街でも美味しいと評判のケーキ屋のテラス席で、レディが注文したレアチーズケーキとメアのストロベリータルトが届いた。
テーブルに置かれたケーキにはしゃぎながら一口ずつ交換し合う、なんて事をしたのはいたく久しぶりだった気がした。
今日はなんとなくでしか約束していなかったお茶会にレディと出掛けに来ていた。空は穏やかな晴れ模様でパラソルの下の日陰が程よい気温で心地よかった。
レディの左腕は未だギブスが取れておらず痛々しかったが、前回会った時よりも軽い固定に変わっていた。仕事の方も難易度の軽い依頼には限定しているようだが彼女ほどの実力があれば片腕でも困らないようで、そのタフさにメアは尊敬の念を抱くばかりだった。
早速一口食べて、味に感動したメアが持ち帰り用にもう一つ注文するとレディがふっと笑う。
「あいつの分?」
「うん」
特に急な用事がなければダンテは事務所で暇そうに留守番しているだろう。
ストレートのアッサムティーをふうふうと吹きながらレディがそれにしても、と呟く。
「あの事務所にずっといることになったって本当なの?」
むぐ、とフォークをくわえたままメアは興味津々に輝くレディの左右で色の違う瞳を、頬を赤らめながら見つめ返した。
「うん、そうなの、一応」
ダンテの気が変わって追い出されたりしなければたぶん、と自信なさげに付け加えてしまう。一応、とかたぶん、とか自分で言っていて恥ずかしくなってきてしまった。
へぇ、と頷いてレディはにやりと笑って頬杖をつく。
「あいつのどこが好きになったの?」
その直球の質問にメアはごほり、とミルクティーでむせてしまう。特に詳しいことは伝えていないはずなのに、どうやらお見通しらしかった。
胸をとんとんと叩きながらひと息吐いて、メアはじっと考えた。感覚で惹かれていたのでまだ上手く言葉に出来ないことにその時気がついた。
うーん、と唸りながら一つ思いついたのは、
「……粗暴そうに見えて意外と優しいとこ?」
「真面目に惚気けに来たわね」
「あっ、ごめ……」
「いいのよ、判る気がするわ」
くす、と笑ってカップを傾けるレディの整った横顔を見つめてからメアは琥珀色の紅茶に目を落とす。
「最初ね、レディはダンテの昔のガールフレンドなのかなって思ったんだ」
二人共お似合いに見える、と言うとレディが苦虫を噛み潰したように顔をしかめて首を振った。
「あいつとは本当に何もないのよ。ただの腐れ縁」
「ダンテもおんなじこと言ってた」
レディが目を細めて寂しげに笑う。
「ダンテのお兄さんのことは聞いた?」
「うん。ちょっとだけ」
「……私もあいつと一緒で父親を殺さなきゃなんなかったの。野放しにはしておけなかった」
クソみたいな父親を持つと大変よね、と明るく笑ったレディにメアは静かに息を呑んだ。厄介な父親、という点には自分にも共通するところがある。それを私はダンテに背負ってもらってしまったけれど、とほのかに唇を噛みながらメアは微笑んだ。
「教えてくれてありがとう、レディ」
「いいの。一目見てメアとは気が合いそうだなって思ってたのよ。……だから私が知ってて欲しいんだ」
また一口チーズケーキを差し出されてメアはぱくりと食いついた。まろやかで甘いクリームチーズがじゅわりと舌の上であっという間に溶けていく。
「ダンテのことで困ったことがあったらすぐに教えてね」
私がメアの代わりに引っ張ったいてあげるから、と拳をぐっと握ったレディにメアはけらけらと声をあげて笑った。
「と、そんな事を昨日レディに言われました」
「アイツの拳骨制裁はシャレになんなそうだな」
ダンテは引き攣った笑みを零し、お目当てのSUVが走り出すのを監視しながら思い出し笑いをしているメアの体を抱き上げた。
遮る物のないビルの屋上は、メアが着ている白いパーカーを柔らかく照らして眩しいくらいだった。
今日は依頼絡みではなくレッド・ラムの幹部狩りのために事務所を離れていた。エンツォやレディが懇意にしている情報屋の下調べによれば、この今ダンテたちがいるビルからほど近い所にある洋館でリストにあった者が三人集まる集会があるという。そのリークされた情報を頼りに二人は隠密の行動をしていた。
洋館に先回りしていても良かったのだが、念の為にと拠点から追うプランをメアが立てていた。確かに情報が嘘だった場合に対処出来ない事態になりかねない。
ダンテは黒塗りのSUVを横目に隣のビルにひょい、と飛び移る。メアの固く結ばれた長い三つ編みがしなやかな猫の尾のように風に揺られていた。
交差点を右に渡って行く車両にあ、とメアが不安げな顔をしたのでダンテは口の端で笑ってメアの体を抱え直した。
「ちゃんと掴まってろよ」
助走をつけてビルを飛び降りると落下の浮遊感に包まれる。メアの体がぐっと強ばるのが判ったが、それでも目を閉じないのが彼女らしい、と感心しつつダンテは魔力で足場を作り、トランポリンのように高く飛び上がった。軽やかに一回転しながら道を挟んだ向かいのビルの屋上に着地すると、車の影を追う。
「遊園地みたい……!」
怖がるかと思えば目を輝かせているメアに笑いつつ、室外機に飛び乗りフェンスを乗り越えると目的地の洋館が見えた。近代的なビル街の中に埋もれるように建つ古いゴシック建築には、妙な迫力を秘めた佇まいがある。
建物の所有者の名義はただの一般個人で、ここに住んでいる訳ではなく時折パーティ会場や撮影スタジオのように人に貸し出す場にしているようだった。
入り口に停まってぞろぞろと人影が降りるのをダンテが見守っている間、メアは人が降りたSUVの方を目で追っていた。入り口から少し離れた道の脇に黒塗りの無骨な車が何台も停まっているのは些か不気味だった。見張りが二、三人見えるが警備は手薄なようだ。
「もしターゲットに逃げられた時の為に時間稼ぎしておきたい」
「どうすんの」
言われるがままビルの屋上から路地に降り立つと、ちょっと待っててと言い置いてメアは腰に差していた鋭利なコンバットナイフをすっと引き抜いた。辺りを見回してから人気のないのを確認し、見張りの死角になる車両の影に身を潜めるとタイヤにナイフを突き立てた。次々とパンクさせて行く手際の良さにおお、とダンテは身を乗り出しそうになってしまう。あっという間に五台ほど停まっていた車両を潰し終えてメアが戻ってくる。
「手馴れてるな」
「コツがあるの。よくやらされてたし」
と肩を竦めてメアは笑う。
「裏口があるってエンツォ言ってたよね」
「そうだな」
「裏の方が見張りも少なそう」
行ってみるか、とダンテはメアを再び抱き上げてビルの非常階段の手摺りを足場に飛び登った。この手の立ち回りは俺なんかより彼女の方が数段優れているな、と感心しきりだった。自分ならば今頃正面突破して引っ掻き回しているのが関の山である。
洋館の隣のビルに飛び移り、煤けたクリーム色の瓦葺きの屋根に降り立つ。建物全体の様式こそ古いが、そこまで年代物という訳でもなさそうな作りをしていた。三階建てだが、棟が分かれている訳でもなく、正面玄関の前に広がる庭も猫の額ほどで敷地面積も狭かった。雰囲気だけはやたらとあるが何故こんな場所を選んだのか判らねえな、とダンテは辺りを見回す。
メアの予想通り裏口を覗き込むと見張り役の男が一人立っているだけだった。
「ちょっと行ってくるね」
「は?」
とっ、と爪先立ちで静かに屋根を伝い降りるとメアは雨樋を掴んで三階の窓の縁に足を掛け、張り出した柱に掴まるとそのままするすると伝って地面に辿り着いた。まるで猫のような身のこなしだ。足音を殺して見張りの男の後ろに立つと、首根っこを締め上げていとも容易く昏倒させてしまう。その鮮やかな手並みにダンテは背筋がゾワゾワと粟立つのを感じた。つい悪魔の前だと過保護気味になってしまうが、実力がある事は確かなのだ。
力の抜けた男の体をズルズルと引き摺るメアの隣に飛び降りると、ダンテはその体をむんずと掴んでゴミ袋の詰まったコンテナに投げ入れた。
「ありがと」
「家のベッドと大して変わらないだろ」
おやすみなさい、とメアはコンテナを見送りながら裏口のドアに近寄った。めぼしいセキュリティは何もなく、ドアノブを捻ると鍵すらかかっていなかった。
却って不気味だな、と思いつつ中に入ると薄暗い納屋に出た。壁沿いの棚に置いてある缶詰のような備蓄品からキッチンの裏側に居るのだと判る。
そっとドアについたガラス窓から中を覗くと人気はなかった。
もしもの為に、とくるくると銃口にサプレッサーを取り付けるメアを見やりながら、ダンテは出発前の彼女の言葉を思い出していた。
『なるべく殺さないように努力する』
それは裏を返せば殺してしまう可能性もあるということだ。冷めた目をしたメアの心中は凡そ察しがついたし、ダンテは彼女の覚悟を支援すると決めていた。
目配せをしてキッチンに入る。クリアリングしながら進んでいくメアの後ろをダンテはなるべく足音を殺して追いかけた。メインホールらしき方向へ出ると、話し声が漏れ聞こえてくる。屋上でも見かけたガラス張りの吹き抜けは明るく、大理石で作られた螺旋階段がぼんやりと光っていた。会話に耳をそばだてると話し合いは三階のダンスホールで行われているようだった。
事前にざっと目を通した内部の地図でも階段は正面側と、今いる裏側の二箇所にしかなくエレベーターの類はないはずだ。
「たぶんこっちの方が見張りが少ないと思う」
裏口の警戒度の薄さからしても確かにそうだろうなと思った。このまま登ろう、と上の様子を伺いながらメアはキッチンを出る。
会議に乱入した所でどうリストの三人を上手い具合に生け捕りにするのかダンテはノープランだったが、メアはスタンガンを装備していた。吊し上げて麻薬取締局にしょっぴいて行く予定ではあるが、法で適切に裁かれなかった場合メアがどのような行動に移るのか想像するのが少しだけ怖かった。
階段を上がって行くと踊り場にまた見張りが立っていた。上にあがる背中の不意を突いてメアが気絶させると、おもむろに懐をあさる。無線機と武装の確認をするつもりだったようだが、男のスーツの懐から転がり出てきたのはペン型の注射器だった。インスリン患者用のそれかと思いきや、メアは外したカートリッジを見やってうんざり顔でダンテに放って寄越した。ラベルには"キル・デビル"と印字されている。
「こいつも悪魔なのかな」
「判らない」
昏倒してしまっては尚更気配が読めなかったが、悪魔ならば殺すまでである。ダンテはカートリッジを手の中で握り潰した。
「思ったよりもヤケクソ気味みたいだね」
「アホらしい」
薬物を製造する側が中毒の深みにハマってしまっては元も子も無いのだが、その甘言の手練手管っぷりに悪魔の影を感じてしまう。
二人ほど見張りを寝かしつけて目的地のダンスホールに辿り着いた。扉の隙間に耳を押し当てると、内容までは聞こえないが人のくぐもった話し声が聞こえてくる。
お互いに視線を噛み合せると頷き、ダンテがドアを蹴破って中に突撃した。
室内は暗く、カーテンは締め切られていた。広く天井の高いホールの中央で旧式のプロジェクターがカシャン、カシャン、と音を立てて切り替わる。
壁に投影された地図らしきものを見上げていた十数名ほどの人間たちが一斉にこちらをぐるり、と振り向いた。その揃った挙動に不気味さを感じてしまう。
リストの三人の中でも最も発言力が高いとされていたディーン・マルバスという男がすっくと席を立つ。頑健そうな顔をした髭面の男が光の中に浮かび上がった。
「君たち、何の用かね」
えーと、と二人が声を揃えて言い淀んだ時だった。
『……スパーダァ……ッ!』
低い地を這うような声が天井から降るように聞こえて来てビクリとメアが肩を震わせた。
テーブルについていた者たちにもこの声は聞こえているようで各々が怪訝そうにざわつきだす。
『何故スパーダの子らが"二人"も居るのだ……!』
『嗚呼、憎い、憎らしい』
「は?二人?」
正体の見えない声に怯えて背中に隠れるメアを見下ろして、ダンテははて?と首を傾げた。
「おい、何か勘違いしてんじゃねえのか。娑婆の空気に酔って鼻までおかしくなったのか?」
マルバスが部下に指示したのか、一気に引かれたカーテンの日差しがダンテの目を刺した。
マルバスはダンテを睨みやり、静かに呟く。
「スパーダ、私は聞いたことの無い名だ」
「そりゃ結構。ピースフルに行こうか」
ダンテは作ったピースサインの二本指をひょこひょこと揺らした。
「大人しく捕まってくれりゃ命だけは助けてやるよ」
捕まる?とマルバスは笑ってから、腑に落ちたようになるほどと頷いた。
懐に手を差し込んだのでメアが警戒して銃口を構え直した。
「君たちは"キル・デビル"を追って来たのかな」
握られていたのは見張りが持っていたものと同じペン型の注射器だった。
マルバスはそれを手の中でくるくると弄んでから、おもむろに自分の首筋に突き立てた。
あーあ、とダンテが面倒くさそうに項垂れる。
「大人しく捕まってくれりゃ、って俺言ったよな?」
「うん、言った」
メアがハンドガンをホルスターに収め、背中のアサルトライフルを腕に抱き直した。
ダンテも双銃を構える。
『絶好の復讐の機会、逃すはずがあるまいて!』
ビリビリと部屋全体を揺らしたその声に、マルバスは肩を竦めて芝居がかった仕草で溜め息を吐いた。
「私は知らないんだが、"もう一人の私"が騒がしいのでね。申し訳ないが君たちの意には沿えない」
その体がバキバキと乾いた音を立てて瞬時に膨れ上がる。他の席についていた者たちも一斉にボロボロと化けの皮が剥がれ始めた。
「まあ、その方が俺はやりやすいが」
「せっかく生け捕りにしてあげようと思ったのに……」
不満げに唇を尖らせるメアを笑って見やって、ダンテは赤い絨毯張りの床を蹴った。
マルバスの体は今や天井いっぱいに巨大化し、その姿は灰色の獅子に変貌していた。
「デカいわんころは相手にしたが、ネコちゃんは初めてだな」
他の部下たちは低級の悪魔に変化していた。今の彼女ならばさばき切れるだろう、と見下ろした傍からメアの銃が火を吹き、鎌を持った死神のような悪魔が赤い泥へと変わって行く。
『スパーダァ……ッ!』
「だから俺は親父じゃねえっつーの。流行りに疎いとモテないぜ?」
ダンテはマルバスの鼻面に弾丸を叩き入れた。コートを翻し、身を捩りながら更にその鼻先を蹴り上げる。呻き声を上げた顎の中にトリガーを引いた。
「そろそろ餌の時間だろ?」
魔力を溜め込んだ弾丸が口内で爆発した。暴れ回る前足を、展開した足場で飛んで避けてダンテは背中のリベリオンを抜き払う。
横薙ぎに突っ込んできた鋭い爪の生えた前足を剣の腹で受け止めながら、ダンテは息を吐いた。
「ハッ、可愛くねえ肉球だな」
その足の裏でどろりと黒い液体が溢れ出していた。歯を食いしばってまたこれか、とダンテは顔をしかめる。キル・デビルで召喚された悪魔が持つ特有の特徴だったが、食らうと消耗が激しい。
連日の睡眠不足で体力がすり減っていたせいも多いにあるのかもしれないが、幸いその点も今は解消されている。
リベリオンの柄を返して、ダンテは前足を弾きながら切っ先を足の裏に捩じ込んだ。飛び散ったコールタールが蒸気を上げながらダンテの肌を焼いたが、やはり以前ほど侵食のダメージはない。
「生温いぜ、ネコちゃんよォ!」
切っ先を上に振り抜き、ダンテは高く飛び上がった。ぐらりとよろめいたマルバスの喉元にリベリオンを突き入れる。体のサイズこそ敵の方が大きかったが、その様相は草食獣の喉笛に食らいつく肉食獣のそれだった。
吹き出した赤い返り血を浴びながら、剣の根元まで肉に潜り込ませると、マルバスが痛みに咆哮した。
振り払われた前足を避けた瞬間に白い牙の並んだ顎が眼前に迫っており、鼻先がダンテの胴体を横に薙ぎ払う。その勢いを殺しきれず、ホールの端まで吹き飛ばされた。
「短気なネコちゃんだな…っ!」
刺さったままのリベリオンを魔力で引き寄せながら、ダンテが再び床を蹴り上げた時だった。
マルバスがぐるりと方向転換をした。
その方向にはメアが居た。悪魔の仮面にナイフを差し込み引き剥がし、露出した弱点にトリガーを引く。倒れた悪魔の赤い泥を浴びながら、背後で鎌を振りかぶった敵の胴体を掌底で突き飛ばし、ナイフを顔面に突き立てた。
そのメアの背中に向かってマルバスがぐわりと牙を向いた。
まずい、とダンテは歯を食いしばり、獅子の頭蓋に向かって双銃を掃射する。
「逃げろ!メア!」
その声でメアは反射的に横に飛んで避けた。ガチン、とマルバスの顎が空を噛む音が響いた。が、追撃する前足を避けるほどの距離をメアの跳躍では稼ぎ切れていなかった。
鋭利な爪がメアの脇腹を抉り抜き、青い瞳が苦痛に歪むのをダンテは見た。
小さな体が吹き飛ばされてホールの壁に叩きつけられる。
その光景に無意識のうちに"半身"の引き金を引いていた。魔人化した体でマルバスの胴体を蹴りつけ、手中に舞い戻って来たリベリオンで肋骨の隙間から心臓目掛けて先端を突き込んだ。捉えた拍動の感触に向かって更に弾丸を撃ち込むと、マルバスの体がぐらりと倒れる。
『スパーダの子、一人討ち取ったり……』
「黙れ、勘違い野郎」
牙の間から血を吐く獣の首を、ダンテは振り下ろしたリベリオンでざん、と胴体から切り離した。
ごろりと鈍い音を上げて転がった頭蓋が赤い泥へと溶け落ちていく。それを半身のトリガーを解除して踏み散らしながら、雑魚悪魔を切り捨てダンテはメアへと走り寄った。
その背後の壁紙にどろりと引かれた赤い血の跡から出血量が芳しくない事を知る。
「おい、メア」
傷口を押さえた手も白いパーカーも真っ赤な鮮血に濡れていた。声をあげようとした喉から血の塊をごぼりと吐き出しながら、メアはダンテを涙目で見上げる。
「ごめん、ね、避け損なっちゃった……」
「しっかりしろ。医者んとこ行くぞ」
早く処置をしないと流石の彼女でも身が持たないのは明白だ。
青ざめた顔で痛みに震えているメアの体を抱きかかえようとした時だった。
バチン、と音を立ててダンテの魔力が白く弾け、つい手を引いてしまう。
「……なんだ?」
その感触に既視感を覚えた。その強い静電気のような抵抗感は、以前にも感じたことがある。メアが打たれた薬で混乱していた時だ。
ぞくり、と体の"裏側"の自分が蠢く感覚が脊椎の辺りを撫でる。
「どうしろって言うんだよ……」
ダンテは、肩で苦しげに息をしているメアの白い頬を怖々と手の平で包み込んだ。
「ダン、テ……?」
その時、ずるり、と引き摺り込まれるような感触に襲われ目眩がした。かつて戦ったネヴァンと名乗った女型の悪魔も精気を吸い取る攻撃をしてきたが、あの噎せ返るような気怠い吸引のベクトルとは様子が違う。
貪られ、背筋が薄ら寒いのにどこかほの甘い疼きを伴う妙な感覚だった。
ふっ、とメアの白い喉が反り返り、触れた頬に赤みが戻るのが見えてダンテは目を見開いた。
まさか、と思い血塗れの傷口からメアの手を退けるとじくじくと深い裂傷が白い光を帯びながら塞がっていく。
やがて目の前で滑らかな肌に戻ったメアの脇腹をするりと撫でて、ダンテは眠たげに目を瞬かせているメアの瞳を覗き込んだ。
ーー確かに"魔力を食われた"感触がしたが、一体何故……?
彼女は紛れもないただの人間だったはずだ。
メアも一瞬キョトン、としてから掠れた喉で呟いた。
「あれ……お腹が痛くない……」
「治ったぞ」
「え?」
「よく判んねえけど治った」
パーカーの裾をまくり上げて、ぺたぺたと腹を撫で戸惑いの声を上げるメアの姿に笑いながら、ダンテは一つの可能性に思い当たっていた。
「スパーダの子が"二人"って言ってたよな、あのクソライオン」
事務所に帰ってきてカウンターで遅いランチを取りながら、ダンテはかちりとスプーンを食んだ。
今日のメニューはいつの間にかメアが屋上で育てていたバジルを使ったチキンの煮込み料理だ。甘く炒められたパプリカと、バジルとトマトソースの風味が食欲をそそった。
メアはむぐむぐと咀嚼しながら、ダンテの言葉に首肯した。
傷の痛みもなければ貧血のような症状もなく、食欲も普通にあるようだった。
あれだけの血を流したのに綺麗に元通りになるだなんて、何かしらの理由があるに決まっている。
「もしかすると、なんだけどさ」
ダンテは頬杖をついてメアのスプーンを握っていない方の手を取った。じっと魔力の流れを意識すると微弱な電気のような痺れが走り、今度はメアもそれに気がついたようだった。
「今の何?」
通常の人間は魔力を保つ器をそもそも持たないので、扱う事も感知する事も難しく、それ相応の鍛錬が必要なはずだ。
でも今のメアは明らかに違っていた。
ダンテはその柔らかい手をやわやわと握りながら、うーんと言葉を続ける。
「親父さんに打たれた"キル・デビル"で体質が変化したのかもなって」
「体質?」
「例えば俺の魔力だけは扱える、とかな。メアの個人的な魔力は今の所感じ取れないし」
魔力の流れを受け入れる窓口は空いているが、生み出す源泉や機構のようなものは無いようだった。それも天性の才能や鍛錬で補う人間もごく稀には居るのだろうが。
「お前はさっき自力で俺の魔力を食って、傷を治してた」
追い詰められた故の行動だったのかもしれないが、魔力だってあくまで"力"に過ぎずどう用いるのかは使い手に委ねられる。
そう伝えるとメアは腕を組み、不思議そうに首を傾げていた。
「なるほど?」
「判ってないだろお前」
笑ってちぎったパンを口に運びながら、ダンテはぼんやりと宙を見上げた。
「前にも一回メアに魔力を食われたな、って思った事があった気がして」
「そうなの?」
「うん。それで俺の"匂い"がメアについたのかもしれない」
それであのクソライオンがスパーダの子が"二人"だと勘違いしたのかも、とダンテは香辛料で熱くなった口に水を含んだ。
「まあ、全部"かもしれない"なんだけど」
メアはふむ、と息を吐いた。
「あの薬を打たれた時ね、ずっと悪魔たちの声がしてたの。"望みを言え"って」
「あー、契約させる為の常套句だな」
心の隙につけ込み願いを叶える代わりに体を乗っ取る、低級の悪魔たちはそうやって人間の体を依り代にしてこちらの世界にやってくる。
「その時、ダンテがこう言ってくれたじゃない? "何かして欲しいことあるか?"って」
口に運びかけたスプーンを取り落としそうになってダンテはたらりと額を汗が伝うのが判った。その時のメアの返答はよく覚えている。
ーー"私ダンテとずっと一緒にいたい"、と彼女は言った。
「それでもしかしたら、なんだけど……私はダンテの悪魔の部分?と契約しちゃったのかなあ?とか?よく判らないけど」
でもダンテは依り代も要らないし私なんかと契約する必要だってないもんね難しいな、とくるくると表情を変えて考えあぐねるメアの横顔を見ながらダンテは脳裏に浮かんだ言葉をそっとかなぐり捨てていた。
『今日より良い時も悪い時も、 富める時も貧しい時も、 病める時も健やかなる時も、愛し慈しみ、 そして、死が二人を分かつまで……』
もしかすると自分が死ぬ時がある種メアが死ぬ時なのかもしれない、とふと思ったのだった。
今日のような負傷の件と彼女の願いを叶えるという意味を合わせて考えると、ただの人に過ぎないメアの肉体の脆さはダンテが居なくなった瞬間に崩れ落ちてしまうのだから。
メアの推察は正しいのかもしれない。何せダンテ自身も悪魔の部分の自分について判っていない事が沢山ある。
つい赤くなった頬を手の平に埋めていると、メアが大丈夫?と覗き込んでくる。
「ごめんね、辛くしすぎちゃった?」
「いや、ちょうどいいし美味いよ」
メアがそこまで気がついていないことに少しばかり胸を撫で下ろしながら、ダンテはこの不思議な"現象"をどう伝えたものかなと考えていた。
それと同時に恨みの対象に過ぎなかった"キル・デビル"という薬物への認識がほんの少しだけ変わるのを感じていた。もしかしたら彼女を散々悩ませ、これからも苦しめていくこの薬が救いに転じる事があるのかもしれない。実際今日がそうであったように。
「お代わりいる?まだあるよ」
「ん。食べる」
ダンテはおもむろに席を立つと、空いたプレートに料理を盛りつけるメアの腹部に腕を回した。
「どうしたの?」
Tシャツの裾から手を差し込むとするりと脇腹を撫でてメアの体に魔力を注ぎ込む。皮膚を走るピリピリとした疼きにふあ、とメアがこそばゆい声をあげた。
「なっ、何してるの、ダンテ」
「いや、どこまで"食える"のかなーって」
もしも魔力を溜め込んでおけるのならば、今日のようにダンテが直接触れてやらずともメアは使いこなすだろうと思った。彼女を救うよすがになるのならば幾ら貪られても構わなかった。
それにしても判らない事が多すぎるな、と考え込んでいるとメアの耳が真っ赤に染まっている事に気がつく。もじり、と膝をより合わせてふるふると体を震わせていることに気がつき、ダンテがおや、と顔を覗き込むと、
「よりによってなんでそこなの……っ」
「……もしかして感じてた?」
ぽこり、と軽い力で肩を殴られてメアがぽたりと涙を零した。
「ダンテのバカぁ!悪魔!」
「悪かったって!マジでわざとじゃないんだってば」
しゃっくりを上げるメアの火照った体を抱き締めて髪を撫でると、背中に腕が回り、ふにりと柔らかい胸の感触が胸板に押し当てられる。
「……それなら手伝って……」
するりと内腿をなぞりながら見上げてくる涙で濡れたサファイアブルーの瞳を見つめ返して、ダンテは苦笑した。
本当にこういう所が小悪魔的で上手いもんだ、と愛おしさに胸が苦しくなりながら強請る唇にそっとキスを落として微笑んだ。
「仰せのままに、お姫様」
←TextTop