短編 | ナノ

▼ 海堂のホワイトデー

好きな人からバレンタインデーにチョコをもらったが、個性的な味だった。
有り体に言えば不味かった。カカオの苦味とは違う舌に残る渋さと、チョコとミスマッチした食材の味──何かはわからない──が海堂の顔を曇らせた。普段から母の作る絶品に舌鼓を打っている身としては、お世辞にも美味いとは言い難いものであった。

とはいえ海堂は乾汁を経験している猛者だ。あれ以上の個性的な飲食物はない。良薬は口に苦しというが、地球上の薬をかき混ぜたとしてもあのような味にはならないだろう。
だからチョコが少しくらい不味かったとしても特別悪い気は抱かなかった。一度最低を知ると大抵の物は良く思えるというあれであった。
しかも好きな人から貰った物だ。もはやその苦味や気味の悪い食感ですらなんだか可愛く思えた。海堂はゆっくりと二日かけて食べきり、そうしてお礼を伝えようとみょうじの教室へ向かった。

小学生の頃は女子に怖がられていたため、バレンタインデーは近所のおばあちゃんと母親からしかもらえなかった。
中学生になると、部活に精を出す海堂に好意を抱いた女子が数人チョコをくれた。もらったはいいものの、どうしたらいいかわからなかった海堂を見かねて母親がお返しを用意した。
今年は多くの女子から呼び出されたが、もらう前に丁重にお断りを入れた。好きな人以外にお返しをしたくなかったのだ。お返しをしないという考えは、礼儀の正しい海堂にはなかった。

たとえ好きな人からチョコをもらえなかったとしても、海堂はそれでいいと思っていた。なんせ、四月からは三年だ。全国大会優勝を果たした青学テニス部の部長だ。
バレンタインだかなんだか知らねぇが、浮ついた気持ちで二度目の優勝は狙えねぇ。
細く長い息を吐き、心なしかピンクに色づく当日の校舎内をいつもより三割り増しな眼光で闊歩していた。

みょうじに呼び止められた後の海堂の周りには、小さな花が飛んでいたと池田雅也は云う。

閑話休題。果たして唯一の特別な個性的チョコをもらった海堂は、翌々日、みょうじの教室に辿り着くと通りがかった生徒に彼女を呼ぶように頼んだ。
もちろん照れもあったので、海堂の声は自然と低くなる。生徒はビクつきながらも周囲を見渡した。

「えっと、いないな」
「そうか。悪かったな」

何の用かと追及されたくはないため、海堂は早々に背を向けた。浮かれている姿を万が一部員に見られたら示しがつかない。部長としての名折れだ。手塚部長を思い出せ。海堂は背筋を正し、足早に自教室を目指す。
すると廊下の先にみょうじが見えた。あ、と思った瞬間にお互いの目線が合う。海堂は片手を挙げて呼びかけようとしたが、その前に顔をそらされた。
スタスタと、みょうじは角を曲がっていってしまう。中途半端に浮いた海堂の手が空を切った。

……今、シカトされたか?

いや。みょうじは無視をする人ではない。普段は海堂と目が合うと顔を綻ばせ駆け寄ってくれるのだ。そんな、あからさまに避けるだなんてことはしないはずだ。彼女は自分に気づかなかったに違いない。
海堂はまたもやフシュウと一息吐き、次の機会を待つことにした。

しかし海堂の疑念は数日も経ると核心として変わっていった。
あからさまだったのだ。
海堂がみょうじの教室を覗くと彼女は反対側の扉からそそくさと出ていくし、廊下の角に隠れながら海堂の様子を伺っていたりした(制服の袖が見えた)。
確実に避けられている。しかし心当たりがない。翌日すぐにお礼を言わなかったからだろうか。それともチョコを受け取る時に無礼なことを言っただろうか。
訊ねようにも近寄ることすらできず、取り付く島もない。

海堂も気が長い方ではなかったので、日が経つごとに段々と眼光が鋭くなっていった。部活や授業には影響が出ないものの、ひとたび教室を出れば切れ味の鋭いナイフのような顔つきで廊下を歩く。
とうとう桃城に「なぁマムシ、お前最近顔が怖ぇんだよ」と突っ込まれ、いつもの喧嘩に発展することとなった。

そうこうするうちに一ヶ月が過ぎてしまい、ホワイトデーとなった。
結局お礼を言えなかったことが心苦しいものの、本来バレンタインデーのお返しはホワイトデーに行われる。海堂は何が何でも今日お礼をし、そうして避けられている理由を訊ねようと思った。
お返しを用意しようかと張り切る母親に断り、自身でショーケースの前を七往復ほどして決めたマドレーヌを用意した。喜んでくれればと願うばかりである。

みょうじの行動パターンはこの一ヶ月で読めた。ダブルスパートナーである乾のデータプレーに触発されたのかもしれない。どんなに避けられようとも粘り強く観察し、海堂は彼女が毎日同じ時間、同じ場所にいることを発見した。
海堂は中休みに校庭でランニングをしている。少しの暇さえあればトレーニングはどこでだってできるが、二時限目から三時限目の間の休憩は三十分間もあるのだ。体を鈍らせないように走りに行くには充分な時間であった。

ランニング中、校庭から校舎を見上げると、窓からこちらを見下ろすみょうじが見えていた。飽きもせず一人で毎日毎日数分間。声をかけるわけでも手を振るわけでもなく。
その顔が、まあ、応援しているように見えるものだから。元々気を抜いて走っていたわけではないが、彼女に気づいてから海堂はさらに力が入ったのがわかった。たとえみょうじと話せなくても、一ヶ月間励ましてもらえていたような気がしたのだった。

つまりは中休み、そこの窓に行けばみょうじを捕まえられるというわけだ。
海堂はその日ランニングをお休みし、校庭が見渡せる例の窓に向かった。やはりというか、みょうじはそこにいた。キョロキョロと誰かを探している様子で、窓枠に手をつき外を見下ろしている。

「あれ……」
「……」

気配を殺して彼女の背後に近づくと、いないな……と呟きが聞こえた。小さな背中を目の前に、海堂はムムムと眉を寄せる。自分を探しているだろうその姿が、どうにもくすぐったかった。

「おい」
「!!」

なんとなく予想はついていたが、一言声を洩らすだけでみょうじは飛び上がった。まるで猫のようだと海堂はほんの少しだけ口角を上げる。彼女が振り返る前にその笑みは消したのだが。

「かっ海堂く……え、なん」
「みょうじ、その」

なんとも格好がつかないが、言い淀んでしまう。冷えた指先を隠すように握り込んだ。そこで海堂は初めて、彼女がチョコを渡してくれた時の緊張を知った。

──お礼だ、お礼。そんで何かしちまったのなら謝る。

海堂は手首に提げていた小袋を渡すためサッと腕を挙げたのだが、それがいけなかった。ビクッと大袈裟に縮こまったみょうじが海堂のその脇を通り抜け、走り去っていった。一瞬のことだった。

「ごめん!!」

彼女の声が鼓膜に振動する。海堂はその場で立ち尽くし、しばらく窓から校庭を見下ろした。とはいえ、視界には映っていない。
申し訳なさそうに顔をくしゃくしゃに歪めたみょうじの表情が網膜に張り付いていた。手首に下がった小袋がやけに重く感じる。
海堂の脳内で、プツンと糸が切れた音がした。

踵を返し、逃げた背中を視界に捉える。距離は離れていたが、迷いなく海堂は足を踏み出した。
廊下は走らない。基本中の基本だ。しかしそうも言っていられなかったし、正直その格言も手塚部長の影も今の海堂の頭の中からはすっぽ抜けていた。

「待てッ!!」
「──!」

この一ヶ月、散々逃げられた。挨拶すらしていない。目が合ってもそらされる。正直、こたえた。
何か理由があるのではと思い二の足を踏んでいたが、黙ったままは海堂の性分ではない。風を切る勢いでみょうじの後を追いかければ、ものの数十秒で追いついた。全国大会優勝校の部長は伊達ではないのだ。

海堂は走るみょうじを追い越して前に回り込み、両手を広げた。逃げた猫を確保する時に披露する格好だ。人間は猫ほど俊敏ではないし、みょうじもテニス部レギュラーの脚力は持っていないので、勢いを殺せず海堂の胸にぶち当たった。運が良いというかラブコメというか、抱き合う状態で二人は止まった。

「つかまえたぞ……あ」

腕の中で茹るほど赤くなっているみょうじを見下ろし、海堂はすぐさま解放した。不覚にも抱きしめた形になってしまった腕をわたわたと動かし、片方だけ己の脇に置いた。おそらく、みょうじと同じほど赤くなっているだろう自分の顔を自覚しながら、もう片方は彼女の腕をつかむ。意識して優しく。
「た」ひっくり返った声が出た。ゴホン、と咳払い。

「頼むから、聞いてくれ。俺は礼がしてぇだけだ」
「れ、礼……?」
「ああ。先月は、チョコ、嬉しかった。……ありがとうな」

低く、消え入るように声は尻すぼんでいった。みょうじの耳には届いていないかもしれない。途中から俯いてしまったし。
掴んでいる彼女の手から力が抜けたため、海堂はそろそろと視線を上げた。そうしてぎょっと目を見開く。みょうじがまるで幽霊でも見たかのように青褪め、疑いの視線を向けてきたからだ。

「うそ」
「……あ?」
「嬉しかった、なんて、うそだ」
「うそじゃねぇ。なんでだよ」
「お」

言葉が途切れ、またみょうじの顔がくしゃくしゃになる。泣き出すのではないかと海堂が肝を冷やしたと同時、彼女は俯いてしまった。
別に咎めたわけではない。怒ってなんていない。しかし海堂はその容姿や態度から、何故か人を怖がらせてしまう。顔を覗き込んでいいのか、肩を撫でてもいいのか、正解がわからない。何をしても怯えさせてしまうかもと躊躇うが、この手だけは放したくなかった。

「お」みょうじから呟かれた再びの"お"に、海堂は耳を傾けた。

「おいしくなかった、でしょ。チョコ」

予想もしなかった言葉が投げかけられたので、静寂が流れた。
やっぱり! 引き攣ったように声を上げたみょうじに、海堂は内心慌ててフォローに入る。

「く、食えはした」

嘘がつけなかった。

「全部食べたの!?」
「悪いのか」
「お腹壊してない!?」

お腹壊すようなものを渡してきたのか。喉まで出かかった言葉をぐっと抑え、海堂は首肯した。気絶させられる飲食物を経験したことがあるので、あれぐらいのチョコでは海堂の腹はやられなかった。
海堂への心配から、みょうじは自身で距離を詰めていた。チョコが害をなさなかったと聞いて安堵するも、完食した海堂の漢気への感動と申し訳なさで複雑な感情が渦巻く。

「ほんとはおいしく作れたチョコあったんだよ」観念したようにみょうじは肩を落としながら吐き出した。

「隠し味をたくさん試したら作りすぎちゃって……おいしく作れたものと失敗したもの、見た目が同じだったから、その、取り違えてラッピングしたかもなんだ」
「そうか」
「……ごめんね」
「別にいい」
「よくはないよ」

海堂と同じくみょうじも存外、強情っ張りらしい。
本当に気にしていない海堂の言葉にも是といわず、内省を繰り返しているようなその表情に、海堂は少々気を揉んだ。彼女にはいつものように顔を綻ばせてもらいたかった。
掴んだままのみょうじの腕をそっと放す。間髪入れず、今まで手首に引っかかっていた小袋をその手の中に握らせた。

「うそなんざついてねぇ」
「……」
「欲しいヤツから貰ったから、嬉しかった」

弾かれたように顔を上げたみょうじと同じく、海堂も瞬時に真横へ顔をそらす。頬に痛いほど視線を感じ、耐えきれずそろりと流し目を送った。
春のような笑顔がそこに在った。




それはそれとして、海堂にも聞きたいことがある。
一ヶ月、わかりやすいほどに避けられていた。苦行といっても差し支えない思いを強いられたのだ。納得できる理由がないと眉間の皺が消えそうにもなかった。
みょうじはそれに対しても深々と頭を下げる。そんな彼女を見るに、嫌われたわけではなさそうで、海堂は脳内で考えていた一番最悪な仮定をひとつ消した。

「さっきも言ったけど、チョコ不味かったでしょ」
「まぁ、個性的な味だったな」
「(やさしい) ……だから、情けなくて……合わせる顔がなくて」
「……」
「謝るのも遅くなってごめん……」
「……それだけか?」
「え?」

みょうじの爪の垢を煎じて飲ませれば乾はどうなるのだろうと、ちょっぴり思ってから、海堂はここ最近で一番長い息を吐き出した。脱力だ。一ヶ月間で溜まった靄も、呆れて解れていった。

「来年は絶対おいしいの渡すからね!」

挽回に燃えるみょうじは、既に来年の予約を取り付けたことに気づいていない。一足先に気づいた海堂は短い返事をしながらも、彼女に見えないように小さく拳を握ったのであった。



23.04.01

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