かんこなA

ホテルから出て部屋に戻る間も、小川の言葉が頭を巡る。
『書く気が無いなら、小説家など辞めてしまえ』
まるでその言葉は、小川だけではなく自分を取り巻く全ての人間の総意のように感じて、早乙女は苦悩に顔を歪めた。

辞めるべきなのかもしれない。こんな状態で執筆を続けるなど、自分には限界なのだ。
もう、辞めてしまおう。どうせ誰も悲しんだりしない。何冊も執筆してきたが、今まで一度だって読者から感想を貰った事は無い。辞めたところで、自分を惜しむ人間など居ないのだから…。

ふと、幼少時の記憶が頭を過ぎった。
あの頃は小説を書くのが楽しくて仕方なかった。それは、クラスメートの笑顔を直に見る事が出来たからだ。
自分の書いた物で人を笑顔にさせられると、そう実感出来たからこそ書く事が幸せだった。
本の売れ行きなど、自分にとっては取るに足りない事だ。ましてや文壇での位置関係など、自分には何の価値もありはしない。
そんなものがあったところで、創作意欲など微塵も沸いてくれないのだから…。

自室の布団に潜り込んだ早乙女の頬に、一筋の雫が流れた。
小説を読む事が好きだった。胸を踊らせるストーリーを、自分も書きたいと心底願っていた。
それも、もう終わり。今受けている仕事を終わらせたら、小説家という身分を捨ててしまおう。
苦しい想いをしてまで、無理に書く必要などどこにある。書く事を辞めてしまえば、苦しむ事も無くなるはずだ。

なのに、どうしてこんなに胸が痛い。書きたくない気持ちと書きたい欲求がせめぎあって、まるでナイフで胸を抉られているようだ。
胸が痛くて痛くて堪らない。どうすればこの苦しみから解放されるのだろう。
まるで広い海原に身を投げ溺れているような、そんな息苦しさに胸が締め付けられて。訳の分からない焦燥感に襲われた早乙女は、嗚咽に身を震わせて一晩中涙で枕を濡らした。

次の日から、早乙女は執筆に没頭した。ただ、ひたすら義務感に駆られての事だ。
今受けている仕事は何としてでも片付けなくてはいけないという責任感から、がむしゃらに筆を握った。

それから数日が経ち、小説も完成へと近付いた頃、早乙女の人生を変える転機が訪れた。
「先生、進み具合は如何ですか?」
茶菓子を持って様子を伺いに来た編集者は、書き上がっていく数多の原稿用紙に目を通していく。
ふと思い出したように顔を上げた編集者は、早乙女にある物を差し出した。
「そういえば、先生。先生宛てに編集部に手紙が届いていましたよ」
「手紙、ですか?」
編集者から手渡されたものは、一通の手紙だった。流れるような美しい文字の連なった便箋を広げた早乙女の顔に、驚愕の色が浮かぶ。
「どうされました?」
編集者の目には、手紙を握り震えている様子が何かに怯えているように見えて、早乙女を気遣うように様子を伺う。
「……すみません、今日は帰って頂けますか?きちんと小説は書き上げますから…」
心配する編集者をどうにか部屋から追い出した早乙女は、椅子に腰かけもう一度手紙に視線を落とした。

その手紙には、賛辞の言葉が並べられていた。
今まで早乙女が執筆した作品全ての感想が、所狭しと並べられているのだ。早乙女が伝えたかった事をきちんと理解してくれているのだと分かる内容に、昨夜枯れたはずの涙が手紙の文字を滲ませた。

自分の書いた作品全てが好きだと、小説を読んで幸せな気持ちになれたと、そう言ってくれる人が居た。これからも作品を楽しみにしている、そう言ってくれる人が居た。

手紙には、差出人の名前は無かった。何処の誰かも分からない、返事を書く事も出来ない。それでも、この手紙を読むだけで、昔の自分に戻れた気がした。
自分の小説を楽しみにしてくれていたクラスメートによって、幼い自分は創作する喜びを感じられた。あの頃のように、今度はこの手紙の主のためだけに小説を書いていこうと、そう思えた。


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