「捨て身」
ひよ里が、おとなしかった。
「なんやお前、腹でも痛いんか」
「…………」
ひよ里は玄関脇の花壇のそばで、三角座りをしていた。軽口に返事すらしないのは珍しい。
こちらを見もせずに、ただずっと転がった空き缶を睨みつけている。
微妙に思い空気。隣に腰をおろす。
「そや、誰かとまた喧嘩したんやろ」
「…………!」
当てずっぽうやったけど、図星か。ひよ里はわかりやすく、肩をビクつかせた。
なんやいつも通りやんけ、と笑うと、また暗い顔に戻った。
「なんや、リサか?拳西か?サクッと謝ったらええやろ」
「…………ちゃう」
ぼそりとひよ里が口にした名前は意外なものだった。
「…………名前や」
- - - - -
名前は、屋上にいた。
「名前チャン、何しとんの」
「…………しんじ」
屋上の手すりに頬杖をついて遠くを眺めたまま、彼女もこちらを見ようとはしなかった。ひよ里と彼女は、少し似ている。
「…………喧嘩したんやろ」
「してないよ」
さらさらと彼女の長い髪が風に煽られて、ばらばらに揺れる。綺麗だけど、悲しい後ろ姿。それに手を伸ばすと、届く前に彼女が動く気配を感じて指先をしまった。
振り返った彼女は、てんてんと金属の手すりを叩いた。
おいで、ということか。
俺は黙って彼女の隣に並んだ。
「……で、どないしてん」
「ひよ里から聞いてるんじゃないの」
「…………敵わんなァ」
名前は少し笑った。
「何年一緒にいると思ってるの」
「それもそうやな」
彼女は俺の言いたいことを先読みできるくせに、肝心の気持ちが読めないようだった。
何百年、お前のこと好きやったと思っとんねん。はよ気付け。
喧嘩のことなど忘れて、暫くそのことを考える。
「…………企業秘密」
「はァ?」
「だから、企業秘密をね、仲間なのに教えられないのか、信用しとらんかったのかって」
怒られたーと。
彼女はのんびりとした調子で頬をかいた。
「…………企業秘密て?」
「企業秘密です」
「それって俺も知らんこと?」
「誰も知らないこと」
くくっと笑う彼女は可愛らしく、その笑みだけで全てが許されてしまうようだった。
ズルい横顔から目を逸らし、何気無い風を装った。
「…………俺も知らんのかァ」
「そうだね」
「せやったら、ひよ里が知らんでもおかしないわな」
「そうだね」
アッサリと肯定されて、俺の頬が熱を持った。ちらと彼女を盗み見るが、いつも通りのぼんやりとした表情で。
「…………お前、今なんて」
「だから、そうだねって」
「それって」
彼女は頬杖をやめて、こちらを真っ直ぐに見た。
「真子への信頼は特別だってこと」
「…………」
その意味を図りかねて、逡巡する。
恋愛という思いがあるのか、単なる仲間意識からか。
「…………わからないなら、そのままでいいよ」
ばか真子、と彼女の視線はまた遠くの景色へと戻っていった。
俺も彼女の真似をして、手すりに頬杖をつく。
「…………ふたりで遠くまで行ってみるか?」
「なんで」
「そしたらもうひよ里と喧嘩せんで済むやんか」
「ばかじゃないの」
名前は、俺が彼女の肩を抱こうと伸ばした腕に自分から収まった。
「ばか真子」
「はいはい」
謝ってくる、と。
彼女は赤い目をして言った。
いつかふたりで、遠くへ行ってしまいたい。
誰も傷つけず、彼女が傷つかないそんな場所へ。
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