Runaway cat



 きっかけは些細なことだったと思う。もはや思い出せないくらい小さなことで喧嘩した。
 喧嘩なんていつものこと――だったのだが。

 出て行く、なんて石田が言い出したもんだからイラッとした。
 第一、出て行くも何もここは石田雨竜が契約している部屋で、俺は転がり込んでいる居候の身だ。出て行け、はあるとしても、出て行く、なんてそんな言葉が出るなんて思ってもいなかった。
 それに、コイツに居場所があるだなんて、思っていなかったのだ。

 なんてヒドイ。

 改めて自身の思考をトレースして、あまりに残酷な考えに吐き気がする。
 石田の居場所はこの部屋で、アイツが居るべきなのは自分の隣だけだ、だなんて。
 なんて思い上がりだ。
 反吐が出る、と何故か苦しそうな顔をしてアイツが吐き捨てたのを思い出した。

「君の顔、しばらく見たくないんだ」
 石田はそれこそ出合った頃のような表情で言った。
「だから、出て行く」
「はぁ?!」
 何を言っているんだ、と眉を顰めると石田は眼鏡を押し上げる。
「だからね。君の顔を見なくて良い場所に、行くんだよ」
「んだよ、それ」
 そんな場所があるのか? と口にしなかっただけマシかもしれない。どうせ実家になんて寄り付くとは思えない。親戚も近くにはいないと聞く。そもそも『希少種』だ。親戚なんて殆どいないらしい。
 だったら何処へ? 何処に行くつもりなんだ。

 ――行く場所なんてないくせに。

 そう高をくくっていたのだ。
 石田が荷物を纏めだしても、俺は何も言わなかった。どうせ行き場所なんてなくて、すぐに帰ってくるのだろうと思っていた。だから、何も言わずに小さな鞄にたいして持っていない持ち物を詰め込んでいく様子を、ただ眺めていただけだった。

 ごめんなさい、と頭を下げるのはいつも俺で、いい加減そんなのに嫌になっていたこともある。大概は俺の失言だとか無自覚なのが原因だったから、そういう場合にはこちらから謝って当然だった。
でも10回に1回くらいある石田の失策に対しても、何故か俺が謝ることになっていたのはおかしいじゃないか。そう思いはじめていたのだ。
 石田雨竜は意地っぱりで、引っ込みがつかなくなることがしばしで。寂しそうな顔をするくせに謝罪なんてしてこなくて、でも妙に切なげな表情でこっちを窺うように見てきてたりして、そんな顔を見ていると触れたくて堪らなくなって――結局は俺が頭を下げるんだ。俺も相当に根性がない。
 キスの1つでもしないと「ごめん」って呟くような謝罪さえ出来ないなんて、どれだけガキなんだ。
 そういうところも全部ひっくるめて、石田雨竜という人間を大切に思っている、のだけれども。

 石田雨竜が執着するのは自分だけだ。
 そういうことを半ば本気で思っていた節のある自分に吃驚する。
 「アイツには俺だけで、他には何もない」だなんて人でなしの思考にも程がある。どれだけ愛されていると――いや、依存されていると思っていたのだろう。確かに、今まで1人で生きていかれると思っていたのに、なんて台詞を石田の口から聞いたことはある。でもそれが、俺が必要だ、という意味に直結することはない筈だ。君の隣は心地良い、だなんて嬉しい言葉も、其処だけに居たいという意味ではない。冷静に考えれば理解っていた筈なのに、どうやら通常で浮き足立った状態だった俺には、それすら気付けてはいなかったようだった。

 もしかして、随分と酷い事を言っていたのだろうか。
 石田が出て行って妙に広い部屋の中で、俺は自分に腹が立ったのだった。

 本当に出て行くなんて思わなかった。
 出て行ったとしても、3時間程度で帰ってくるものだと思っていた。
 そして3時間経った頃、俺は思っていた。
 どうせ一晩したら帰ってくるのだろう、と。

 自分の思い上がりと残酷さを反省しだしたのは、石田が出て行ってから3日経った頃。
 冷蔵庫の中身も乏しくなってきた。石田が作っていた常備菜も食べきってしまった。自分で作る料理はたいして美味しくもなくて、一人で食べる食事は妙に味気なかった。
 ――買い物に、行かなきゃな。
 そう思うのに腰は重い。
 ――でも、石田が帰ってきた時に誰も居なかったら、俺が居なかったら。
 石田、寂しいんじゃないか、だなんて思っていた。
 俺が居る家に帰ってくるんじゃないか、と、それでもまだ思っていた。

 もしかしたら帰ってこないのかもしれない、と恐怖にも似た何かを感じ出したのは4日目の朝。無意識に隣に伸ばした手に触れるものがなく、枕に体温すら残されていない事実を突きつけられた時だった。
 もしかしたら、お互いの気持ちを確認して以降こんなに離れた事は(ゴタゴタに巻き込まれていた期間を除いては)なかったんじゃないかと思った。何だかんだ言って、毎日顔を見たり声を聞いたり触れたりしていた。寂しい、と思った。
 石田の顔を見たい。声が聞きたい。体温を感じたい。この腕の中に、あの細い身体を抱き締めたくて堪らなくなった。
「ああもう!!」
 一声上げて財布をポケットに捻じ込んで携帯を持つ。
 渡されていた合鍵を使って鍵を締め、当てもなく街の中をうろつく。アイツの行きそうなところは何処だろう、と真剣に考えて手芸屋だのスーパーだのを覗いては居ないことに肩を落とした。そもそも、もしかしたら石田雨竜について何も知らなかったんじゃないか、という気にもなってくる。なにもしなくても隣に居るもんだろうと信じ込んでいた、そんな能天気な自分が無性に許せなくなる。
 5時間ほど街中を探し回ってそれでも気配すら見つけることは出来ず、俺はひたすら落ち込んだまま石田の部屋に帰る。もしかしたら、電気がついていたりして――という淡い期待は見事に裏切られ、部屋はがらんとしていて寒かった。
 駄目だ。なんだか1人きりに耐えられない。
 もう一度鍵を締め、俺は久し振りに実家に帰ることにした。

 懐かしくも感じる我が家への道を辿り、明かりのついている家に安心したような切ないような気持ちを抱いたまま玄関を開けた。
「ただいま……」
 気恥ずかしくて小声になる俺にすぐに気付いて夏梨が顔を出した。
「あれ、久し振りじゃん。どうしたの?」
「いや、その……」
 石田が出てっちゃったから寂しくて帰ってきた、なんて言えなくて口篭る俺をしばらくじっと見て夏梨がニヤリと笑った。
「知ってるよ。雨竜と喧嘩したんだろ?」
「えっ! な・何でソレを――」
「どうせすぐに帰ってくるだろうとか思ってたんでしょ。甘いよ」
 図星を指されてギョッとする俺に、夏梨の背後からおたまを持ったまま顔を出した遊子までが言った。
「お兄ちゃん最低〜っ! 今まで探しもしてなかったの?」
「え……え?」
「雨竜さんには行き場所がない、だなんて考えてたんじゃないでしょうね!?」
 どうして妹達にそこまで解るんだ、と目を白黒させる俺の耳に、懐かしい声が聞こえてきた。
「おかえり、黒崎」
「い……石田……?」
「随分と遅かったね」
 僅かな笑みを浮かべている様子からは、もう怒っているようには思えなかった。妹達の目の前でなければ、土下座して謝り倒してすぐにでも抱き締めたいところだ。でも、さすがに妹2人が見ているとなっては理性が勝った。
「どうして、オメー……」
 あまりに吃驚して言葉にならない。どうして、石田雨竜が黒崎家に居るのだろう。
「ん……遊子ちゃん。あとの夕食の準備は任せても良いかい?」
「大丈夫ですよ〜」
「あ、アタシも手伝う」
 妹達が台所へ向かったのを見届けて、石田は上を指差した。「とりあえず、君の部屋に行こう」と。

 階段を上る。自分の部屋のドア。久し振りに見る気がする。部屋に入ると、部屋の隅に石田が持って出た鞄が置いてあった。
「座ろうか」
 石田が先にベッドに腰掛ける。おずおずと隣に腰掛けると、石田は溜め息を吐いた。
「もう少し、早く来るかと思ってたんだけど」
「早く、って」
「もっと早く、痺れを切らすかと思ってた」
 そう淡々と話す横顔が懐かしくて手を伸ばす。でも、頬に触れる前に叩き落されてしまった。
「えぇと、ごめん、なさい」
「何を謝っているの?」
 触れたい一心で頭を下げると冷たい声が振ってくる。
「えーと」
「ほら、解ってない」
 石田はまた溜め息を吐いた。
「君さ、最近僕が居るのを当然だと思ってただろう?」小さく頷いた俺に、頬杖をついてまた溜め息。「物の言い方の端々にそういうのって現れるんだよ。気付いてたかい? なんだかさ、それに腹が立って」
 ――ついでに、自分もそう思ってることに気付いてもっと腹が立った。
 石田の呟きが耳に入ってきて俺は目を見開いた。
「君がいるのが当然で、君の隣には僕がいるのが当然で。居場所ってのを考えたら黒崎の近くしか思い浮かばなくてさ。そんなのは良くないって思って頭を冷やそうと思ったんだけど」
 石田は苦笑いして俺の方を向いた。
「どう考えてもあの部屋以外に行き場所なくてさ、参ったよ」
「石田」
「それで、なんとか他の場所はって考えた結果」
 思いついたのは君の家だった。
 そう言う石田は妙に嬉しそうで、こちらもつられて頬が緩みそうになる。
「急に泊めてくれって言っても君の家族は全然迷惑がらないでさ。大歓迎だって言ってこの部屋まで貸してくれてね。どうせウチの莫迦が失礼なことを言ったんだろう、って」
 匿ってくれる、ってさ。
「可笑しいよね。家族は、僕じゃなくて君なのに」
「いや、それは」
 多分、ウチの家族にとっても石田って存在はそれに近いところに居るんじゃないか。と口にしそうになって何とか飲み込む。家族だなんて言葉はまだ石田には重いかもしれない。
「有難いけど」
 でも、他人だ。
 そんな心の声が聞こえてきそうだ。何も言えないでいると、石田の手がベッドに置いていた俺の左手に触れてくる。石田を見ると、こちらを覗き込むような体勢で身体を寄せてきた。
「なんだか、1人で苛苛して八つ当たりしたみたいで」
 ごめん、と軽く唇を重ねて囁く。順番が違う、と開きかけた口はまた石田に塞がれてしまって、もうどうでも良いような気になってしまった。
「なんつーか、俺も――悪かった」
 ぎゅう、と抱き締めれば同じくらいの強さで抱き返される。つい、くふくふと笑いが漏れた。

「もっと早く捜しに来いよ」
「なに怒ってんだよ」
「まさか、君が5日も1人で大丈夫だなんて思わなかったよ」
 その発言は、黒崎一護は自分の傍に居るものだろう、と確信しているように聞こえてくすぐったい。俺が思っていることと、何ら差はないじゃないか。1人落ち込んだり反省したりして損した気分になってくる。
「石田。ここは1つ、素直になるって事で手を打たないか?」
 ポン、と肩を叩いて俺は言う。
「素直? 何を言ってるんだ?」
「結局、俺たちはお互いに傍に居るのが当たり前だ、と思ってるわけだ」
 改めて口にすると、なんて恥ずかしいんだろう。言っている自分も耳が熱くなってくる。目の前の石田は、複雑な表情で頬を染めた。
「いや、それは。その……そう、なのかもしれないけど」
 しどろもどろの石田は妙に可愛く見える。
「結婚、なんてのは同性だからできねーけど」
「う、うん」
「家族になら、なれんじゃねーの?」
「……それは、どうだろう……」
 家族って急に言われても、と石田は困った顔をする。俺は返事は急がないから、と言って立ち上がった。
「そろそろ呼びに来るんじゃねーか? なんか良い香りしてきたし」
「あ、そうだね」
 時計を見上げて、石田は髪を撫でつけ口を拭いた。拭くな、と何度言ってもあの癖は治らないんだな。ぼんやり思いながらドアを開けると、今にもノックする体勢の遊子が居た。
「ご飯……だよ……?」
 どうしてお前がそんなに赤面して気まずそうな顔になるんだ。
 妹にはさすがに突っ込めず、俺と石田は曖昧に笑ってみせた。

 和気藹々とした夕食が終わり、石田は皿を洗いながら言った。
「そろそろ、帰ろうかと」
「なにー? もう少し居れば良いじゃないか」
 湯飲みを持った親父が不満そうに言う。妹達も寂しそうな顔になる。そんな家族の様子に苦笑いで、洗い物を終えた石田は深々と頭を下げた。
「お父さん、夏梨ちゃん、遊子ちゃん。お世話になりました。」
「そんな、もう、お嫁に行っちゃうような言い方……っ!」
 どこから取り出したんだか解らないハンカチを噛み締めた親父に、石田はどんな反応をして良いのか解らずに戸惑っている。冗談にしてもタイミングが絶妙すぎる。
「また、いつでも来てくださいねっ」
 遊子の言葉にも適当な笑みを返して、石田は俺の部屋から鞄を持ってきた。別れを惜しむ家族に辟易したような表情を浮かべて俺を見る石田に、軽く首を振って諦めろと伝える。玄関先まで出てきた親父は、そうだ、と言ってポケットからマジックを取り出した。
「雨竜くん! 困ったことがあったらすぐにここに連絡しなさい!」
 きゅきゅっと石田の右手に自分の携帯電話番号を書く。
「でも、そんなご迷惑は」
「迷惑じゃない! 雨竜くんは家族同然だからな。ウチの馬鹿長男よりずっとずーっと大切な、な!」
 ガシィッと両肩を掴まれた石田は困惑している。
「おいおい親父、そりゃいくらなんでも」
「黙れ一護。お前みたいな欲張りに雨竜くんは勿体無い」
「欲張り……? は? 何の話――」
「あっ! お父さんだけズルい!」
 石田の手に書かれた番号を見た遊子が声を上げて親父の手からマジックを取り上げ、自分の番号を続けて書く。何も言わずにやってきた夏梨も、ちゃっかりと書いていった。
「…………」
 石田は少し紅潮した顔でその番号をじっと見つめる。
「また、帰ってきてくださいね!」
 にっこりと遊子に言われた石田は、照れた様子ながらもしっかり頷いた。俺は石田の左手首を掴んで言う。
「ほら、またいつでも会えるんだからよ。お前らも別れ惜しんでんじゃねーよ」
「黒崎」
「帰るぞ、石田」
 それじゃ、と丁寧に頭を下げている石田を半分無理矢理引き摺るように歩かせる。しばらく俺に手を引かれて斜めになっていた石田は、手を振り解いて体勢を直した。
「もう」
 俺の隣を並んで歩く石田は、まだ右手を見ている。
「これじゃ、手洗いにくいじゃないか」
 そういう顔は決して迷惑そうではなくて、俺は緩む頬を押さえられないまま石田の空いている左手に指を絡ませた。






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