女王蜂 | ナノ

祖父の大きな背中に抱き着くと、彼は笑いながら勢いよく立ち上がった。一気に開ける視界に仗助はいつも僅かな興奮を覚える。

「おじいちゃん!おれもおじいちゃんみたいに大きくなれるかな?」
「ああ、きっと私よりも大きくなるさ」

快活に笑う祖父に、仗助は一層抱き着く腕の力を強めた。そのまま肩に顔を埋めれば、太陽と汗の香りがする。祖父は今日も町の平和の為に頑張って仕事をしてきたのだと思うと、仗助の小さな胸には誇らしい気持ちで一杯になった。仗助には父がいない。しかしこの大きな背中を持った祖父は、その寂しさを埋めてくれた。明日は珍しいことに仗助と祖父の休みが重なった。どんな我儘を言おうか。きっと祖父は難しい顔をしても、なんだかんだ言って仗助の望みを叶えてくれる。公園へ誘おうか、それとも母も一緒に買い物に行っても楽しいだろう…そんなことを考えている内に仗助の瞼は重くなっていった。心地よい揺れと共に意識も穏やかな海へと漕ぎ出していく。しかしそれは祖父が急に止まったことで引き戻された。

「おお、東方さん」
「苗字さん。こんにちは」
「こんにちは。こんな所で会うとは珍しいですな」

仗助がしょぼついた瞼を無理やり開くと、祖父と同じくらいの年の男性と目が合った。男はどこか鋭い眼光をしていて少し怖く感じる。しかし仗助に目尻を緩ませながら微笑みかけてきたことで緊張は解けていった。

「お孫さん…仗助君だったか。大きくなったね」
「ええ。その際はありがとうございました」
「いやいや、私は何もしていないよ」

鷹揚に笑う姿は、仗助の祖父とは別の意味で人を安心させる様な雰囲気を纏っていた。

「こんにちは」
「こんにちは。垓、お前も挨拶なさい」
「こんにちは」

仗助はその時初めて男の横にもう一人いることに気付く。身を乗り出す様にして下を向くと、仗助より少し大きいであろう少年が居た。祖父の肩を叩けば、直ぐに下ろしてくれる。足取り軽く少年に近づき、自分よりも高い位置にある顔を見上げた。

「おれ、東方仗助!」

にこにこと笑いながら小さな手を差し出せば、少年は少し戸惑ったような視線を男に向ける。男が一度頷いたのを見て、少年は仗助の手を取った。

「苗字垓です。こんにちは、仗助君」

それまで無表情だった垓が仗助に微笑みかける。それを見た仗助は目を丸くして口の中で何度かもごもごと呟いてから、慌てた様に手を離して祖父の足の裏に駆けていった。陰から顔を出せば、垓はそんな仗助を見て困った様な顔をしていた。そして祖父を見上げて首を傾げる。

「何か、嫌なことしちゃいましたか?」
「いいや、珍しく緊張しただけだよ。ごめんな垓君」
「いえ…」

ふるふると垓は首を振った。それから男と祖父は少し何か話して別れた。その間中仗助はちらちらと垓を覗き見て、垓はそんな仗助を不思議そうに見ていたが、最後の方は何がおかしいのかくすくすと笑っていた。


「おじいちゃん…垓怒っちゃったかなあ」
「ん?いや、怒ってはなかったと思うぞ?」
「そっか!」

祖父の言葉に元気を取り戻した仗助は、繋いだ手をぶんぶんと振り回す。祖父はそれを諌めながら苦笑した。

「それにしても珍しいなあお前が緊張するなんて」
「きんちょう?」
「ん?…そうだな、ドキドキするというか…」

仗助に緊張と言う概念をどう説明するか悩む祖父の横で、仗助は納得したように何度か頷いた。

「だってさあ!垓が笑ったらすごい綺麗だったからおれびっくりしちゃったんだもん!」

仗助は先程の垓を思い出す。幼い仗助にはうまく言い表せないが、それまで人形の様だった垓が笑った瞬間、吹いた風に髪がさらさらとしていて、真っ黒な目がきらきらとしていた。何度思い返しても、仗助の語彙の中ではやはり綺麗、としか言えない。とにかく、不意打ちのように与えられたその感情にドキドキとしていた。ドキドキすることがきんちょう、というならこれがそれなのだろうと仗助は納得する。

「…綺麗って垓君は男の子だぞ」
「男には綺麗って言ったらいけないの?お母さんは喜ぶじゃん」
「いや…うん…まあ、そうだな、うん」

考え込む様な顔をする祖父に仗助も首を捻る。しかし結局は分からずじまいだった。その夜祖父は母に今日の話をして、大笑いされていた。話の内容は分からなかったけれど、仗助も母と同じように笑って、拳骨を貰う。そして半ベソをかいた仗助の横で祖父は母に叱られていて、それはいつもと同じ穏やかな夜だった。
ベッドに入って、ふと垓を思い出す。また、会えるのかな?そんなことを考えながら仗助は夢の世界へと落ちて行った。


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