ジギタリスの憂鬱

吸魂鬼



ついに9月1日になった。今日ばかりはパパもソフィおばあさんも付き添ってくれると言うので、4人でキングズ・クロス駅へ向かった。9番線と10番線の間の柵を通り抜けてプラットホームへ出る。時々擦れ違う、不安げに辺りを見回している子は新入生だろうか。私も二年前はあんな感じだったのかなあ……懐かしいや。


「それじゃ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい、楓」
「手紙を待ってるよ」
「お友達と仲良くな。勉強も頑張るんだぞ」


汽車に荷物を積んでから、パパ達に行ってきますと言ってまた車内に乗り込んだ。発車の時間までまだあるけど、もう既に結構な人数が乗っている。さてと、どこのコンパートメントに座ろうか。今年は特にハーマイオニーとも約束してなかったし……。誰か友達が見つかると良いのだけど。


「カエデ!」
「あっ、アンソニー、リサ!久しぶり!」


当てもなくぶらぶらと通路を歩いていると、後ろの方で扉が開かれる音がして名前を呼ばれた。振り返るとコンパートメントのひとつからアンソニーとリサが顔を覗かせていた。久しぶりの2人に嬉しくなり、手を振りながら駆け寄る。そのコンパートメントの中にはテリーも一緒に座っていた。


「カエデも久しぶり!元気だった?」
「うんっ。ここ座っていい?」
「もちろん。後はマイケルとパドマを待つだけだな」
「カエデ、君日本に帰ってたんだろ?どうだった?」
「楽しかったよ。そうだ、みんなにお土産があるの」
「わあっ!なになに?」


テリーの隣りに腰を落ち着けてお土産を渡してからは、私達はそれぞれ夏休みの話をした。みんなも休暇を楽しんだようだ。しばらくして、パドマとマイケルとも合流。お喋りで盛り上がっている内に汽車は出発したようだった。


「それじゃマイケルも『マグル学』とったの?」
「なっ、意外だよな?」
「ま、すごく興味があるわけじゃないけど楽そうだし。それにカエデがいるからな」
「あら?それってどういう……」
「レポートとか頼ってくる気なんでしょ、マイケル」
「バレたか」


夏休みのことや最近発売された新型箒のことを一通り話し終えた後、話題は新学期のことに移っていった。気になるのはやっぱり、新しく始まる選択科目。にっこりと笑うマイケルの本音は私の思った通りのようだ。今度は悪戯っぽい笑みを浮かべるマイケルの隣りで、パドマがつまらなそうに肩を竦めていた。


「『闇の魔術に対する防衛術』はどうなるんだろうね?新しい先生がまた来るのかな」
「ああ……。確かに、ロックハートは病院行きになったんだもんな」
「残念だわ、本当に」
「まだファンだったのかよパドマ……」


私達の中で一人、パドマだけが前任のロックハート先生が学校を去ったことをひどく悲しんでいた。今も恋しそうに溜め息をつく彼女を見て、テリーが小さな声で呟く。こっそり苦笑する私と目が合うと「やれやれ」と言いたげな表情で肩を竦めた。それにしても本当、闇の魔術に対する防衛術は担当の先生が落ち着かないな。入学以来毎年替わってるよ。今年はどんな先生だろう……。

それからお喋りを続けたり、いつもの車内販売の魔女から食べ物を買って食べたり、新しい教科書を読んでいる内に空は灰色から真っ暗になっていった。途中で降り出した雨はまだ止んでいないみたい。教科書から目を離して外を眺めていると、汽車のスピードが落ちて来た。


「もう到着する頃かな?」
「おっ、なんだか今年は早く感じるな」
「待って。まだそんな時間じゃないはずだよ?ほら」


リサが見せる腕時計の針は、確かにいつもの到着時間より少し早い時間を指していた。じゃあどうして汽車は今にも停車しそうになってるんだろう?今までこんなことなかったのに……。アンソニーがコンパートメントの扉を開けて廊下の様子を窺った。私はもう一度窓の外に目を遣る。


「あれ?――きゃっ!?」
「おっと」


すっかり日の暮れた外で何かが動くのが見えた。よく見ようと思ったその時、汽車が突然急停止して反動で後ろに倒れそうになったが、マイケルが支えてくれた。お礼を言おうと振り返ろうとした途端、今度は明かりが一斉に消える。あちこちから小さな悲鳴が聞こえた。


「いったい何なの?」
「故障……なんて、今まで聞いたことないぞ」
「カエデ、さっき何か言いかけてなかったか?」
「あ、うん。外から何かが汽車に近付いているのが見えて……」
「なんだって!?」


今度はマイケルとテリーも窓に近づいた。私も2人と一緒に再度外を見るが……目を凝らしても暗いせいかよくわからない。さっき何か動いていたのは気のせいではないはず。もうどこかへ行ってしまったのか、それとも……。


「――ひっ!?」
「!どうしたのリサ!?」


別のコンパートメントがざわめいたかと思うと、今度はリサの悲鳴が聞こえた。リサは扉の近くに座っていたはず――振り返って、リサが叫んだ原因を私も目撃した。それを見た瞬間ぞっと鳥肌が立つのを感じた。見たくないのに目を逸らせない。悲鳴を上げようとしたがヒュッと息を呑む音しか出ない。

ローブを頭から被った天井まで届きそうなくらい大きな黒い影が、廊下をゆっくりと歩いていた。時折何かを探すかのように頭を横へ向けるが、顔のある部分はフードに覆われて見えない。だけど、あの黒さはローブだけのせいとは思えなかった。


「……なんっ、だ……今の…」
「わかっ……わから、ない」


それがゆっくりと通り過ぎるまで見届けて、ようやくコンパートメントの窓から姿を消した途端、やっと息ができた。ばくばくと胸を打つ心臓を抑えながら、アンソニーの呟きに答える。私の手は無意識の内に隣りにいる誰かの手を握っていた。

しばらくすると車内の明かりが戻った。やっとみんなの顔が見れて、私達は安堵の息を吐きながら笑い合った。汽車もゆっくりと動き始める。アンソニーが廊下を確認してくれたが、先程の黒い影はもういなくなっていたようだ。


「本当になんだったの?今の……」
「私、知ってるわ」
「本当?」
「ええ。でも、あれはアズカバンの吸魂鬼よ。どうしてこんなところに」


パドマは眉を顰め、腕をさすりながらそう言った。マイケルやアンソニー達も気分の悪そうな顔をしていて、私とリサは顔を見合わせた。ええと、確かアズカバンは魔法界の刑務所だってソフィおばあさんが話してくれたっけ。じゃあ吸魂鬼はそこの看守ってこと?初めて聞く名前だしよくわからないけど、先程の姿を思い出し、またパドマ達の反応を見て、魔法族の人たちにとっても恐ろしいものなのだと悟った。

その時、コンパートメントの扉が開いた。私達はびくりとして振り返る。そこには白髪交じりの鳶色の髪をした知らない男の人が立っていて、私達の反応に微かに目を丸くさせて、その後にこりと微笑んだ。


「君達は大丈夫かい?誰か気分の優れない者は?」
「だ、大丈夫です……」
「それは良かった。もう10分もすればホグワーツに到着するそうだから、そろそろ着替えておきなさい」
「は、はい」


その人は「もし気分が悪くなったらチョコレートを食べると良い」と言い残して去って行った。誰だろう、今の人?車内販売の魔女以外の大人がこの汽車に乗っているのは初めて見る。


「誰だ?あれ」
「さあ……。でも、あの人の言う通り、そろそろ着替えた方が良さそうだな」


テリーはリサの腕時計を覗き込みながらローブを引っ張り出した。雨はまだ止んでいないようだった。


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