「困りましたねぇ...」

鬼灯が名前の世界に再びやってきて、早3日が経った。
雷雨の中再びこの世界で目を覚まし、そこには見覚えのある景色が広がっていた。
また会えることを期待をしながらあの公園のドームでずっと待っていたが、期待は裏切られ、3日経っても名前が訪れる様子は無かった。
これ以上は厳しいと思った鬼灯は、幸いなことに偶々持ち歩いていたホモサピエンス擬態薬を飲み、雨が弱くなった頃に名前の家へと行ってみた。

道路側から見える2階の名前の部屋は、カーテンは開いていたが中の様子はよくわからない。

「...?」

鬼灯の世界では前回名前の世界に行ってからかなり長い時間が経っている。
そのため記憶は定かではないが、ふとある一点を見てかすかな違和感を感じた。
表札の苗字が、名前の苗字ではなかったのだ。
しばらく立ち止まって考え込んでいたが、ふと気配に気付きそちらに目をやると、名前の隣人であろう中年の婦人が不審そうにこちらを見ていた。
傍から見れば名前の家(だったもの?)をじっと見つめて立ち止まっている姿は確かに不審だった。

「そこで何をしているの?ずっといるわよね」
「...すみません。怪しい者ではありません。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」
「何かしら」
「私はここに住んでいた娘さんの古い友人なのですが、ここに住んでいた方は引越しか何かされましたか?」
「.........。......引越したわよ、5年くらい前に。娘さんはもっと前からいないみたいだけど」

中年の婦人はストーカーか何かかと思い警戒をしていたが、行き先を知らないので引越しの事実だけを伝えた。

「引越し先はわからないですよね?」
「わからないし、知っていたとしてもそう簡単に教えるわけないでしょう」
「...ですよね。ありがとうございました。失礼します」

会釈をし、踵を返してそこを後にした。

「...困りましたねぇ...」

鬼灯は溜息と共に再度呟いた。
3日間何も口にしていないため、腹も空いており体力も失われつつある。
名前を頼ることができない以上、この世界でなんとか生き延びる方法を考えねばならない。
経験上滞在期間は約一ヶ月ほどだろうが、何も飲まず食わず、その上野宿で生き延びるには少々キツいものがある。
以前名前と出掛けた時に見かけたホームレスという選択肢もあったが、それは本当にどうしようもなくなった時の最終手段だ。
鬼灯には現段階ではプライドを捨て切ってホームレスになるという選択肢はなかった。
幸いなことにこの世界の常識は幾度か名前と時を共にする中で基本的な知識はつけることができていたし、鬼灯の世界での現世もやっと名前の世界と同じような時代に追いつき、何度か視察にも行っていた。
なのでハイレベルなものでなければ仕事をすることも可能だとは思っている。
鬼灯は名前の家からそう時間のかからない最寄駅まで歩いていった。

駅前は人で溢れており、鬼灯の黒い着物姿に好奇の眼差しを向けられた。
だが鬼灯はそれを気にすることなく堂々とコンビニに入り、求人フリーペーパーを手にした。
表紙には「ガッツリ稼げる!ガテン系特集!」と書かれていた。
その特集ページの一番大きな求人枠を見てみた。
書かれていた内容はこうだ。

日給1万円・当日現金手渡し・即日勤務可・1日のみのド短期〜長期までOK・制服貸与・寮完備・食事付き・学歴職歴不問・履歴書不要・飛び込み面接OK・力に自信のある方優遇。

美味しい条件に見えるがきっと実際はドのつくブラックだろうなと鬼灯は思った。
だが今の鬼灯は仕事を選り好みできるような立場ではない。
事務所は駅前のようだ。
鬼灯は意を決して書かれている住所へと向かった。


結果は採用だった。
面接という面接も特にせず、開口一番「今から働ける?」と気怠い声で問われ、「はい」と答えれば即採用。
力の有無や人物に関係なくとにかく人が欲しいというような雰囲気だが、今の鬼灯にとっては有り難かった。
仕事内容は求人通り主に現場仕事のようで、案件によって行く場所が変わるとのことだった。
寮は各現場の近くにあるらしい。
その日から地獄の日々が始まった。

車に揺られ、高層ビルが沢山並ぶ景色へと変わってきた。
目的地に着くとそこはよく見る広い工事現場だった。
何軒か完成した一軒家があるのを見る限り、どうやら辺り一帯を住宅街にするようだ。
その端の方にプレハブ小屋が何軒かあった。
事務所だろうか。

「俺はここの責任者ね。じゃあ今から寮に案内するから、これに着替えて」

そう言って現場責任者は鬼灯によれよれで所々汚れのある作業着と、よれよれになったフェイスタオルを渡してきた。
気のせいか少し汗臭さが染みている。
先程見たプレハブ小屋に案内され、事務所で着替えるのかと疑問を持っていたが、中を覗くと薄汚れた布団が散りばめられていた。
少しカビ臭いようなにおいがする。

「寮はここな。寝床は夜になったら部屋の責任者に聞いて。食事は3食ついてて給与は仕事が終わったら手渡し。トイレはすぐ近くにある公衆便所を使え。風呂はないから入りたいんだったら近くに川がある」
「川...?」
「来る途中にデカい川があったろ。朝は5時朝礼、夜は23時まで。じゃ、着替えたら出てきて」

そう言って質問させる暇もなく現場責任者は出て行った。
鬼灯はとんでもない所に来てしまったようだと思ったが、他にこの世界で生きていく術もなく、仕方ないが独り立ちできる状況が整うまで我慢をすることにした。

仕事に関しては特に問題はなかった。
頭にタオルを巻いてしまえばホモサピエンス擬態薬を飲まずとも角と耳は隠せるし、鬼神であるため重いものは軽々と持てるし(周囲の人間に驚かれた)、長いと思われる労働時間も地獄の徹夜続きに比べれば可愛いものだった。

だが生活環境に大変な問題があったのだ。
3食付いているなどという謳い文句だが、
朝は固くなったパン一つと海水のような塩っぱい汁物。
昼はレンチンされていないご飯パック。
夜は味の薄いカレーライスだったが、年功序列というものがあるらしく、新人の鬼灯が食事を取りに行くと可哀想なくらいの量しか残っていなかった。
だが鬼灯は食べるものがないよりかはマシだと思い、3日ぶりの食事を堪能したのだった。
布団のなんともいえない臭いと狭さにも、野宿よりマシだと思い我慢した。
一番の問題は風呂だ。
プレハブ小屋なので当然風呂などなく、現場責任者の言っていたように数人が川に水浴びしに行っていた。
だがさすがの鬼灯もそこは我慢ならず、給与を貰ったら近くの銭湯かネットカフェを探そうと思った。
だが給与を貰って更に驚いた。
日給1万円と書いてあったが、手渡されたのはたったの3500円だった。

「これはどういうことですか?」
「あ?そうか。お前新人か。諸々引かれてこの額なんだよ」

その男が言うところによれば内訳はこうだ。
寮費:2000円
食費(3食分):2000円
制服貸出費用:500円
寮雑費:1000円
税金(10%):1000円
計6500円
給与10000円から6500円引いて残った分が3500円、手取り額だ。
鬼灯は諸々の環境に呆れて何も言えなくなった。

「(地獄(ウチ)よりブラックですね...)」

カップ麺や水、お菓子等を買えばそこから更にやたら高い額を引かれるらしい。
それは我慢するとして、駅前でシャワーを使うにはネットカフェでおよそ500円程度だ。
鬼灯の一日の給与は最終的に3000円。

「(現世視察だと思えばいい経験になりますね...)」

そう思いながら劣悪な環境の中寝る努力をした。


そんな日々に耐え数日経ったある日のこと。
仕事を終え給与を貰い、シャワーを浴びに行く前に近くの川の土手で煙草(1000円もした)を吸っていた時だった。
大きな橋をぼんやりと見ていると、向かい側の方からスーツを着た女性が歩いてきた。

「(こんな時間まで仕事とは可哀想に...。女性一人でこんな時間に帰らせるなんてとんでもない会社ですね)」

と、自分の職場を棚に上げてそんなことを考えた。
女性は顔を下げのろのろと歩いており少し疲れている様子だ。
そうして前も見ずに歩いていると、前方から自転車がライトも点けずに通り過ぎ、びっくりしてハッと顔を上げた。

「......?」

鬼灯はその顔にかすかな見覚えがあった。
見間違いかもしれない。でもその可能性を捨てたくない。
そう思い煙草を揉み消して土手から橋の方まで歩き、前方からまた顔を下げ歩いて来る女性を待った。
女性との距離がゆっくりと縮まっていく。

「...あの、」

話しかけられる距離まで近づいた頃、鬼灯が声をかけた。
女性がそれに気付き顔を上げ、目と目が合う。
鬼灯の思いは確信に近付いた。

「......名前さん、ですか?」

そう言われた女性は疲れている顔を一変させ目を見開いた。

「......ほ、...ずき、くん......?」

その女性は名前に間違いなかった。
名前は口元を手で覆い、目に涙を浮かべた。

「なに泣いてるんですか」

そう言い鬼灯は名前の涙を拭おうとしたが、まだ風呂に入っておらず手が汚れていることを思い出して、その手を引っ込めた。
名前は以前会った時よりも大人びた顔になっていた。

「っ...、また、会えると思ってなくて...」

名前は顔を俯かせすんすんと泣き始めた。

「あんまり泣くと化粧落ちますよ」
「っ...。今、なにしてるの...?いつからこっちに...?」
「話したいことは色々ありますが...終電、大丈夫ですか?」

名前は腕時計を見た。
あと20分ほどで本日の最終電車がやってくる。

「...うち、くる?電車で3駅のところにあるんだけど...」
「上がっていいんですか?」
「もちろんだよ!当たり前じゃん!」

名前は眉を下げながら笑顔でそう答えた。
無事最終電車に乗ることができたが、先程から鬼灯は名前から少し離れてついてくる。
疑問を浮かべる名前に、鬼灯は「臭いので近寄らないでください」と正直に伝えた。
「えっ!?」と言い自分の服を嗅ぎ始める名前を可愛らしく思い、「私がですよ」と答えてあげた。



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