私立秀徳高校の校門付近に咲いている桜は、先日の春一番で淡い桃色の絨毯に姿を変えていた。
数日前に入学式を終えたばかりである泉田繭子は、唐突に桜の花びらを踏んでいることに後ろめたさを感じ、なるべく花びらが落ちていないところを探して歩いた。三つ編みにした二つ結びの髪の毛が、ふわりと宙を舞った。はたから見れば、変な女子生徒だが、本人は全く自覚していないようである。稚拙な行為をしているなあとはと微かに思っていた。
登校にはまだ少し早い時間なので、人は少ない。しかし居ないわけではなく、何名かの生徒に彼女の奇妙な行動は目撃されていた。今年の1年は変なのが多い、という上級生の声を小耳に挟み、漸く自分が変なのかを繭子は考え始める。この時点で5分経過していた。普通に歩けば2分もかからない校門への道を、未だ歩き切っていなかった。
考えあぐねながらも前を見ていなかったため、目の前に人がいることに気付かず、ふらふらとしていた繭子はそのまま人に激突した。「だあっ」と間抜けな声を上げてから少し後ずさり、直ぐにごめんなさい、と謝罪した。それからぶつかってしまった人の顔を見ようと視線を上げた。しかし、なかなか頂点に到達しない。
背、たっか。
そして密かに疑問を持つ。手に持っているうさぎのぬいぐるみは、一体何なのか。


「前を見て歩け。愚か者め」


ぶつかられた背の高い青年は、不機嫌そうに低い声を響かせ、校門の方へ流れるように歩いて行ってしまった。繭子は目をぱちくりさせながら彼の後ろ姿を見る。学ランを纏った、緑色の髪をした男子生徒。やはり背は他の生徒より飛び抜けて高く、手には包帯のようなものを巻いている。顔を見ることは叶わなかった。


「なにあの人……」


高飛車な態度と、なかなか見ないくらいの高身長と、うさぎのぬいぐるみ。最後のものでどてどてしてしまっているような気がする。気のせいではない。
むっとしながら、繭子は校舎へ向かって再び歩き出した。足取りは自然だ。やっとの事で、校門をくぐる。ここまで来るのに10分程要していた。
まだしぶとく残っていたらしい桜の花びらが、彼女の目の前でひらりと散って行った。



* * *



3教科の学力テストを終え、机に平伏した。色々な意味で終わった、と思った。深くため息を吐くと、隣の席の女子、山梨瑠璃がくすりと可愛らしく笑った。難しかったね、という言葉に、繭子は目を丸くしてから苦笑で返した。
ホームルームは明日の時間割と、持ち物についてのみ述べられ、簡易に終了した。解散の礼が掛かると、クラスメイトはぞろぞろと動き出す。部活の見学に行こうという声を多く聞いた。運動も勉強も並で、特技も特にない彼女に、部活動は縁もゆかりも無かった。実際、中学時代は帰宅部で、放課後は家に直帰して昼寝に及んでいた。
人の動きがまばらになってから、漸く腰を上げ、教科書を抜いたために軽くなったスクールバッグを肩にかける。


「泉田、帰んの?」


いきなり名を呼ばれ、肩を跳ねさせた。話しかけてきたのは、繭子と一頭身ほど身長差があり、前髪をカチューシャで後ろに流している黒髪の男子生徒であった。身長は今朝ぶつかった男子生徒よりは低いが、十分高いと言える高さである。繭子は一度、高尾、と彼の名を呼んだ。


「いや、自販機に行こうと思って」
「ふうん、じゃあ暇なんだよな」


高尾はぱっと人懐っこい笑みを浮かべ、繭子の手を取る。


「ちょっと付き合わねえ?」
「付き合うってどこに?バスケ部の体験入部あるんじゃないの?」
「それに行くんだよ。今から、一緒に」
「なんでよ」


最初こそ抵抗したが、男子の力には敵わないと思ったのか、すぐにされるがまま彼に手を引かれた。何故誘ったのかを問うと、彼はどうせ帰っても暇だろ、と言い、また笑った。表情を歪める。そんな会話をしている間に、体育館に着いた。
体育館からは、人が駆けたり、靴が擦れたり、ボールを付いたりしている音が漏れている。反射的に、中学時代の体育の時間を思い出した。繭子が顔をしかめたのを、高尾は見逃さなかった。


「お前バスケ嫌いだっけ」


繭子は眉間にしわを寄せる。


「好きだよ」


高尾は訝しげに彼女を横目で見た。嘘を吐いているという事は明らかであった。
嫌いなのだろうか。
彼女は中学の頃、親と一緒に試合を見に来て、今まで見たことの無いくらいに瞳を輝かせ、すごかった、感動した、とこぼした事があったから、今の今まで好きなのだと思っていた。それなのに、なぜ、曖昧な返事をするのか。しかも、眉間にしわを寄せながら。
しかし考える間は与えられず、繭子は高尾の制服の端をちょこんと摘まんだ。


「早く行こ、練習遅れちゃうよ」
「へーへー」


手を話した彼女はふらりと体育館の無機質なドアをくぐった。わだかまりが残ったが、高尾もそれに続く。
中は広かった。中学のものよりだいぶ大きいと感じた。
そして、女子生徒のギャラリーがよく視界に入った。この学校はバスケが強くて有名だと高尾から聞いていた。おそらく、ギャラリーは選手のファンだろう。繭子は少しそのファン達の雰囲気に怖じた。学力に見合った学校の中では、わりと真面目で大人しめな学校を選んだつもりだったが、どこにでもああいう人はいるらしい。実際、高尾も根はいい奴だが、見た目と言動は紛う事無くチャラ男である。繭子が秀徳高校への偏見を捨てた瞬間であった。
体育館内を見回していると、やたら背の高い人が目についた。その超高身長と緑の髪、近くに置いてあるうさぎのぬいぐるみで、直ぐに気がついた。今朝、ぶつかった人物である。あの時顔を見ることは叶わなかったが、前髪を横に流しており、メガネをかけていた。
口を開けて例の男子生徒を見つめる彼女を、高尾は横目で眺めている。痺れを切らし、繭子に問いかけてみる。


「なに、緑間クンと知り合い?」
「ん!?い、いや……今朝校門前でぶつかっちゃって」


心なしか、高尾の声のトーンが少し下がったような気がした。緑間と呼ばれた人物と、因縁でもあるのだろうか。違う中学に通っていたから諸事情は分からないが、明るい性格で誰とでも仲良くできる高尾にしては珍しい事だと、少し言葉に詰まった。


「ほら、桜の花びらが絨毯みたいで綺麗だったでしょ」
「そんで、桜が無いところ探して下向いて歩いててぶつかったってワケ」


沈黙と赤面とで肯定の意を示すと、高尾は吹き出してから、腹を抱えてけたけたと笑い始めた。そんな彼の背中を叩き、早く練習行け、と言った。繭子は恥ずかしそうに手をばたばたしている。高尾は笑い過ぎて出てきた涙を拭きながら、帰る時は気をつけろよ、と言って更衣室の方へ走って行った。


「見学の方ですよね?こちらになります」


高尾と別れた後、駆け寄ってきたマネージャーらしい男子生徒に勧められたが、火照った頬に片手を当て、慌てた様子で直ぐに帰るので入り口付近で見たいと伝えた。了承を得た後ですぐに入り口付近の壁際に移動し、彼らの練習を眺めた。
やはり目に付くのは長身で緑髪の、高尾に緑間と呼ばれた彼であった。素人目でも、動きだけで彼がこの中で飛び抜けてバスケが上手いのが分かってしまう。もしかしたらすごい人なのかも知れない、と繭子は漠然と考えた。今朝のこともあり、彼だけ見ているのは癪だったので、他のバスケ部員が走ったり飛んだりする姿をほんの少しだけ見てから、帰ろうとして一度ぐっと身体を伸ばした。その瞬間である。遠くからやべっ、という声が上がった。反射で声の方向へ顔を向けた彼女の目に映ったのは、今見ていたのと何ら変わりない体育館の光景ではなく、深く濁ったオレンジ色であった。
そのまま、衝撃に従って倒れた。直ぐに数名の部員と、先ほどのマネージャーが駆け寄ってくる。心臓がどくどくと嫌な音を立てている。幸い当たったのは顔ではなく肩だったが、繭子は痛みも忘れ、ただ焦燥感に駆られていた。


「ゴメンっ!大丈夫!?」


ボールの主であろう男子生徒が、焦った様子で話しかけてきた。しかし繭子の耳には届いていないようである。
間髪を入れず、俯いたまま立ち上がり、入口に向かって走る。見知らぬ女生徒を取り囲んでいた人々は皆ぽかんと口を開けている。その光景を遠目に見ていた高尾は、彼女が走り出したのと同時に、近くにいた先輩に一言断り、後を追った。



* * *



漸く痛覚が働いてきたようで、肩が痛くなってきた。繭子は何かではちきれそうな胸を抑えて走った。見えない何かから逃げるように走った。幸運な事に、すれ違う生徒は一人も居なかった。
なんとか昇降口まで来て、息を整える。動悸は激しいままで、その場にへたり込んだ。溢れてきそうな涙を必死に堪える。ホームルームが終わってからかなり時間が経っており、人がいないことだけが救いだった。
あの頃の記憶がまざまざと蘇ってきて、気分が悪かった。もう痛みはないはずの痣も痛み始めた気がする。

「もう、終わったことなのに」

言い聞かせるような言葉も、虚空に消えていく。
その姿を見ていた高尾は唇を噛んで、彼女の方へ駆け寄って行った。