青い夕闇に染まった窓の外をじっと見つめながら、かれこれ小一時間ほど、バージルはポストカードを前に万年筆を握ったまま硬直していた。手紙を書くという行為をまともにしたことが無い上に、今回の場合相手が相手なので言葉選びに慎重を期してしまうのだ。
レールの揺れを感じながら刻々と夜霧の中を駆け抜けて行く寝台列車はイスタンブールへと向かっていた。夜通し走り続けて朝に着く夜行便である。
通常ならば閻魔刀で移動してしまう所だが、メアがいるのでそうも行かず、彼女がチケットを取るのをバージルは静観することにしたのだ。二人用の個室の方が安い、とあっけらかんとチケットを取るメアの危機感の薄さも些か不安になったが、それも他人事である。
列車の類に乗ったのは初めてではないが、久方ぶりの感覚なのは確かで。こうやって時間をかけて移動するのもやはり悪くはないものだな、と移り変わって行く景色を見ていると心が揺れた。
上の寝台に横になっているメアの寝息を感じながらバージルはもう一度キャップを外し、ポストカードにペン先を滑らせた。
"親愛なる……" まで書いて、やはりはたと手が止まる。
もたれかかった壁がゴトンと揺れて、ペン先の口からロイヤルブルーのインクがポタリと紙面に落ちた。それを下ろした銀髪の間からうんざりと見やって、グイッと親指で青色を拭う。
書くのを止めてしまおうか、と脳裏にその選択肢が過ぎったが自分の中の良心がすぐに咎めてくる。
……カードの宛主はネロだった。
ダンテ曰くあの血を分けた自分の子だという精悍な青年への接し方の解を、バージルは未だ先送りにし続けている。確かに身に覚えがあったし魔力の気配は間違いなく近しいそれだったが、彼からしたら突然現れた"父親"という存在は煩わしさしかないのでは、と躊躇う気持ちが圧倒的に強かった。
その一方で、千切り捨て弱ったかつてのバージルを支え、半身である実弟と殺し合うことしか出来ない愚かな自分たちを"止める"という選択肢を持った彼ならば杞憂など通り越して受け止めてしまう懐の深さはあるのかもしれない。
が、全ては推測でしかなかった。彼に関して殆ど何も知らないままの自分に微かな嫌気を感じながらも"もう少し猶予を"とこの旅路を選んだのも、事実だ。モラトリアムに甘んじている自覚は大いにある。
そんな取り留めのないことを考えているうちに淡々と時間は過ぎて行くのに、ポストカードの余白はちっとも埋まらなかった。
「バージルさん、眠れないんですか?」
いつの間にか起きていたらしいメアが寝ぼけ眼を擦りながら二段ベッドから半身を乗り出して覗き込んでくる。
「結構揺れるから寝づらいですよね」
あくびを噛み殺しながらベッドの縁に手をかけてぼんやりと笑う。
その幼子のような表情をつ、と目を細めて見上げて、
「もう少ししたら寝ようと思っていた」
「下の方が揺れませんか?」
良かったら変わりましょうか、と提案してくるメアにいや、とバージルは呟く。
「……上がるのが面倒だ」
「高い方が楽しいのに」
ふ、と笑ってまたブランケットの中に戻って行くメアを見送ってバージルは諦めたようにペン先を素早く走らせる。
『親愛なるフォルトゥナの悪魔狩人へ。
ここの景色はなかなかに美しかった。いつか来てみるといい。体調には気をつけろ』
流れるような筆致の最後の署名としてVの文字を走り書きして、バージルはその文面を自嘲するように鼻で笑った。
許されたいとは微塵も思っていない。彼の腕を奪っておきながら、今更身を案じるというのも中々に滑稽だったが、一方で本心でもあった。
破り捨てられても仕方のない代物だと思いながらも、何処からか湧き上がる罪悪感のせいで出さずにはいられなかったのだ。
ポストカードの裏側は、真っ白な石灰棚と青い空の色を映した水面の写真だった。
膝の上で机代わりにしていた読み差しの本の間にそのカードを挟み込んだ。目的地に着いたら郵便局へ行かねば、と枕元にペンと本を片付け、バージルは揺れる寝台のブランケットの中へとそっと身を埋めた。
「お腹が空きました」
そうぼやきながらイスタンブールのハイダルパシャ駅に降り立って早々にシャッターを切ってきたメアに、バージルはつい眉間を曇らせる。
「撮るなら撮ると言え」
「嫌です。絶対教えたらバージルさん今みたいな顔になりますよ。全部怖い顔になっちゃう」
そう言って真似をするように眉を吊り上げるメアの素振りに、ため息を吐いてバージルは眉間を揉んだ。
直接的に撮影を許可した訳ではないはずだが、同行を許した時点で彼女からしたらそれも同義のことであろう。
「……判った。君の好きにしろ」
「そのうち慣れますよ」
いたずらっぽく歯を見せて笑うとメアは再びシャッターを切る。
ターミナル駅のはずだがやはり朝早いだけあって駅構内に人の気配はまだ少なく、静謐な空気に支配されている。生温い風が吹き抜けて、バージルの漆黒のコートを揺らした。
列車に乗っている間に窓から外観を垣間見たが迫り出した埋立地に建てられた駅らしく海に三方を囲まれる独特の作りをしていた。駅舎はネオ・ルネッサンス辺りの様式で、荘厳な空気を纏い、さながら中世の城かはたまた教会のような面構えをしている。一方で内装は曲線を多用した白を基調とする明るい雰囲気で、鮮やかなトルコタイルでゆるりとアーチが描かれた通路の柱と梁を見上げながらバージルはほう、と息をついた。
「綺麗ですね」
隣に並んだメアが、ジリジリとカメラのフィルムを巻き上げながらそう呟く。
左手の壁面いっぱいに広がった精緻なステンドグラスから差し込む朝の光を浴びて、彼女の丸みを帯びた端整な横顔の線と毛先の跳ねた赤毛が燃えるように輝いていた。
バージルはその様子を前にして、メアの言葉に同調しようと思った単語を数個そっと飲み込む。
上手く表し難いものを見てしまった、そんな気分になったのだ。
「……フェリーに乗るんだろう」
代わりに引きずり出した声が掠れそうになる。
「そうです。もう行きましょうか」
"Never Mind"とプリントされたバンドTシャツの腹部をさすりながらメアはステッカーがあちこちに貼られた銀色の無骨なスーツケースをガラガラと押して歩き始める。
イスタンブールはアジアとヨーロッパの文化が入り交じった、交易の中心地だ。今二人がいるのはアジア大陸の終着駅とも呼ばれる地点だった。今日はボスポラス海峡を渡ってヨーロッパ側にホテルを取る予定だ。
その大きな二つの文化が混ざり合う場所というものに、どことなく己を重ねてしまいバージルはこの地を最初に選んでいた。
人と悪魔の混ざり合った身に未だ葛藤がないと言えば嘘になる。それはあいつも同じことだろうな、とふと実弟の姿が脳裏に過ぎった。
案内板を見る限り、フェリー乗り場のターミナルまではゆっくり歩いても十五分ほどで着くようだった。
人気の少ない海沿いのマーケット通りを歩いていると、海鳥の声に混じって前方から時折シャッターの音が聞こえてくる。
「そんなに楽しいか」
カメラを握り朗らかな笑みを浮かべているメアに向かってつい、そう尋ねていた。
「じゃなかったら今頃ここに居ないと思います」
「もっと若い被写体の方が良かったんじゃないのか」
彼女はネロよりは幾つか年上のはずだったが、それでも自分とは一回りは年が離れている。今のところ困った点はなかったが、下手したら父親でもおかしくはないような齢の男と連れ立って、煩わしくはないのだろうか?と純粋に疑問だった。
バージルの呟きにメアは小首を傾げてから、一瞬遅れて暗に意味することに気づいたのかふはっ、と息を吹き出して笑った。
「年齢なんて関係ないですよ! バージルさんってそういうこと気にするタイプなんですね」
「……君が気にしなさすぎている節もあると思うが?」
若者はおろか一般人の平均的な感覚がそもそも判らない、と思いつつも、見知らぬ男と同じ空間で眠るという列車での彼女の振舞いは、無防備に思えてならなかった。
メアはあー、と唸ると、
「私撮ることしか出来ないので、周りが見えなくなっちゃう時があって……」
「そうか」
「相手のことよく知ってた方が良い写真が撮れる時が多いんです。私の場合、ですけど」
所在なさげにレンズのリングを回しながら、メアが困ったように微笑んだ。
「だから私、バージルさんのこともっと知りたいんです」
朝の日差しの中にふわりと溶ける緑色の瞳を、バージルは目を細めて見つめた。またあの眩しさだ、と思った。彼女は時折光源そのものに変わり、バージルの色素の薄い瞳を焦がしてくる。
光が強い程、影は濃く浮かび上がるという。俺が抱えてきた闇を知ったら彼女はどう思うだろう、とバージルは只々無垢に映るメアを試してみたい衝動にふと駆られた。
その気の迷いを捩じ伏せて、本当に煩わしくなった時には自分が消えればいいだけのことだ、と意識に留め置き、バージルはメアの言葉に生返事をした。
フェリーで海峡を渡りヨーロッパ側に到着するまでは三十分も掛からなかった。地元民の足としても馴染み深いのだろう。一日に出ている出航の本数も多いようだった。
穏やかな潮風に揉まれながら浮島にも見える街並みの水平線を眺めている間に港に着いていた。
世界遺産が密集する旧市街エリアは観光名所としても名高く、時間帯的にも流石に人や車両の数も桁違いで活気づいていた。
「バージルさん!」
ぐい、と突然腕を引かれてバージルは思わずたたらを踏んだ。
「良い匂いがします!ご飯食べに行きましょ」
「判ったから、落ち着け」
その細腕のどこからそんな力が出るんだ、と食い込んだメアの指をそっと引き剥がしながらバージルは彼女の背を追いかけた。
散歩にはしゃぐ犬のようだ、と思った。すらりと足の長い、赤毛で垂れ耳の狩猟犬の姿が思い浮かんだ。
長い通りに目を向けると、全ての店がほとんどカフェで構成されていた。車の排気ガスにも掻き消されない珈琲や紅茶、香ばしいパンの匂いが漂っている。
イスタンブールがカフェ文化発祥の地と呼ばれているのは以前、何かの書物で目にしたが実際こうして前にすると圧倒されるものがあるな、とバージルはパラソルの下のテラス席で優雅にカップを傾ける人々の群れを見やった。
軒先に出ているチョークボードで書かれたメニューを一軒ずつ覗き込みながらメアがはたと足を止める。
「バージルさん、お腹空いてますか……?」
「俺のことは気にするな」
うう、と彼女が小さく呻く声をバージルは聞かなかったことにした。
食べるという行為自体に嫌悪感はないのだがひどく疲れる、というのを思い出してしまったのだ。咀嚼し嚥下し、それを鈍った消化器官が緩慢に受け入れて処理を施す。その一連の働きだけで体が風邪を引いた時のような怠さを訴えて来るのだ。
まともに人らしく生きるというのはひどく手間がかかることなのだと、バージルは改めて気づかされた。
メアが躊躇いがちに選んだのはビルの屋上にあるカフェだった。見晴らしの良い、柔らかな日が当たるテラス席に案内されると、今しがた船で渡ってきたアジア側の地平線がすぐそこに臨めた。
「景色もご飯の一部ですから、せめて」
メアは日替わりのモーニングプレートと、バージルは押しの強い店員に勧められるがままに柘榴のブレンドティーを注文した。
ぼんやりと腕を組みカモメの鳴き声を聞いていると、かしゃり、とシャッターの固い音が響く。彼女が言っていた通り、その音に早くも慣れてきてしまっていた。
メアはオリーブグリーンの瞳を瞬かせて、そういえば、と声を上げた。
「聞きそびれてたんですが、バージルさんはどうしてトルコに来たんですか?休暇?」
自分探し、とでも答えようものなら冷たい風が吹き抜けるだろうに。その問い掛けに馬鹿正直に答える訳にもいかず、バージルは一瞬考えた後、
「君の想像に任せよう」
「ナイショってことですね」
あれこれ考えちゃうや、と笑うメアを見つめながら、早いうちに"仕事"にも手をつけないとな、とバージルは考えていた。
どこの国に行っても何かしらの形で情報屋の類のコミュニティがあり、特に治安の悪い街ほど悪魔狩人の需要があることを、かつて各地を彷徨っていた時に知った。
歴史の深い街ならば、魔界と人間界とが繋がってしまう"はずみ"も起きやすい。ましてこれだけ観光客が多ければ比例するように悪魔の誘惑も増えていくだろうし、手持ちの資金はそうして狩りで稼げば良いだろう、と今回もふらりとダンテの事務所を出て来た訳で、今日にでも仕事は探しに行った方が懸命だろう。
届いた名物料理のサバのサンドイッチとレンズ豆と野菜サラダの乗った鮮やかなプレートを前に、メアは再びカメラを構えた。
ネイビーブルーのガラスに金色の繊細な蔦飾りが描かれたチャイグラスへ角砂糖を一つ沈めながら、バージルは静かに言葉を紡ぐ。
「宿を取ったら、仕事を探しに行くんだが、」
「着いていってもいいですか?」
サンドイッチをむぐむぐと噛みながら即座にメアが声を上げた。
「いいから最後まで聞け」
「はい」
グラスを混ぜるスプーンの手を止め、一口甘酸っぱいブレンドティーを飲んでからバージルは小さく息をついた。
「俺の仕事は悪魔を狩ることだ」
意味は判るだろ、とバージルがメアの様子を伺うとその緑色の瞳の奥に形容し難い火のようなものが揺らめくのが見えた気がした。それはある種の闘志にも見えたが、動揺でもあったのかもしれない。
頬を膨らませたままメアはピタリと動きを止めると、何事かを考えるように瞳だけを暫く泳がせていた。
その大きなアーモンド型の瞳の表面が不安げに潤んだようにも見えて、バージルは二の句を継ぐ。
「君一人の護衛なら容易いが、命の保証はし兼ねると一応言っておく。死にたくなければ着いてくるな」
悪運が強い、と自身ではそう評していたが何の力も持たない華奢な女性がカメラ一つで戦地に飛び込むことを恐れないはずがないだろう。彼女は毎回こうやって恐怖を乗り越えながらシャッターを切って来たのかもしれない、とバージルは目に焼きついた写真集の作品の数々を思い浮かべていた。
メアはごくり、と喉を鳴らしてサンドイッチの塊を飲み込むと、ふわりと少し悲しげに笑った。
「それでも着いていきたいです。自分の身は自分で何とかしますから、大丈夫です」
「……そうか」
メアは長い睫毛を伏せながら、独り言のように囁く。
「私の写真、悪魔の存在に驚く人とアート表現だと思う人に大抵割れるんです。バージルさんが写真集を見ても何も尋ねて来なかったのは、そういう事だったんですね」
柘榴の酸味に目を細めながらバージルはゆっくりと頷いた。必要なことは伝えたはずで、それでもというのなら彼女の好きにすればいいと思った。
そこでふとスプーンでサラダをすくうメアの手元が、若い塩漬けのオリーブの実だけを避けていることに気がついた。
「……君にも食べられないものがあるんだな」
「黒い熟れたのならイケるんですけど、これだけがどうしても苦手で。私の母がオリーブ好きだからいつも食べてもらってたんですよ」
ずっと苦手なままです、と困ったように肩を竦めるとメアはサラダからオリーブを避ける作業に戻る。
どこかの誰かを彷彿とさせるな、と微かに笑いながらバージルは頬杖をつくと、ティースプーンでその除け者にされたオリーブをすくって口に放り込む。確かに若いオリーブは渋みと塩気が強く食べづらいはずだが、噛みしめてみても今のバージルにとっては正直差がよく判らない。
ポカン、と驚いているメアを一瞥してからもう一つすくい上げる。
「君の目の色だな」
「そ、うですね」
「俺もオリーブを残す奴には慣れてるんだ。……全て貰っても?」
「お願いします」
おずおずと取り分けるメアを見つめながら、バージルはくるりと手元でスプーンを弄んだ。
平面の地図だと判りづらいが、イスタンブールは起伏の多い街だ。
食事を終え、メアが雑誌で見かけて泊まってみたいホテルがある、というのでそこへ向かう道のりでも急勾配の坂が突然現れたりした。
キャスター付きとはいえ、凹凸のある石畳と重量のあるスーツケースに振り回され始めているメアの姿に見かねて、バージルはそのハンドルを横合いから静かに握る。
「登るのに集中しろ」
「ありがとうございます!」
転がさない方が断然早い、と片腕でスーツケースを持ち上げるとメアがわあ、と目を見開く。
「めちゃくちゃ重たいのにバージルさん凄いですね」
「登るのに、集中しろ」
「はい」
メアが持っていたガイドブックの地図に従い辿り着いたのは、外壁は白を基調としたヨーロッパ風の建物だった。等間隔に並んだ、臙脂色の格子に縁取られたテラスと窓を見上げてからロビーに入る。
内装は、やはり洋風とオリエンタルが共存していた。イスラム地域で多様されているチューリップの植物文様の天井に、豪奢な金色のシャンデリアが吊り下げられていた。一見ミスマッチそうに映るのに、建物に染み付いた歴史や流れる白檀の香りを帯びた空気がその二つの文化を美しく融合させているような気がしてバージルはゆるりと息を吐いた。
人の良さそうな笑みを浮かべたフロントマンがカウンター越しに話しかけてくる。
「いらっしゃいませ。ご予約はありますか?」
現地人のようだったがとても流暢な英語だった。メアがふるふるとかぶりを振り、
「二部屋取りたいんですが、空きはありますか?」
今確認しますね、と予約台帳を繰り、暫くすると悩ましげな声が上がる。
「申し訳ございません。現在、ツインルームが一部屋しか空いていないみたいで」
どうされます?という問いかけに、二人の反応は両極に割れた。
踵を返そうとしたバージルの袖口をメアがきゅっと握る。
「バージルさ、」
「君が泊まりたかったんだろう。俺は違う宿を探す」
「でもベッド二つあるんですよ?」
「自分が何を言っているのか判っているのか」
「はい。別に良くないですか?」
「良くないな」
朝方に忠告したことをもう忘れたのか、とバージルはギリギリと痛み出したこめかみを押さえた。
「君は無防備すぎる」
「プライバシーには気をつけます」
話が微妙に噛み合っていないんだが、と嘆息をつくとメアがそれに、と申し訳なさそうに眉を潜める。
「お部屋シェアして頂けるとお財布に有難いのです……ちょっと安くなるみたいで」
「泊まりたいのは君だけだ」
「……ですよねぇ」
明らかにしゅん、と萎れた花のように元気を無くしたメアの様子にバージルはいっそう眉間の皺を深く刻み、数瞬考え込む。
要は上手いこと彼女の存在を無視すればいいだけの話なのだろう。その上手いこと、が面倒なのだが。
もう一度深く息を吐いてバージルは解れた前髪をかきあげる。
「……不快になったらすぐに出て行くからな」
「はい?」
「さっさと部屋を取れ」
バージルの言葉の意味を汲み取った途端にメアの顔が笑みでぱっと綻んだ。
ありがとうございます、とパタパタと嬉しそうにフロントマンに駆け寄る後ろ姿はやはり赤毛の犬か何かのそれだった。
ベルボーイに案内されたのは六階の一室だった。とても眺めの良い部屋ですよ、と朗らかに彼が言った通り、窓の外には晴れた空と観光名所であるブルーモスクやアヤソフィアの建造物群が同時に見渡せた。
窓を開け、教徒らに礼拝を呼びかけるアザーンの声を聞きながらバージルは小さなテラスの前に備えつけられた一対の内の片方のソファーに腰を落ち着ける。運も良かったのだろうが、確かにメアがこだわっただけの価値はあると思えた。
淡いクリーム色の上に白いダマスク柄が這う壁紙は上品だったし、寝心地の良さそうなベッドのヘッドボードの白いキルティングは張りがあり、ベルベット生地の深紅の枕とフットカバーとのコントラストがよく映えていた。
チップを受け取り部屋を去っていくベルボーイを見送り、メアはよし、とひと息吐くと窓辺に駆け寄ってくる。
「本当に眺めがいいですね」
「そうだな」
最悪雨風さえ凌げればどこだって構わないとずっと思っていたが、時にはこういう場所に泊まってみるのも悪くはないのかもしれない。
「観光地へのアクセスが徒歩圏内で、部屋からの眺めもいいし朝ご飯のビュッフェがめっちゃ美味しいってオススメされてたんですよ」
「君の目当ては最後だけだな」
そんなことないですよぉ、とへらりと笑いながらメアはベッドの上にスーツケースを広げ始める。
「バージルさん、お仕事にはいつ頃出かけられるんですか?」
「日が暮れる頃、だな」
ホテルに向かう道中に通りがかった小さな市場の入口付近で、硝煙と瘴気の匂いを纏う男を見かけていた。あの近辺を洗えば恐らく目当ての人物なり場所が見つかるだろうと、バージルは踏んでいる。
なるほど、と頷くとメアは着ていたパーカーを脱ぎスーツケースの底を漁りだした。
「私、シャワー浴びてきます」
「ああ」
そう言いおいてメアは着替えを抱えて浴室へと消えて行った。夜行列車からこの暑い日差しの中を歩き通して来たのだから一度リセットしたいのは同じ思いだ、と脱ぎ忘れていたコートをベッドの上に放り投げる。
革のバックパックから読み掛けの本を取り出し開き、バージルはああ、と声を漏らした。
ポストカードの存在を忘れていた。今日か明日にでも出しに行かねばこのまま本のページとどろりと溶け合いなかったことになってしまう気がする。
生ぬるい風が頬の産毛を撫でるのを感じながら、バージルはポストカードを元の位置に戻し、栞を挟んだページを開き直した。
日が落ち始めても客足は未だ途絶える気配がないようで、バージルとメアは市場の人混みにやんわりと揉まれながら道を進んでいた。
色とりどりの絨毯や衣服に、明かりの点いたトルコランプがあちこちに吊り下がっているかと思えば、香辛料屋の大袋が軒先を埋めており雑多な空気に包まれている。
トルコ語やその他の言語が飛び交う声を聞きながら、小規模の市場でこれなのだからグランドバザールのエリアにでも行こうものなら密度はもっと上がるんだろうなと、とバージルはアジャスターケースのストラップを握り締めながら眉間の皺を深めた。
「バージルさん!」
ふと後ろを着いて来ていたメアに呼び止められてバージルは道の真ん中で振り返った。シャッター音が響き、カメラの影からメアの笑顔がひょこりと覗く。
「何でもないです」
「撮ったのか?」
「はい」
どうせ間抜けな顔をしている、とボヤくとメアはそんな事ないですよ、と微笑む。
「バージルさんはいつ見ても綺麗です」
「その褒められ方は複雑だな」
「でも綺麗なんですよ」
辺りのランプの輝きが、細められたオリーブグリーンの瞳の中でキラキラと反射するのを見て、ついバージルは目を逸らした。また余計なものを見たような思いになり、鋭く踵を返す。
すん、と空気を吸い込むと甘い砂糖の香りに混ざって硝煙と瘴気の匂いが鼻先を掠めた。左手を見ると細く薄暗い路地が菓子屋の屋台の隙間に伸びている。
メアがついて来ているのを横目に確認しながらバージルはその路地に滑り込んだ。
一転して喧騒が遠のき、人気も途絶える。古びたレンガ作りの建物の隙間を縫うように進むほど、馴染み深くもある厭な臭いが強まって行く。
不安そうなメアの気配を背中に感じながら、はたとバージルは足を止めた。建物と建物の間に押し潰されるようにこじんまりとしたアーチが作られており、地下へと続くドアがひっそりと暗がりに沈んでいた。
階段を下って近づくと、小さな暖色のランプの下に手の平サイズほどの看板らしきものがかかっており、逆さまに咲いた白いチューリップの横に"Lale"とカリグラフィー文字で書かれている。ラーレ、はそのままトルコ語でチューリップの意味だったはずだとバージルはその掠れた文字を見つめた。
「お店の名前ですかね?」
「どうだろうな」
そもそも店かも怪しいが、と呟きながらバージルはドアノブを捻ると鍵はかかっていなかった。
まず目に入って来たのは様々な酒瓶がずらりと並んだ壁際の棚だった。ギリギリまで光量を絞った暖色の照明の下で、カウンターの内側でグラスを拭いている店主らしき女性と目が合う。
開けた右手に目を向けると、ポーカーに興じている男たちのテーブルが四つほどあった。壁が防音仕様なのか、外からは一切聞こえなかったスローテンポのジャズと酔った男たちの談笑が室内に満ちている。酒場、なのだろう。
ゲーム中の男たちの足元に目を向けると、ライフルバッグやマガジンポーチが無造作に転がり、テーブルの上には当たり前のようにハンドガンが乗っていた。銃規制のされているはずの国内ではまずまず物騒な光景が広がっており、瘴気の臭いは彼らに染み付いたものだと判る。
大方当たりだろうな、とバージルはカウンターに歩み寄る。
ゆったりと編み上げた長いブルネットを肩に流し、ラフなタンクトップ姿のマスターが和やかに微笑みかけてきた。秀麗ながらにどこか冷ややかな顔立ちをしており、年の頃は三十代後半ほどに見えたが、纏う空気には独特の威圧感がある。
「おや、珍しいお客様だ。観光に来たのかい?それとも道に迷ったのか?」
隣に立つメアのカメラを見てそう判断したのだろう。トルコ訛りの英語だったが、その声は穏やかだった。
バージルはアジャスターケースを肩から下ろし留め金をバチンと開けると、中から閻魔刀を抜き出した。
それを見たマスターがおお、と静かに声を上げるのとは裏腹にメアが目を見開いて半身を仰け反らせる。
「えええ、ちょ、ちょっと待ってください。もしかしてバージルさんずっと刀持ち歩いてたんですか?!切れますか、それ?ホンモノ?」
「ああ」
「うわぁ……マジですか……」
ぽかん、と口を半開きにしているメアの様子に微かに苦笑してからバージルはマスターに向き直った。
「単刀直入に言うが、"仕事"の紹介をして欲しい」
マスターは琥珀色の瞳に挑戦的な色を滲ませてバージルを見つめる。
「アンタが言ってる仕事ってのはどの"仕事"だ?」
「彼らは悪魔狩人だろう?」
テーブルの方を示すと、一部の男たちと目が合った。手元ではゲームを進行していても、意識はこちらに向いているのだろう。
マスターはふうん、と猫のように赤い唇の端を持ち上げて笑うと、
「紹介するのはいいが、そのなまくらめいた骨董品振り回して死なれちまうとこっちとしても胸くそ悪いんだが、信じていいのかい?」
バージルとマスターのやり取りを緊張した面持ちで見つめながら、メアは立ち疲れて静かにカウンターの席についた。
彼女の鋭利さすら感じる笑みにバージルは静かに首肯する。
「簡単には死なないから安心しろ」
「そうかい」
判ったよ、と嘆息混じりに言うとマスターは一番奥のテーブルで雑談をしている日焼けした若い黒髪の男を指で示した。
「悪魔絡みの仕事なら、あのエルトゥールって情報屋が詳しいから聞いてご覧」
「助かる」
バージルは閻魔刀をケースに仕舞いながらメアの様子を伺った。棚の酒瓶をじっと眺め回してから、ひらひらとマスターに向かって手を振ると、
「マスター、オールド・クロックって作れますか?あの青いカクテル」
「ああ、出せるよ。お嬢ちゃんはここで待つのかい?」
メアはちらりとバージルを振り返ると、カウンターを指でとんとんと叩いて、
「お話の邪魔になっちゃうと申し訳ないので、ここで待ってますね」
ああ、とバージルは眉を潜めると、
「酔ったら置いて行くぞ」
「お酒弱くないんで大丈夫です」
と、メアは笑うと、カクテルの準備をするマスターの手つきを楽しげに眺めだした。
確かに彼女にとっても面白い話題ではないだろうな、とバージルは踵を返し、エルトゥールの座席へと向かった。
「良かったですね、丁度いい依頼があって」
店を後にし、バージルは昼が去っていく方角へと進路を取る。
断言した通り少しも酔った様子のないメアに微かに安堵しつつ、前金として渡された現地のトルコリラではなくドル紙幣の詰まった封筒をバックパックに捩じ込み、バージルはエルトゥールから渡された地図を眺めやる。
現地の狩人たちも手を焼き、負傷者も多く出している厄介な悪魔がいるという。それは大男にも老婆にもあらゆる生物に姿を変えてしまい、夜な夜な人を食い散らかし回っているそうだ。
イスラム教には厳密には悪魔という概念がなく、情報屋のエルトゥールも"血に飢えた精霊"とも呼んでいた。イスラム教にも天使は存在するが、キリスト教の天使のように自由意志を持たない。そして悪魔や悪霊の類は全て"精霊"と呼ばれる。文化によっては悪魔という存在はひどく曖昧になるらしい、というその感覚の違いを、若い頃の自身ではどうでもいいことに思っていたが、今は何故か安堵感を抱いていることに気がつきバージルはふっと息を吐いた。
「出没場所はトプカプ宮殿の傍らしい」
「うわ、文化遺産じゃないですか……まぁこの辺大体世界遺産だらけですけど」
「依頼者も政府側の人間らしいな。それでそこそこの大金が動いている」
大事にはしたくないが、狩らねば様々な面で悪影響を及ぼすのは確かだろう。
行ってみるしかないな、とバージルはカツカツと固い音を立てて石畳を踏んだ。目的地までは歩いて十分ほどで着くはずだ。
後ろを追ってくるメアの気配が強ばっているのに気がつき、バージルはそっと口を開く。
「今からでもホテルに戻った方が賢明だと思うが」
メアはぐっと唾を飲み込むと、歩調を上げてバージルの隣に並んでくる。
「嫌です」
その意固地げな横顔を僅かに苦笑して見やってから、判ったとバージルは歩調を緩めた。
問題の周辺地域には直ぐに辿り着いた。
情報屋のエルトゥールの指示通りに、青い目玉のようなシンボルが描かれた許可証を宮殿のガードマンに渡すと、彼は怯えた表情で、
「あんたたちの無事を祈るよ」
と、それだけ言って護衛室へと消えて行った。
好きにしろ、ということなのだろうとバージルはトルコ語で書かれた許可証を見つめる。適当に引き当てたコミュニティだったが、現地での信頼度は案外高いのかもしれない。もしくは今までの犠牲者と依頼人への権力に対する恐怖、なのか。どちらにせよ俺には関係のないことだ、とバージルは踵を返す。
「これからどうするんですか?」
人気の少ない門前の広場を見回して、メアが小首を傾げた。
「こちらが彷徨いていれば向こうから現れる」
アジャスターケースの中から閻魔刀を取り出しながら、バージルはそう気だるげに呟く。
「お荷物、持ってましょうか」
差し出されたメアの両手と屈託のない笑みに気圧され、断ろうとした言葉をつい飲み込んだ。
「……頼む」
バックパックとケースをメアに預け、バージルは刀の鞘を静かに握り込み歩き出す。
宮殿の周囲を反時計回りに歩くことにした。すっかり夜気が下り、オレンジ色の街灯の中を時折人々が通り過ぎて行くがそれらしい気配は現れない。
ライトアップされた宮殿の外観に向けてメアがシャッターを切る音がよく響いた。
「なんかこう……堂々としてますよね」
「元はこの国の君主の住処だからな」
「めちゃくちゃお金持ちってことですもんね。オーラが凄い」
王たる存在を"金持ち"のワードで括ってしまうメアの大雑把さにひっそりと笑いを噛み殺して、バージルも一番目立つ塔を仰いだ時だった。
「わっ、と……すみません」
ドン、と鈍い音がして振り返るとメアが通行人に向かって頭を下げていた。
通行人の男の足取りは覚束なく、バージルは思わずメアの腕を取り手繰り寄せていた。
「ちょっとぶつかっちゃって……」
そう尻すぼみに呟くメアを背中に庇う間に、二人の目の前で男の姿がぐにゃりと歪み、黒い煙に包まれる。怪しげに蠢いたかと思うと長い赤毛がずるりと背中に垂れ落ちた。
その後ろ姿にえ、とメアが引きつった声を上げる。
振り返った通行人の姿は、あっという間に赤毛で長身の若い女性の姿に変わっていた。白いVネックのシャツと細身のデニムを身にまとい、その緑色の瞳がすぅ、と細められる。
瘴気と、酷い血の匂いが波のようにどっと押し寄せる中、バージルはその顔立ちに違和感を覚えた。
メアが震える手でバージルのコートの背中を掴む。
「あのっ、なんで、私のお母さんが、」
ああそういうことか、とその既視感にバージルは納得した。メアの顔立ちによく似ているのだ。恐らくぶつかったあの一瞬でメアから記憶を"盗み取った"のだろう。
「悪いが、」
悪魔の行く手を遮るようにバージルは一閃、刀を抜き放った。切っ先を大きく飛んで躱しながら、悪魔は宮殿の外壁を駆け上って行く。
「容赦なく切るぞ」
「……大丈夫です。私のお母さん、もう死んじゃったんで」
そう言って泣き出しそうな顔でメアは笑う。
「……そうか」
バージルは地面からずぶすぶと湧き出して来た低級の虫型悪魔たちに眉を顰めた。何体かは切り伏せたが、留まるだけ無尽蔵に湧いてくる可能性もある。
「とりあえず此処を離れる。このままアイツを逃すと面倒だ」
メアの腰を抱くと、強く地面を蹴った。
「ひゃっ、」
「あの場に留まりたくはないだろ」
「虫除けスプレーなら持ってるんですが!」
「そんなものは効かん」
「ですよね!」
石造りの出っ張りを足場にしながら、バージルは変身した悪魔の後を追った。
先程の化け方を見る限りイスラム教の精霊・ジンに特徴がそっくりだった。黒い気体から凝固して姿を形作る。善性と悪性のジンに分かれるというが、あの強烈な血の腐ったような臭いからしてあれは悪性のジンなのだろう。
どちらにせよ叩き切ってしまえばもう悪さは出来まい、とバージルはコートの襟にしがみつくメアを一瞥して行く手を睨んだ。
宮殿の外壁を登り、屋根を渡って一気に飛び降りるとそこは木々と花の茂る庭園だった。白色灯であちこちがライトアップされており、庭全体がほの明るかった。右手の奥の敷地内に、先程外からも伺えた青い屋根の高い塔が見える。
腕の中を見やると、メアが目を真ん丸にして凍りついていた。
「驚かせたな。すまない」
「い、いえ。バージルさん運動神経凄いんですね」
ぱっと弾かれたように仰け反って立ち上がりながら、メアはへらりと笑う。
「重かったですよね、すみません」
「……いや、軽かったが、」
そんなことよりアイツを見つけなければ、と着いた片膝の埃を払いながらバージルはす、と息を吸い込んだ。
ずず…っと音を立ててまた低級の虫型悪魔が湧いて出てくる。近寄ってきた太った蟻とカマキリの頭を合成したような不格好な悪魔を、バージルは重量のある鞘で殴りつけた。
「寄るな、虫けらが」
真っ赤な血飛沫を上げて頭骨が砕け散り、赤黒い灰になって消えて行く。他の個体も青ざめた居合いの一閃で切り捨て、道を開くと前に進んだ。
ジンの瘴気の気配が近かった。腹を空かせて毎晩人を襲っているとなれば、また狙って来る可能性が高いだろう。
庭園は広く、入口の門を始点に三方の放射状に道が分かれていた。それを横切るように中央へと突き進む。
メアは恐怖と興奮が織り交ざったように軽く息を切らしながら、
「マスターは骨董品って心配してましたけど、全然そんなことないですね。バージルさん、マンガのヒーローみたい」
「君も信じたのか?なまくらの骨董品だと」
「切れ味はちょっとだけ怪しんでました」
ふふっ、とそう正直に言って笑うメアを横目に見てからバージルは手の中の刀に目を落とした。
本当に飾りだけの骨董品ならば今ここに自分はいないだろう、とふと思った。
力を求めるまでもなく、この身は抵抗出来ぬまま悪魔に貪られて死んでいたはずだ。母の後を追うように。
……果たしてどちらが良かった?と、誰にでもなく虚ろに問いかけた時だった。
頭上の樹の中から飛び出して来た影をバージルは切った鯉口で受け止める。
鋭く伸びた爪がギチギチと鋼と擦れ合い火花を散らした。殺気立ち、赤い目をした先程の女に化けたジンが空いたもう片腕でバージルの喉笛を狙って来る。
それを後ろへ飛び退きながら切っ先を抜き放つと、敵の手の平から血飛沫が迸った。
その傷口に舌を這わせる様を眺めやり、バージルは一度パチンと刃を鞘に納める。瑠璃色の長い下げ緒が風に吹かれてゆるりと弧を描いた。
「随分と腹が減っているようだな」
ジンは低く喉を鳴らすとおもむろに高く跳躍した。来るか、と身構えると敵は体を空中で捻り、カメラを構えているメアの方へと転換する。その敵の姿に彼女の唇が戦慄くのが見えた。
素早くバージルは幻の剣をジンに放つ。腹部に突き刺さり苦悶が上がるのと同時に意識の座標を剣に合わせ、瞬時に移動した。
呆然としているメアの眼前に迫るジンの鋭い爪と腕を、バージルは肩口から真っ直ぐに叩き切る。
地に落ちた腕の先と顔に飛び散った血糊にメアは一瞬体を震わせたが、それでもカメラを放すことはしなかった。
仰け反ったジンの胴体を蹴り下ろし、地面に叩きつけるとそのまま青ざめた幻影剣の雨を降らせる。
半身に食らいながらも身を捩り赤毛を振り乱し、尚も逃げようとするジンの細い喉笛を掴んだ。バージルはその苦悶に歪むオリーブグリーンの瞳をじっと覗き込んでから、その腹に閻魔刀の切っ先を突き立て、逆袈裟に切り上げる。
断末魔はなかった。声もなくはらはらと灰になって風に流れて行く残骸を暫く見つめてから、数度切られたシャッター音にバージルは思わず苦笑する。
「君は強いな」
「そんなこと、ないですよ」
ジンの燃え滓のあとに目をやると幾つかの装飾品の類が埋もれていた。鎖の千切れた懐中時計、煤けた宝石のついたネックレスや、ベルトだけ朽ちた時計の文字盤、記念日の彫られた指輪などが絡み合って落ちている。
どれだけの人間を食らってきたのかが生々しく残っていた。
「消化しきれなかったんですかね」
討伐の証拠に情報屋のエルトゥールまで届けた方が話が早いだろうと思ったが、全ては死者の遺品だ。
じっと見つめたかと思うとメアはしゃがみ込み、息を潜めて数回画角や構図を変えながらシャッターを切る。道端で死んでいる鳥の亡骸を観察する幼子のような眼差しだ、とバージルは思った。
「気は済んだか?」
「はい」
バージルは無造作にその灰の中から遺品を全て掴み上げるとバックパックから取り出した紙袋の中へと押し込めた。
メアから荷物を預かり、閻魔刀をケースにしまい込んでいると、隣に立っていた赤毛の頭がぐらりと傾ぐ。
反射的に手を伸ばし、よろけたメアの体を支えていた。
「……ごめんなさい」
立ちくらみしちゃいました、と言って白いトルコキキョウが咲いた広い花壇の傍までふらふらと歩くと、レンガの上にすとんと座り込んだ。メアは苦しげに大きく胸を膨らませて息を吐く。
その隣に腰かけてバージルは額に手の平を寄せた。
彼女は母の死を二度経験してしまったのだ、とバージルはそこで改めて気がついた。紛い物とはいえ姿形は母親だったのだ。常人ならば動揺するに決まっている。
顔についた返り血を、ショルダーバッグから取り出した白いハンカチでゴシゴシと拭う姿を横目に見ると、その目からつう、と涙が一筋落ちるのが見えた。
メアが笑いながら呟く。
「ごめんなさい、バージルさん。少しだけ休憩していってもいいですか」
「ああ。……焦らなくていい」
ハンカチで顔を覆って静かに泣くメアの様子を痛ましい、と感じている自分にバージルは僅かに戸惑っていた。口からついて出た謝罪の言葉も、どこまでも無意味だと判っていたが、言わずにはいられないと思った。
「すまなかった」
「いえ、バージルさんは悪くないです」
ただ、とメアは嗚咽を飲み込んで困ったように笑う。
「少しだけ、手を握ってもらってもいいですか」
おずおずと差し出された震える小さな手を静かに握り返してやると、メアはふうと深く息を吐き出した。ひっくり返り、喉の辺りで詰まったような音を立てていた苦しげな呼吸音がだんだんと穏やかになっていく。
細く柔らかい若木のような指を親指の腹でなぞると、その華奢さに驚いてしまう。この手でいつもあの無骨なカメラを握っているのか、と思うと何とも言えない感慨深さのようなものが込み上げた。そして、人というものはやはりあまりにも脆いのだな、とバージルは音もなく嘆息する。
バージルの手をぎゅっと握り、涙を抑え込むように息をしていたメアだったが、十分ほどですっかり落ち着いたようだった。
「ありがとうございます」
壊れ物を扱うようにバージルが手を離すと、頬の涙の残滓を拭いメアは恥ずかしそうに笑う。
「みっともないところ見せちゃってすみません。悪魔を撮る時いつもこうなっちゃって……」
今日はお母さんを思い出しちゃって何倍も動揺しちゃいましたけど、と消え入りそうな声で囁く。
「先にお伝えしとくべきでしたね……」
バージルはその空元気にも見えるメアの姿を目を細めて見やると、
「そこまでして撮って辛くないのか」
首からかかったカメラを撫でると、メアは苦笑した。
「辛いですよ。でも私が撮らないと、悪魔が"曖昧"なままにされちゃうので。それが嫌なんです」
「曖昧、か」
「私がバージルさんのこと撮りたい、って強く思ったのも、お仕事が直感で判ってたからかもですね」
ショルダーバッグを背負い直すと、メアはくるりと一回転して正門の方へと歩き出した。
「もう元気です!帰りましょう!」
その彼女の勘の鋭さにバージルは笑いだしそうになってしまった。君が察知したのはそれだけじゃないんだ、と手品の種明かしをしたいような衝動に駆られる。
バージルは手の中に残ったメアの指先の感触を確かめてから、その後を追いかけた。
本人は大丈夫だ、と言い張っていたがホテルに戻ってもメアはやはり調子が悪いようだった。
依頼を終え、エルトゥールに遺品を見せに行くと彼は顔を歪めて泣き出した。仕事の話を進めている合間はそんな素振りを微塵も見せなかったはずなのに、とバージルも少し戸惑う剣幕だった。ありがとう、と仕切りにお礼を言われ何事かと問うと、周りの仲間たちが彼の婚約者もジンに食われたのだと教えてくれた。遺品に混ざっていた指輪の一つが、エルトゥールがフィアンセに贈ったものだったらしい。
その様子を写真に収めるメアの表情は、終始どこか固く苦しそうであった。
窓辺のソファーに座り、依頼金の耳を揃えてバックパックに仕舞い込み、バージルが本を取り出すと、ベッドでぼんやりと天井を見つめていたはずのメアが隣のソファーにふらりと身を沈めてくる。
普段は朱の差した林檎色の頬も、今は厭に白く生気がないように見えた。
彼女もホテルの備え付けのボディソープやシャンプーを使ったのだろう。その肌や髪から自分と同じ香りが漂って来るのが少し不思議な気分になった。
「眠った方が、いいんじゃないのか」
開きかけた本を丸いテーブルに置き、バージルはアメニティで淹れた紅茶を一口啜る。
「慌ただしい一日にしてすまなかった」
「いいえ、私が好きでついて回っているだけですから。楽しかったんですよ、本当に」
「そんな風には見えないが」
すっかり疲れたようなメアの表情の奥を探ろうと、その瞳をじっと見つめるが、そもそもバージルは他人の機微に敏い方ではない。
小首を傾げてアイスブルーの瞳を見つめ返していたメアがふと、思いついたように薄い色の唇を開く。
「一つ、バージルさんに妙な話をしてもいいですか。そしてたぶん、短くはないんですが」
「もしもつまらないジョークだったら俺は笑わないが、それでもいいなら」
それは手厳しい、とメアは肩を竦めて苦笑する。
「私のくだらない身の上話なので、笑い飛ばせそうだったら笑ってやってください」
その言葉に急に室内の温度が上がったような気がして、バージルはルームウェア代わりのワイシャツの袖を捲り上げる。
こちらから聞き出す気は薄かったが、彼女が進んで過去を語るというのなら聞く価値はあるだろう、とバージルは思った。あんな"色彩"の写真を撮り、怯えながらも悪魔とファインダー越しに対峙するメアに、少なからず興味を抱いていた。
ソファーの肘掛けに頬杖をつくと、バージルは眼差しでメアの言葉を促した。
握りしめていたミネラルウォーターのボトルから一口あおると、メアはふ、と肩から力を抜く。
「バージルさんがお仕事してた時に私の母がもう死んじゃってる、ってお話したと思うんですが」
聞いたな、と微かに頷くと、メアはよかった、と未だ湿ったままの髪をくしゃりと握りしめる。
「母だけじゃなくて、父も兄も、家族全員死んじゃってて。天涯孤独ってやつなんですかね、いわゆる」
よくある話だと思うんですけど、とメアは乾いた笑い声をあげた。
「二十二年前、私が四歳の時に全員死んじゃいました」
二十二年前、という数字にバージルは胸の奥がひたりと冷たくなるのを感じた。
メアは手の中でペットボトルを弄びながら、バージルの瞳をじっと見つめる。
「ある日、家の中に悪魔が押し入って来たんです。母は私を庇って大怪我をしました。鎌で切り裂かれた背中から温かい血が止まらなくて、私は泣くことしかできなかった。父と兄は家にあった銃や武器になりそうなものでずっと抵抗してました」
母親の血の温度を思い出すように、メアは自身の左手を緩慢に持ち上げると窓から差す月明かりにかざした。もしこれが太陽の光だったら生暖かい感触をより鮮明に思い出してしまっただろうに、とバージルは苦々しく思った。
でも、と静かな声でメアは囁く。
「全員、悪魔に殺された訳じゃなかったんです。直接の死因は突然降ってきた瓦礫の山でした。私の家だけじゃなかった。近所の毎日一緒に遊んでくれたお友達の家々や、よく手作りのお菓子をくれたお姉さんの家も、五匹の犬と暮らしてたおじさんの家も、今度子どもが生まれるんだって嬉しそうに引っ越してきたばかりの若いご夫婦の家も。全部」
瓦礫で潰されたんです、とメアは深く息を吐いた。
「それでも、潰されたのはマシな部類でした。酷いエリアは跡形もなく砕けてしまった。……あの日、私が住んでた街に突然大量の悪魔が湧き、地震と共に地下から現れた奇妙な塔が沢山の家々を破壊したんです」
「……その塔の話は、聞いたことが、ある」
「ホントですか?よかった」
メアはホッとしたように微笑んだ。
バージルはマグカップを取り上げ、冷めかけた紅茶を飲み込んだ。味が感じられなくなっていることに気がつき、自分が多少なりとも動揺していることに気がつく。
二十二年前にテメンニグルを起動した日。バージルが未だ十代だった頃、過ちを犯したその日に、幼かった彼女もすぐ傍に居たということだ。
今まで目を背けていた深淵が、突然眼前にぽっかりと空いて此方を見つめて来るような心地がした。
「確かに治安の良い街ではなかったけれど、人々の営みがちゃんとあったんです」
メアは記憶の中をさらいながら笑う。
「私は、母が庇ってくれて自力で瓦礫の隙間から逃げ出し、生き延びることが出来ました。でも私には何も残ってなかった。両親が親類とも縁を切ってしまってたので、他の震災孤児の子たちと一緒に住んでた街から遠く離れた大きな教会で育ちました」
バージルは淡々と語る、月明かりの中に浮き上がるメアの白皙の横顔を見つめ、下唇を噛みしめた。
「あの頃はなんで私だけ生き残っちゃったんだろうって毎日死にたかったんです」
「……サバイバーズ・ギルト、か」
「そうです」
奇跡的に生還しながらも、それを純粋に喜ぶことが出来ずに人々は罪悪感に苛まれることがあるという。
そこでチラついた赤いコートの後ろ姿を、バージルは強く目蓋を閉ざして掻き消した。
「母は美人で優しくて料理上手だったし、父は腕の良い彫刻家でした。二歳上の兄は学校の人気者で友達も多くて勉強も楽しそうだったのに」
どうしてなんの取り柄もない私だったんだろう、と呟いてメアはオリーブグリーンの瞳からぽつりと涙を一粒落とした。
「でも、ずっと死ぬことばかり考えててもしょうがないよなぁって。何かしなくちゃって思ったんです」
「それが写真だったのか?」
「そうです。十二歳の時、初めてカメラに触りました。これだな、って閃いたんです」
メアは宙で一眼レフを構える仕草を取る。
「あの塔や悪魔が大量出現した一件が、オカルトまがいの怪事件として世間に消費されて忘れられて行ったのが許せなかったし、怖かったんです」
被害だけ見れば震災として丁重に扱われるべきそれを引き起こしたのが"テメンニグル"だったが故に、世の中はゴシップとして認知してしまったのだろう、とバージルはよりいっそう唇を強く噛む。一瞬でそびえ立ったかと思えば跡形もなく消える塔なぞ、一般人からすれば宇宙人の仕業だの政府の陰謀論だのと、喜んで騒ぎ立てたことだろう。
それすらもメアの心を深く痛めつけ踏みにじったに違いないのだ。
「だから、悪魔を撮ろうと思いました。撮って形に残して世の中に送り出していけば、誰も忘れたりしない。私の家族もきっと喜んで許してくれる」
そうやってずっとシャッターを切って来た、とメアは震える声を吐き出した。
バージルはメアの言葉の数々を反芻してから、
「前線に赴くのは、死にたいからなのか?」
クリフォトの根の傍で撮られた写真も血溜まりの真っ只中だった。低級とはいえ一般人からしたら脅威になる悪魔だって大量に湧いていたはずだ。今日の仕事への同行だって似たようなものである。
彼女は自身のことをハイエナと評し自嘲していたが、彼女だって散々貪られたが故の行動なのだろう。
そしてその原因を作ったのは俺だったのか、とバージルは虚ろな目をする。
ーー彼女の復讐相手は悪魔そのものではなく、俺なのでは?
メアは寂しげに目を細めて笑うと、
「そう、なのかもしれないですね」
でもまだ撮り続けないといけないから、とメアはペコペコとボトルを手の中で鳴らした。
「今は撮りたいものや見たい景色や食べたいご飯が沢山あるんです。色んな人に会って、バージルさんのことだってもっと撮らせてもらいたいですし。私の写真を好きって言ってくれる人も大勢いるから」
だから死ねません、と笑うその顔にバージルはああ、と静かに喉の奥で呻いた。
またあの眩しさだ、と思った。彼女自身が強い光を放つのは数多くの闇や苦しみを乗り越えてきたからなのかもしれない、とバージルは漠然とそんなことを考えた。
「大体そんな感じです。つまらなくてすみません」
「いや、そんなことはない……」
滲みだした頭痛を抑えるようにこめかみに指を添えて、バージルはメアの瞳を見つめた。鬱屈そうだった雰囲気が少しだけ和らいだような気がする。
真実を伝えたら彼女はどんな表情をするのだろう、とバージルは思った。
メアはふわ、とあくびを手の平で隠すとよいしょ、とソファーから立ち上がった。
「私、もう寝ますね」
「ああ」
「おやすみなさい、バージルさん」
テーブルから本を取り上げると、バージルは静かに囁いた。
「おやすみ」
飲み干した紅茶は、すっかり冷たくなっていた。
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