さよなら 1

薄暗い廊下に、ひたひたと自分の足音だけが小さく響く。
取り壊しが決まった母校の旧校舎に忍び込んだ俺は、夕闇が迫る中、そっと教室の扉を開いた。
立て付けの悪くなった引き戸をガタンと鳴らし、仄暗い教室に入る。
この教室で、高校最後の一年間を過ごしたんだな。そんな感傷に耽りながら、傷だらけの教卓にそっと手を添えた。
ほんの半年前までは、この教室で授業を受けていたはずなのに。なんだか、とても懐かしく感じてしまう。
取り壊しの話は、卒業前から聞いていたのに……。

寂しいな。素直に、そう思う。
校舎の建て替え話を初めて聞いた時には、単に羨ましい気持ちだけが湧いたっていうのに。
「俺らはボロボロの校舎で過ごしたのに、後輩らはズリィよなぁ」
なんて、クラスメートと騒いでたっけ。
それなのに、学び舎が明日には壊されるんだと実感した途端に、これだ。
楽しかった思い出の詰まった校舎が、無くなってしまう。跡形もなく消えてしまう。
寂しい、悲しい、虚しい。
……こうやって、次第に人々の記憶から消えていくんだろうか。忘れられてしまうんだろうか。
いつしか、新しく変わった校舎が当たり前になって。この古びた校舎の記憶は薄れていって。
そうして、この教室で知ることになった胸を痛めるような想いさえ、忘れていってしまうのだろうか……。

『憧れと恋は、違う。キミのそれは一過性の、言うなれば麻疹みたいなものだよ』
本当に?どうして、あなたにそんな事が分かるの?
『高校という狭いコミュニティーから出れば、きっと分かるよ。キミは大人に憧れているだけなんだ』
卒業して、半年が経ったよ。大学生になって、高校の時より少しは視野が広くなった自信があるけど……でも、まだ俺は……。

「……まだ、麻疹、治らないんだけど……」
小さな呟きは、しんと静まりかえった教室に消えていって。教卓と、教卓に置いていた掌にポタポタと冷たい水滴が降り注ぐ。
一過性だって、あなたは言ってたけど。じゃあ、どうして。何で俺は、未だにあなたの事ばかりを考えてしまうんだ。何故、今も尚、あなたに囚われたままなんだ……。
これを恋じゃないと言うのなら、教えてよ。
この胸を掻き乱す想いを、何と呼べばいい。恋じゃないと言うなら、適切な名前を教えて欲しい。
「……好きなんだ。一過性だって言うなら、いつになったらあなたを忘れられるのか、教えてよ……」
先生が、好きだった。教壇に立つ先生が好きで好きで仕方なくて、少しでも先生に好かれるように勉強を頑張ってた。
一度だけ先生に告げた想いは、無かったことにされたけれど。
こんなに胸を締め付けられる想いを、単なる憧れだと、そう言われてしまったけれど……。

「教えてくれよ!どうすれば……どうやったら、この麻疹は治るんだよ…ッ」
「困ったね、先生は医者じゃないんだ」
「せ、んせい」
心臓が、止まるかと思った。
誰も居ない筈の夜の旧校舎に、突然、聞き慣れた声がしたから。
一言も聞き逃すまいと必死に授業を聞いていた、大好きだったあの声だったから。

細身の身体を包む少しくたびれたスーツも、中途半端に襟足の長いボサボサの髪も、お洒落とは程遠い黒ぶち眼鏡も。半年前と何も変わらない先生の姿が、気付いたら教卓を挟んで正面に立っていた。
「キミのそれ、絶対に麻疹だと思ったんだけどね。困ったね、本当に治らないのかい?」
……どうして、先生が困るの。いつまでも俺があなたを想っているから、困っているの?
迷惑なんだったら、そう言えばいい。はっきりと振ってくれれば、そうすれば俺だってこの気持ちと決別するから……。
「…っ…キモいなら、キモいって……はっきり、言えよ……」
あぁ、そんな事、言われたいわけが無いのに。
気持ち悪いなんて言われてしまったら、立ち直れないくらい落ち込むくせに……。
でも、それでもいいのかもしれない。
この想いも涙も俺自身も、校舎と一緒に無くなってしまえばいい。
そうすれば、先生を困らせることも無くなるんだ……。
「す、き……好き、なんだ……」
だから、早く振ってよ。早く、俺を解放してよ。
お願いだから……この想いに、とどめを刺してよ……。



目次へ戻る

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -