紙の書類が限界まで切り詰められた現代社会において、今目の前に恭しく差し出された真白く光る書面は少々物珍しく感じた。
コナーはゆっくりと瞬きをしながら、蛍光塗料を塗りたくったように光る紙を見つめる。書き出しには"雇用契約書"の文字が踊っており、手の中で、これもまた年代物のコンウェイ・スチュワートの万年筆をくるくると持て余し気味に転がしながらその意味を思案していた。文字が孕む意味は無論判っているのだが、自分には毛頭関係のないことだとばかり思い込んでいたのだ。上手く意識に染み込んでくれない概念に戸惑いながら窓の外に目を向けると景色は澄んだ青空ばかりが広がっていて、生憎ヒントになりそうなものは何一つ転がっていなかった。
人事担当だ、と紹介を受けたサイバーライフの女性社員はよく出来た笑顔を貼り付けて穏やかにこちらの様子を伺っている。強く引っ詰めた長いブロンドヘアと濃紺のスーツには清潔感と生真面目そうな空気が漂っていた。アイスブルーの瞳と目が合って脳裏に過ぎったのは、カムスキーの屋敷で出会ったあの女性型アンドロイドの瞳だった。




「電話口でもお伝えしましたが、貴方をサイバーライフ社で正式に雇用したいとCEOの面子が考えておいでです」
その口火を切っ掛けに彼女は滑らかに契約内容について話し始めた。まるごと暗記した資料を読み上げているようにも思えて、まるでアンドロイドみたいだなとコナーは唇の端で小さく微笑んだ。
膠着状態だったアンドロイドに纏わる法整備が大きく進展したのは昨日の朝方のことだった。アンドロイドを新たな種族として認め、給与を与えることを政府が良しとしたのだ。微細な制定はまだこれからではあるが、最初に踏み出した大きな一歩であることに間違いはなかった。その動きを受けて真っ先にサイバーライフ社も柔軟な対応力を見せたかったのだろう。
最低賃金や残業代の有無と言った社員の話にぼんやりと頷きながら、おもむろに万年筆の軸をクルクルと回してパーツを分解してみる。暖色の照明の光を受けても尚、コンバーターは机の上に青いインクの影を鈍く落としていた。
「福利厚生の一環として社員寮の利用も可能なんですよ」
その他にも無料で利用できるフィットネスクラブや映画館の割引特典などもあります、とベイビーピンクのリップを引いた唇が流暢に言葉を紡ぐ。
社員寮というワードにコナーのこめかみのリングがくるりと黄色く光った。今までコナーは署での業務が終わればサイバーライフのメンテナンス倉庫へと"格納"されるのが基本の流れだった。当たり前になっていたルーチンワークが崩れることに興味が湧いた。一人で暮らす、というのはどんな気持ちなのだろう。楽しいのだろうか。それとも寂しい、のだろうか。
「以上のご説明でいかがでしょうか、コナー様」
ご質問等あれば何なんりと、とそこで初めて楽しそうに彼女は肩の力の抜けた微笑みを覗かせた。コナーは嗚呼と気がついた。歓迎されているのだ、と。少なくとも彼女個人はアンドロイドを受け入れることを喜んでいるのだ。少々鮮やかすぎる口紅も、空回り気味な膨大な説明も、段々と上がっていく体温も、全て大役を任されたと意気込んでの事だったのだ。
コナーの答えは既に、書類を目にした瞬間から決まっていたのだけれども。
「大変申し訳ないのですが、返答を半日ほど保留させていただいてもよろしいですか」
相談したい人がいるんです、とぎこちなく笑うと彼女は分かりました、と穏やかに頷いた。




サイバーライフ社を後にし、昼過ぎからコナーは職場ではなくジミーのバーへと向かった。帰り際に渡された会社のロゴ入りの封筒が心なしか重たく感じられてしまう。書類など三、四枚しか入っていないはずなのに。
ハンクは珍しくも既に出勤していたようだった。先に中で待っていてくれという連絡があったのでコナーも躊躇いなくカウンターの席についたが、ふと若干の後悔の念が浮かんだ。ハンクのやる気を削ぎかねないタイミングになってしまって、申し訳なくなったのだ。それでも、と封筒を一度撫でてコナーは息をつく。自分の我儘と逡巡に、どうしても付き合ってほしかった。
何か注文を、と思考したところで現金払いのみだったことを思い出す。胸ポケットから引っ張り出した五ドル札をバーテンダーへと渡し、卓上にあった赤いブリキのバケツの中へチップの二ドルを投げ入れる。先日ハンクの髪を切った際に要らないと断ったのだが、無理矢理押し付けられてしまった駄賃が役に立った。
これでおすすめのウイスキーを、と頼むとハンクがよく飲んでいるものと同じ銘柄が出て来たのでコナーはおや、と驚いた。店員が気を利かせてくれたのだろうか。グラスの縁を噛みながらちろりと舌先で舐めてみた。アンドロイドに味覚はないが、擬似的に想像して再現することは出来る。きっとハンクはこの辛くて固い飲み口を好んでいるのだろう、と思った。自分を痛めつける為に酒を飲む人だから、まろやかな口当たりだとか喉越しの良さなど求めないに違いない。
「なあ、あんた、」
ぼんやりとグラスの中で揺れる琥珀色の液体を見つめていると、不意に声をかけられた。斜向かいの席に一人座っていた、スパニッシュ系のルイスという男だった。何度か店内でバスケットボール中継の間にハンクと話しているのを見かけたことがあるので、彼の友人なのだろう。ハンクよりは幾分も年若いようだった。
「一本どうだ。吸えれば、だけどな」
横合いから差し出された紙巻きの煙草にコナーは思わず目を丸くした。吸える、とは思った。この身に与えられた人工肺の機能は人間のオリジナルよりも格段に優秀だ。それよりも声をかけられた、という事実に驚いてしまって反応が数瞬遅れてしまう。ここは"アンドロイドお断り"の店だったはずだ。馴染みのハンクが居ない今、追い出されることも覚悟した上でコナーはこの店を指定している。
どうにも上手い言葉が見つけられずコナーは黙ったまま煙草を受け取った。見様見真似で唇に挟むとルイスが火のついたライターを差し出してくるので、先をかざしてゆっくりと息を吸い込んだ。温かな煙が喉に流れ込んでくる。きっと甘い吸い口の煙草だろう、と思った。パッケージから分析した結果、バニラの香料を使っていることが判ったからだ。人間が得るようなニコチンによるリラックス効果といった恩恵を直接受けることはないが、朧気に依存してしまう者たちの気分が判った気がした。
「ありがとうございます。こういった嗜好品は初めてで……興味深いですね」
グラスと煙草を示してからコナーは肩を竦めて淡く笑う。今日は初めてのことが沢山あったからか、胸の辺りが浮ついているようだった。
ルイスは耳に残るカラカラとした笑い声をあげて、そうだろうな、と続けた。
「あんたのとこのハンクは、だいぶ心配性だしな?」
しんぱいしょう、とぎこちなく口の中で呟きながらコナーは伸びてきた灰を銀色のトレーの中へ叩いて落とした。彼がハンクとどのような会話をしているのか定かではないが、どうやら自分は頼りないという評価を受けているようだった。心配するべきは自分の身の方だろう、ともしハンクがこの場に居たら言い返してしまっていたかもしれない。ぎゅっとフィルターを噛みしめると苦味の成分が増したようだった。
その時背後のドアが開いた気配がした。
「おい、なんだ、ルイス。お前遊んでる暇なんかないだろ」
肩にぐっと寄りかかって来た重さを煙草を咥えながら振り返る。
「おつかれさまです、ハンク」
今日は二日酔いではないようだった。最近酒量が減ってきているようで何よりだ、とコナーは目を細めてハンクの様子を伺った。
「お仕事中に呼び出してしまいすみません」
「別に構わないが、」
それで話ってなんだよ、と言いかけた言葉を飲み込んだハンクがあからさまにギョッとした顔をする。煙草とコナーの手元のグラスを見るにつけ、視界の端で手が振り上がった。避ける隙もなく、あっという間に咥え煙草を奪われてしまう。
「ロクでもないことするな」
低く吐き出した言葉の端に如実に怒っている気配を感じたので、コナーは素直に謝ることにした。
「すみません、興味があったのです。何故人はこのような物に依存してしまうのか、判った気がします」
悪気なく放ったその言葉が暗に胸へ刺さったのか、彼は僅かに眉間の皺を深めた。
「悪りぃな、ハンク。俺が薦めたんだ。そんなに叱ってくれるな」
だと思ったよ、とルイスのフォローに言い返してハンクは鼻を鳴らした。コナーから取り上げた煙草を捨てるでもなく揉み消すでもなく自分で咥えると、行くぞ、と腕を引っ張られる。意識に数秒の空白が生まれた気がした。これは何というのか……ああそうか、と答えを見つける間に椅子から転げ落ちそうになってしまい、すんでのところでこらえる。
置き去りにしかけた封筒を掴んで店を出る寸前、ルイスと目が合った。人懐っこい笑みを浮かべて手を振っている彼に手をあげて応えるも、一瞬でドアから引きずり出される。
「真面目な話すんのかと思って来てみりゃこれか」
深く吸い込んだ煙を強く何度か吐き捨てると煙草はあっという間に短くなって灰の塊になった。ほのかに冷たいような寂しい思いが胸に過ぎったのはきっと"間接キス"というワードを柄にもなく思い浮かべてしまったからだ。馬鹿馬鹿しいと判っているのに。コナーは胸元のポンプ調整器の辺りに手を置いて、苦しげに息を漏らす。まただ。先日から不意に混じる体の奥のガリガリとしたノイズが煩わしかった。パーツの交換期限はずっと先なのに、この所こうした違和感に付き纏われ続けている。
「ご心配なさらず、ちゃんと話しますよ」
と、自分の心配を余所に明るく作った声で返して大振りの封筒を腕に抱え直すとハンクの表情が複雑な色に翳るのが判った。良い意味で裏切れるといいのだが、彼は怒るだろうか。願わくば喜んでほしいのだけれど。
ハンクはまだ火のついた吸殻を指先で弾くと靴底で揉み消し、
「"スーパーアンドロイド"なんだから、煙草は体に悪いって知ってるだろ」
コナーが変異体になった事を認めた上でハンクはその皮肉を使う頻度が増えた。
「健康を害するのは百も承知ですが、僕には関係の無いことだって貴方が一番判っているはずでしょう……? 貴方が吸い切った事の方が意味が分からない、何故です?」
こんなにも突然苛立って具合でも悪いのだろうか、とハンクの体調をスキャンしようと目を見張ると額を指で強く弾かれた。
「もういい、早く車に乗れ。署に戻るぞ」
「……判りました」
署内では話難いかと思いここを指定したのだが車内で話せば事足りるだろう、と諦めてコナーはハンクの愛車に歩み寄った。
そこでふとジミーのバーを振り返る。つい数瞬目を見張ってしまった。"NO ANDROIDS ALLOWED"の赤いシールが黒いスプレーで塗り潰されていたのだ。右上の隅から引っ掻いて剥がそうとしたものの諦めた痕跡があった。店主がやったのか、それとも他の誰かによるものだろうか。入店の際には気づけなかった"変化"だった。
コナー、とハンクに呼ばれて我に返り、道路脇に停められた車の中へと身体を押し込んだ。
エンジンをかけて、それで?と促すようにコナーを見やったハンクが不思議そうに小首を傾げる。
「お前なんでそんなに嬉しそうなんだ」
そう言われた時には既に体の奥が熱くて、肌の表面がざわざわと波打つような心地がしていた。胸が弾む、というのはきっとこういう感覚なんだろうと知る。
「今日は色々なことがあって……だから、」
聞いていてくださいねハンク、とコナーは大きく息を吸い込んだ。


美男子と煙草

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