「ベルガモット」
「マーユーリーちゃんっ」
「…………いい加減その頭の緩そうな呼び方をやめるんだネ」
彼女の名前は、名前。
十一番隊の紅一点の席官である。隊長同士の気が合わないために不仲である十二番隊に報告書などを配達しにくるのは、専ら彼女である。だから名前を覚えているのだ。それ以外に理由はない。
ワタシは、手を止めることなくいつもと同じように背中で彼女の話を聞いている。
「えー、じゃあなんて呼べばいいんですか?まゆりん?それだと草鹿副隊長みたいじゃないですか」
「下の名前で呼ばないという選択肢はないのかネ」
「ありませんっ」
「…………」
ビシッと口で言ってきっと後ろで敬礼しているであろう彼女の姿を想像して、頬が緩む。
「でねー、マユリちゃん」
「…………」
相槌は打たない。あくまで勝手に彼女が話し続けているだけだからだ。
作業が全く進まず同じことを繰り返しているのはーーーそういう実験なのだ。
断じて彼女の話に、その麗しい声に聞き惚れているわけではない。
「あ、そういえば私、更木隊長に好かれてるっぽいんですけど」
「…………は?」
「いや、私もそんな訳ないって思うんですけどね。単なる席官で下っ端ですし。ただ、女性死神協会でそういう噂があるみたいで」
「…………」
この間松本副隊長がいらしたんですよーと話す彼女は、どんな顔をしているのだろう。全く仮説すら立たなかった。
手元の液体がごぷりと溢れて零れ、手にかかる。
「…………ッ」
「え、マユリちゃん?!大丈夫!?」
こちらを見て話していたらしい彼女が慌てて走ってきて、横からワタシの手を取った。
「あ、ちょっと赤くなってる……」
「…………大したことないヨ」
「でも」
心配じゃんと、呟く彼女。
何処からか取り出したハンカチでワタシの手を包み込んだ。滅多に味わうことのない柔らかい感触にふるりと身体が怯える。
彼女は不安そうにワタシの顔を覗き込んできた。
「四番隊、行きましょう」
「…………必要ない。ただの火傷だヨ」
「でも」
「何度も言わせるなヨ。必要ないだろう」
「…………そっか」
しゅんと目を伏せる彼女に、何故か心臓がギュッと押しつぶされそうになった。
ハンカチの上から弱々しくワタシの手を包んでいる両手に、そっと空いた手を重ねる。
「…………マユリちゃん?」
…………おかしい。まるで自分ではあり得ない行動であった。
視線が不自然に泳いだが、何事もなかったかのようにその手を離した。
「どうしました?」
「…………いや」
彼女といると、今まで味わったことのない感情が湧き上がってくる。ぶくぶくと泡立ち、ビーカーから零れていくように。
「マーユーリーちゃん」
「…………だから」
もっと余所余所しく、苗字で呼べ。
喉まで出かかった言葉が音にならなかった。
余所余所しく、されては。
「…………困る、だろう」
「マユリちゃん?」
彼女の扱いには、いつまで経っても仮説すら立たない。
ワタシの既になくしたと思っていた感情というモノの扱い方すらも。
また押し黙ったワタシの袖を、彼女は引っ張る。
「そうだった。マユリちゃん、今度シャンプー作ってくださいよ」
「しゃんぷー?洗髪剤かネ」
「そ。何か良い香りのやつがいいです。珍しいの」
「…………珍しい、香り?」
「そうです。あ、でも変なのは嫌ですよ!シャンプーですからね!」
「それは保障しかねるネ」
「いやそんな面白い顔しても許しませんからね……」
不躾な発言に対して頬をつまんでやると、きゃうきゃうと騒ぎ出して煩わしい。自分は袖をつまんだりとこちらの気を引っ掻き回すくせに、と罰に柔らかい頬を弄んだ。
「いはいれすぅ〜」
「…………ふん」
少しくらい、こちらの気も知れ。
お前が更木の名を出したり、手を握ったり、袖をつまんだりするたびに、ワタシが感じている蟠りを。
「マーユーリーちゃーん」
「…………お前は阿呆だネ」
作るシャンプーの香りは決まった。
花言葉は、安らぎ。しかしもう一つは。
「マユリちゃん?」
「…………ふん」
少し緩んだ指先に彼女が反応して、潤んだ瞳でワタシをとらえた。
『焦がれる恋』。
腹が立つ程、彼女に感じているモノと同じ名前だ。
→→→オマケ
「ありがとう、マユリちゃん!」
「ふん、礼はいらないヨ。感謝しているなら態度で示すんだネ」
「おっけ!じゃあ何かお手伝いしますよ!」
「いや、手伝いはいい」
「じゃあ何がいいですか?」
「…………」
「マユリちゃん?」
「十二番隊に、異動」
「…………え」
「ワタシの助手に任命してやるヨ。喜ぶがいい」
「え、あの、私、科学わからないんですけど……」
「実験台に知識などいらないヨ」
「え!実験台なの?!やだ!やーだー!絶対やだ!ざ、更木隊長に抗議してきます!」
「ふん、既に決まったことだ。抗議など今更意味はないヨ」
「ええーっ!」
本当はこれからが修羅場(更木vsマユリの引き抜き合戦)なのに、平然と嘘をつくマユリちゃんでした。
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