第二回 | ナノ
「僕さ、なまえが好きだよ」
「それ本気で言ってんの?」
「冗談でそんなこと言わないよ。ねえ、よかったら僕と付き合ってくれる?」

ソファーの上で私はテレビ、カノは雑誌とお互い別々の物を見ていた時のことである。何の前触れもなくカノの口から飛び出したのは私に向けたストレートな言葉と告白であった。二人きりというシチュエーション以外は私が思い描いていた告白像とは掛け離れている。「返事聞かせて?」暫く考えていたがカノの一言に弾かれたように頷いた。「…よろしくお願いします」そんな私の答えに彼は嬉しそうに「改めてよろしくね、彼女さん」なんて言うから少しくすぐったかった。そんなこんなで私達のお付き合いが始まったのである。その日を境に皆は気を使ってくれているのか付き合う前と比べてカノと二人きりになることが格段に増えた。しかしいつも通りに過ごすだけで皆が思うほど特に何も起こらないものだ。もちろんカノと仲が悪くなったわけではなくて、今までずっと同じメカクシ団の仲間としての意識が強かったせいもあるのだろう。カノには任務があったり、私も学校があるためしょっちゅうアジトに出入りしているわけではない。そのため私達の関係は付き合う前と何ら変わらない称号が仲間から恋人に昇格しただけの曖昧なものであった。



「もう無理。わかんない」
「なにが?」
「数学の問題。問1から詰んでる」
「うわ、確かに難しそうだね。僕もわかんないし」

氷入りの麦茶が入ったグラスを二人分持ってカノが私の隣に腰を下ろした。お礼を言って私も早速口を付ける。まったく学生という身はこういう時に嫌なのだ。一体将来のどこで役に立つのかわからない文字や数字の数列を私と同じく目で追っていた自称頭が良いらしいカノはものの数秒でプリントから目を離した。その間も必死に空欄を埋めようとシャーペンを動かしてみたが余白が落書きで埋まっていくだけである。もうこれは完璧に詰んだ。ソファーの定位置に座っていつものように雑誌を読んでいるカノは当たり前だが助けてくれないようである。

「今日シンタローくん来る?」
「んー?…多分もう少ししたら来るんじゃないかな。キサラギちゃんも一緒だって」
「モモちゃん来るの?久しぶりだから嬉しいな」

前回アジトへ来た時にモモちゃんとは仕事があるということで会えなかったから本当に楽しみだ。とりあえずプリントは私一人の力では無理だと判断したためここは団員一頭の良いシンタローくんに教えてもらうことにしよう。キドはお買い物、セトはバイト、マリーちゃんはさっき見に行った時にお昼寝をしていたから毛布をかけてきたところである。如月兄妹が来るまで暇になった私は大きく伸びをしてシャーペンをテーブルの上に投げ出した。その時ページを捲る静かな音が止まる。「あ、カノごめん。そこにあるカーディガン取ってくれる?」しかし沈黙。いくら待てども返事が返ってこないため痺れを切らして隣を見たらカノとばっちり目が合った。赤く染まった目を細めて彼は良い笑顔を見せる。

「なまえさ、」
「うん?」

今、二人きりだってわかってる?いつもより2トーンほど低い彼の声に吃驚して一瞬だけ肩が跳ねた。二人きりなんて今までにもあったのにこんな雰囲気になるのは初めてで戸惑う。いつの間にか視界が反転していてカノの後ろに天井が見えている。押し倒されたんだなと理解した時には既にカノが私の両腕の自由を奪っていたのだ。最初こそは呆然と事の流れを見守っていた私もこの急展開に流石に恐怖を覚えた。小柄な見た目でもやはりそこは男女の力の差だ。押さえつけられた両腕がじんわりと痛む。「…っや、こわい」やっとの思いで紡いだ声は自分でも驚くほど掠れていた。

「……なんてね」
「へ…」

頭上から降ってきた声に思わず気の抜けた声が漏れた。私の髪をわしゃわしゃと乱雑に撫でて「ごめんね、冗談だよ」と笑うカノを涙目で睨みつける。カノは冗談でも私は本当に怖かったのに。遠くでタイミング良く扉が開く音と玄関先で響くソプラノが聞こえて、今だに私を組み敷いたままのカノを押して急いでその場から離れた。その時カノが一瞬だけ見せた吃驚したような、それでいて寂しそうな表情は私の脳裏に焼き付いた。私を呼ぶモモちゃんの声も耳に届かず自室に入るなり力無く床に座り込んでしまった。今にも爆発してしまうんじゃないかと思うぐらい高鳴った心臓の音が煩い。「…ずるいよ」私だけドキドキしているみたいで本当に悔しかった。

暫く部屋に篭っていたため心配してくれたのかモモちゃんが来てくれた。何かあったのかと聞かれたが、まさか押し倒されたなんて言えず平静を装って大丈夫だと返した。もう一度元の場所にモモちゃんと戻ると、もうそこにカノの姿はなかった。カノも部屋に戻ったのだろうか。少しだけほっとしながら忘れられたように置いてあった宿題のプリントと鞄を手に取り、一旦モモちゃんと別れてそのままシンタローくんの部屋に向かった。「何かあったのか?」シンタローくんにも聞かれるとは予想してなかった。如月兄妹の勘が良いわけではない。指摘されて初めて気がついたがどうやら私は周りから見てはっきりわかるぐらい浮かない顔をしていたらしい。モモちゃんの時と同じように大丈夫とだけ言うとシンタローくんはそれ以上何も言わなかった。お互い早く終わらせたいという思いからプリントの空欄はあっという間に埋まった。先生役を快く引き受けてくれたシンタローくんには頭が上がらない。「シンタローくん、ありがとう」「どういたしまして」青白く光るディスプレイから目を離さず手をひらひらと横に振ったのを見届けてから私は躍を返した。シンタローくんの部屋のドアノブを回し部屋を出る。

「あ、」
「あ」

今一番会いたくない人に出くわした。部屋を出た瞬間にカノと鉢合わせるとかなんてタイミングの悪い…。ただでさえ気まずいのにさらに気まずい空気だけが流れていく。このような状況で耐えられるような強い心を生憎私は持ち合わせていない。するとカノの視線が私の手元に向いた。

「勉強教えてもらってたの?」
「…あ、…うん。シンタローくんに」
「へえ、…」

さっきのことは何もなかったかのように普通に接してくるカノを見て安堵の表情を浮かべたのも束の間、そのまま彼に手を引かれた。有無を言わせず連れて来られたのはカノの自室だ。さっきの情景が頭を過る。入るなり壁へ壁へと追い詰められて、とうとう短く鈍い音が耳のすぐ近くで聞こえた。まるで逃がさないと言わんばかりに壁に押し付けられて両側の壁にカノの手が置かれているのだ。完全に逃げられなくなった私にカノはさらに距離を縮めていく。耐えきれなくなり思わず顔を逸らすと不意に肩に重みを感じた。カノが私の肩に頭を乗せたのだ。くぐもった小さな声が聞こえる。

「能力使ってる余裕ないぐらい、」
「え?」
「…今すごくシンタロー君に嫉妬してる」

顔を上げて再び合わせたカノの目は先程のように赤くない。すぐにそっぽを向いてしまったが一瞬だけ覗いた赤面した彼の表情は初めて見た。「僕はなまえの彼氏でしょ」拗ねたようにカノがフードを被る。改めて愛されているなと実感したが、その後でカノに対してすごい罪悪感に見舞われた。かれこれ十分は目と鼻の先の距離で手を伸ばせば簡単にカノに触れることができた。

「…ごめんね」
「ん、僕もいろいろごめん。…さっきとか」
「ううん。あの時は怖かったけどその…嫌じゃなかったよ」

「あーもう」そう呟いたと思えばカノの腕の中にすっぽりと収まりぎゅうぎゅうと苦しいぐらいに抱きしめられた。「束縛する気は無いけどさ、…二人の時は僕の傍にいてよ」そう言うカノがなんだか可愛くてつい口元が緩んだ。

「なに笑ってんの」
「ん?カノが可愛いいなって」
「男に可愛いはないでしょ」
「えー…というかそろそろ離れてほしいな」
「嫌だよ。やっと捕まえたんだから」
「そんな、」
「…なまえ」

私の名前が呼ばれた。二人の距離は僅か五センチ。心臓の音が聞こえてないといいな、なんて思いながら目を閉じた。



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