまいたい衝動に駆られるが、でもそれじゃ、また後悔を繰り返すだけだろう。
「エグジー、「ハリーさ」
言葉がかぶって二人とも揃って口を噤み、眼差しで譲り合ってハリーが先に口火を切った。
「あの日、私は君が路地裏に居ると知っていた」
「?」
あの時は散歩だと言われて鵜呑みにしたが、今思うと苦しい言い訳だと思えなくもない。
「リハビリ、というのはあながち間違っていない。傷が回復してからそう時間が経っていなかったからね。マーリンから最近君が少々不安定に見える、と聞いていたので許可を得てあの場に向かったんだ。姿を晒す気は更々なかったんだが」
「俺の事が心配だった?」
ハリーは僅かに頷く。
「住所を教えたのも、つい、」
「うっかり?」
「うっかり、だ」
チャイを一口啜ってから、ハリーは少し困ったように微笑んで、
「私は、少なくとも君が思っているほど、君の事をどうでもいいとは思っていないよ」
それは自棄気味に吐き出した、二週間前の本音への返答だった。
そうやってあなたは何度も俺を甘やかす。
ずきんずきん、止んだはずの胸の痛みがぶり返して、エグジーはぎゅっと胸の辺りのシャツの生地を掴んだ。言おうと思っていた言葉がからからと食道を転げ落ちてお腹の底へと沈んで行くのが分かった。
エグジーは綯い交ぜになった感情を閉じ込める為にチャイを一気にあおって、
「その言葉が聞けただけで嬉しいです」
マグカップをことりと置いて、息を吐いた。
「でももう来ない事にします。前回約束したことだし」
この酷い気分はなにも薬のせいだけじゃないはずだ。熱と痛みの塊がパチパチと花火のように猛って頭蓋骨を内側から外側へ押しやってくるので、エグジーは項垂れて頭を抱えそうになった。
全部吐き出してしまえば楽になるだろうか。彼はあまりにも優しすぎるから、きっと困らせてしまうだろう。否、そんなの言い訳にすぎないんじゃないか?嗚呼もういやだ、また逃げるのか。
そう混乱して喚き散らす意識とは裏腹に体はスムーズに動いてしまう。
「エグジー、」
「紅茶美味しかったです。ごちそうさまでした」
早口で礼を言い、すっと立ち上がると逃げるようにダイニングを飛び出した。ルームシューズを脱ぎ散らかしながら、玄関のノブに手を掛けたところで酷い悪寒と眩暈に襲われて前のめりに転びそうになる。後ろからハリーに腕を掴まれてなかったら、踏みとどまれずにドアに激突してまた気絶していたかもしれなかった。
エグジーの腕を支えるハリーの手には最低限の力しか籠っていなかった。振り解こうと思えば解ける強さなのに逃げ出すことも振り返ることも出来ずにフリーズしたエグジーの背中に向かって、ハリーは春の驟雨のようにぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「あの日は気がついたら君の前に立っていたんだ」
「頭では分かっていたのに、体が勝手に動いていた。あまつさえ、なぜ住所を教えてしまったのか」
「あの後ひどく後悔したんだ。我ながら賢い判断とは到底思えなかった。君を危険に晒す可能性もあったからね」
「でもそのお陰で今君とまたこうやって会えて、話す事ができて、私はとても満たされているんだ」
「君はイヤだったのかい、エグジー」
これが私の本音だ、と少し寂しそうなハリーの声にエグジーは詰めていた息を咳き込むように短く吐き出した。
それと同時に箍が外れたように涙が溢れて落ちた。
指先が白むほど強く力を込めて握っていたドアノブを放し、エグジーは諦めたように振り返って玄関戸にもたれかかると、ハリーを半ば睨みつけるように見つめる。
「どこか痛むのか」
「ちがう、」
「薬のせい?」
「そうかもしれないけど、ちがう」
「なら、私のせいか」
「そうです」
ハリーはエグジーの頬に片手を添えると、ぽろぽろと瞳から零れ落ちる涙を親指で拭った。その瞳は痛ましいくらいに輝いて、光の加減で青にも緑にもくるくると色を変え、まるで宝石のようだった。
「君の気持ちが見えなくて、本当にすまない」
沈痛な面持ちでそう率直に告げる彼に、らしくないなとつい可笑しくなってしまって、エグジーは吹き出しそうになった。そしてふっと単純なことに気がつく。あまりにも天邪鬼すぎたのだと。相手の霞がかった心を不器用に見透かそうとして、恐れて、疲れて、勝手に傷ついて。言わなきゃ分かんないし、読めない事が当たり前なのに。
言いたい事も言えずに二度と会えなくなるよりは思いを伝えて拒絶された方がずっとマシだと思えた。
エグジーは一つ深呼吸をすると、ハリーの大きな手の平に頬を寄せた。暖かくて彫刻のように美しいが血に塗れた手、けれどエグジーの羨望と憧憬を一身に集める人の手、だ。
ぽろぽろと泣きながらも、ふにゃりと笑って、エグジーはそっと囁くように思いを告げた。
「俺、ハリーさんのことが好きなんです」




いつからだったのか覚えてなくて、気がついた時にはもう好きになってました。
静かに息を呑み口を噤んだハリーの瞳をじいっと、些細な機微も逃さないようにエグジーは見つめた。
「強くて、優しいあなたを見ていると、もっと完璧になりたいと思った。でも、上手く出来ないことの方が多いし、マーリンみたいに信用もされてないって分かって、甘やかされるたびにもどかしくて苦しくなって、劣等感でいっぱいになって、ただ八つ当たりしてたんだ。本当にごめんなさい」
そこまで伝えた途端に、拒絶という名前の冷たい恐怖があっという間にひたひたと喉元まで迫り上がってきたのを感じた。
「……今まで散々お世話になって、大切な事をたくさん教わった。あなたのおかげで宝物がたくさん出来た。それだけで充分だったんだ、って気がつきました」
決心したくせに、後ろ向きの言葉を吐くたびに不安定になって、涙声になって滲んでしまって、上手く伝わっているかどんどん自信がなくなったが、ハリーの至って真剣な表情できっと分かってくれている、と思い込むことにした。
「エグジー」
「あなたにもう迷惑かけたくないんだ」
「エグジー、」
「これ以上求めるのはワガママすぎるから」
エグジー、少しだけ黙ってくれないか。
そう耳元で囁かれたかと思うと、ふわりともう片方の頬を手の平で包み込まれた。次の瞬間、唇に落ちた柔らかい感触、その後に紅茶とは違う甘くてほろ苦い匂いがした。ハリーの香水?いや、待て、問題はその前じゃないのか?視界が涙でぼやけていたが、怜悧に光る鳶色の瞳の近さで、やっと自分はハリーとキスをしているのだと自覚した。
触れるだけの軽いキスだしファーストキスでもなんでもないのに、あっという間に顔が熱くなって意識を手放しそうになった。
ハリーは水面へ息継ぎをするようにエグジーから離れると、しょっぱいなと小さく呟いてから、
「エグジー、私はここにいるよ」
「ん、」
「私も君のことが好きだ」
エグジーは目を見開いたかと思うと、ドアに背中を預けたままずるずるとしゃがみ込んだ。
そして、すぐにくしゃっと泣き笑いの表情になった。
「……うそだぁ……っ」
「嘘じゃない。だから、君の中の私を勝手に殺すのは止してくれないか」
「だって、」
だっては禁止だ、と視線の高さを合わせるように膝を付いたハリーに頭を撫でられてまた涙が込み上げてきて、エグジーは彼の肩口に額を押し付けて泣きじゃくってしまった。みっともないけれど、今まで我慢していた分が全部込み上げてきてしまってどうしようも出来なかった。けれど、嬉しい気持ちの方が圧倒的に勝っているのは確かだった。
しばらくして波が引いて、さめざめと泣くエグジーの髪を撫でながらハリーが囁いた。
「私も私なりに悩んではいたんだよ。君は何より若くて、私のような年寄りが君の可能性に溢れた大切な時間を奪っていいはずがないからね」
その言葉にエグジーは恨みがましそうに腫れぼったい目でハリーを睨んで、
「何も悩まなくていいのに」
「その言葉そっくりそのままお返ししようか」
「俺の事なら好きにしてください。あなたに救われなかったら、ここに居なかったんだから」
それはあの腐り切った世界から連れ出してくれた時からずっと思っていたことだった。
エグジーの言葉にそうか、と得心いったようにハリーは深く頷くと、
「体調は?」
「わるくはないけど、少し頭痛がする。たぶん泣きすぎたせいだ」
「それなら問題ないな」
何が?と疑問符を浮かべているエグジーをハリーはひょいっと軽々抱き上げた。おーいハリー!?ハリーさーん!?と戸惑いの声も無視して問答無用で寝室まで運ぶと、ベッドになだれ込んで覆い被さり、
「まてまてまて、あのさ、ちょっとおちついて、」
「私も老い先短いものでね。お互いいつ死ぬかも分からないし、呑気に待っていられないな」
そう言われると唸り声しか上げられず二の句が継げなくなってしまうのだが、きっと反論した所で彼に口で敵う気配は皆無だし、しかも今は絶賛腰が抜けてしまって逃げ出すことも出来なかった。
でも、だからって、心の準備をする権利くらいはあると思うんだよね。
細くて長い指にワイシャツのボタンを一つ一つ外されていくのを見守りつつも、ねえまってハリー、とそれでも態度を決めあぐねているエグジーに、ハリーは逡巡してから、
「嫌なら嫌と言いなさい」
そしたら本当に止めるから。
ハリーはそう囁いてからエグジーの後頭部に手を回し、逃げ道を巧妙に絶ってからゆっくりと唇を重ねた。下唇を軽く噛まれ、自然と開いた唇に甘く舌を差し込まれて、吐息すら貪るように絡めとられてしまう。 ただのキスなのに目の前でちかちかと星が瞬いた。体の奥の方からどろどろと溶け出してしまいそうな感覚が少しだけ怖くて、呼気が乱れ、息が出来なくなり、彼の腕にしがみついて爪を立てると、ハリーは不安そうに身を離してエグジーの顔を覗き込んだ。
「嫌かい?」
酸素不足に短く喘いでから、エグジーは真っ赤になった顔でハリーの捨てられそうな子犬のような表情を困ったように見やる。そして、ふるふるとかぶりを振って彼の首に腕を回し、甘い体臭に酔いながら耳元で密やかに一言、幼い子どものように無邪気に呟いた。


『お気に召すまま』
(好きにしてくださいって言ったでしょう?)


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