入学式に負けず劣らずの、良い天気の日だった。
学校用とは別のリュックの中にフェイスタオルと水筒、凍らせたペットボトルに好きなプロ球団のキャップを詰め、全身に日焼け止めを塗りたくり、サンダルを履いて家を出た。
5月5日。コドモノヒ。部活をサボってまで、私は彼らの試合を観戦しに行く。部長にバレたら終わりだ。今日、河川敷の催し物で吹奏楽部が演奏をするからだった。それを体調不良だと言ってサボったのだから、マズイ。同じ高校の知り合いに会ってしまったら、本当にマズイ。
家から自転車で30分くらいの場所にある市営球場に着き、チケットを買って中に入った。
ちゃんとした球場に来るのは久し振りだった。中学の頃、プロ野球観戦を行った時以来だ。他は大体、中学のグラウンドや町の外れにある小さな野球場くらいだった。
まだ試合前なのに、バックネット裏辺りには既に人が大勢居た。多分、今日出場する選手の偵察に来た人達だろう。誰の偵察に来たのかは、だいたい検討がついている。
丁度三塁の延長線上辺りに腰をおろして、水筒の中身をちまりと飲んだ。ちょっと冷やしすぎてしまったかもしれない。カキ氷を食べたときのように、頭がきいんとした。
照りつける太陽に耐え切れなくなり、髪を一つに結い、キャップをかぶって肩にフェイスタオルをかけた。なんだかおばさんみたいになってしまったが、そんなこと気にしていられない。
試合まであと30分と迫ったところで、通路を挟んだ隣に10人程人がやってきて腰をかけた。野球の練習着を着ているから、たぶん彼らも偵察に来たのだろう。ちらりと横目で見ると、見覚えのある顔ぶれがあった。
もしや、西浦の生徒ではないか。
1人で震え上がった。見間違いではないかともう一度彼らの方を見やると、今度は核心を突かれた。千代だ。千代がいた。しかもこちらを見ている。さっと目を逸らして、もう一度水筒に口をつけた。徐々に近づいてくる足音に怯えながら。


「昴?」


バレた。早すぎる。試合始まる前からばれてどうすんだ。どうにかして、間宮昴ではない事を説かねば。


「人違いですよー」
「あはは、バレバレだよー」
「そんなことないよー」


ぎこちない笑い声と共に顔を上げた時、墓穴を掘った事に気がついた。完全にバレた。観念して声がしていたほうを向くと、千代が笑いを必死に堪えていた。視界に入ってくる野球部員もほぼ全員、千代と同じ状態だ。しかし、同じクラスの花井君のアップ見てろ、という笑いを含んだ怒号で全員向き直った。少しムカつく。
花井君の事は千代から聞いていたから、名前もちゃんと覚えていた。花井君だけでなく、野球部員の話はそれとなく彼女から聞いているから、大体分かる。顔と名前が一致しないだけだ。私の事は皆知らないだろうけど、今回のこの事で有名になるのだろう。イヤだなあ。


「浦総か武蔵野に知り合い居たりするの?」
「んとね、武蔵野に幼馴染が2人」


隠しておいても損得無いだろうから、つい言ってしまった。千代は珍しそうにへえと言った。
終いにはこっちにおいでよーと誘われてしまい、ペコペコしながら千代の隣に座らせてもらった。ついでに、と監督さんを紹介して貰った。うちの顧問はオバサンだから、こんな美人さんに野球を見てもらえる野球部が羨ましい。ボインだし。
夏の大会の時の応援の件、よろしくお願いしますと頭を下げると、監督さんはにこりと笑った。


「こちらこそ、素敵な演奏でスタンドを盛り上げてね!」


私はもう、なぜか感極まってしまい、大きな返事をした。顔はきっと真っ赤だ。
感動していた所に、球場でアップをしていた選手が三塁側に向かって走ってきた。背が高くて、ガタイが良く、一般的に見てカッコイイ顔のヒト。
心臓が一度、大きく鼓動を打った。それから、締め付けられるように苦しくなる。
彼はフェンスを荒々しく掴んで、武蔵野のよろしくない話をしていた野球部員を大いにビビらせていた。


「タカヤ!」


口は出さないでおこう。
タカヤ君は千代に呼ばれてるよと言われ、そろそろと下に降りて行き、彼と会話をしている。強い口調の声が聞こえる。こうやって聞くとやたら高圧的で少し気に障る。


「榛名さんだ」


ぽつりと短髪の男の子が呟いて、彼の後ろに居る金髪の男の子がびくりと肩を跳ねさせた。オドオドしている金髪の子は、多分三橋君だ。千代の説明は的を射ていた。
話を盗み聞きしている限りだと、榛名元希――ハルは有名人らしい。その話を聞いて、三橋君は挙動不審に目を泳がせている。変な子だ。
タカヤ君が話し終えた後、私に視線が飛んできた。


「オイ!昴もコッチ来い!!」


彼にもバレていたらしい。髪の毛をひとつに束ねてしまったのが敗因だっただろうか。
最初のうちは無視を決め込んでいたが、やたらフェンスをがしゃがしゃするし、ぎゃあぎゃあうるさいしで迷惑だったので、野球部の視線を掻い潜って下まで行った。足は小刻みに震えていた。ぎこちなく久し振り、と声をかける。隣を見やると、いつのまにかキャッチャーも居てびっくりした。


「てめ、何で武蔵野来なかったンだよ!」
「えーと、その、後で話しませんか」


ハルは怒気含んだ声を上げた。後回しにされたら集中出来ないとか、そんな事を思っているのかもしれない。
反してもうキャッチャーの方の秋丸恭平――アキは、ハルの肩をを一度ひっ叩いてから、久し振り、と穏やかに言った。そこで、なんで殴ったンだよ!殴ってないだろ、叩いたの!ドッチも同じだろ!なんていう、クダラナイ口論が始まった。
懐かしい。こういう時は決まって私が仲裁に入って、ハルに怒られていた。私も張り合ってしまい、最終的にはアキが仲裁に入るのというのが、大方のパターンだった。
それも、もうできないのだろう。
もうそろそろ守備練始まりそうだから行きなよ、と促し、私も立ち上がった。走ってベンチに戻っている最中、アキとの口論に燃えながらもちらりとこちらを見たハルは「腑に落ちない」と顔で語っていた。胸の奥の方が余計にきつく締め付けられた。唇を噛む。
千代の隣に戻ろうと振り返った時、さっきより痛烈な視線を感じた。
気にしないようにして階段を登り、元いた場所に戻ると、千代が恐る恐るといった風に私に上目遣いで尋ねる。


「もしかして、その、さっき言ってた幼馴染って……」
「……噂の榛名サンと、その子分のコトだよ」



* * *



監督さんの仲裁があり、なんとか前の話題は断ち切られた。
試合が始まるまで、野球部の会話を楽しんだ。プロテインがうんぬん、スコアで順位をうんぬん。昴ちゃんもやってみる?と監督さん聞かれたが、スコアの書き方が分からないので遠慮した。
あとは、鼻にそばかすの、多分田島君という子がプロテインの試食を吹き出していたのが印象に残っている。そこまでよからぬ味がするのだろうか。
ウグイス嬢による選手の紹介、ホームに集まって選手が挨拶をし、球審による合図で試合が始まる。
先発はカグヤマ君、ハルは4回から投げるだろう。中学の頃からのスタイルは崩していないらしい。今はライトについている。ブルペンでハルとアキのバッテリーも見たいところだが、それ以上に千代がせかせかとジャグをいじっていることが気になる。気が散るのではなく、1人で10人分は大変なのではないかという、私なりの思いやりの心が作用しているからだ。


「千代、なんか手伝わせて」
「えーいいよー。ダイジョブ」
「何往復もするくらいなら、2人でやった方が早く終わるし。ね?」


それと、なぜか視線を感じるのだ。主に下の方から。
気持ちを汲んでくれたのか、千代はお言葉に甘えます、と言って私に1本、カラのペットボトルを用意してくれた。ジャグに入れるための水を入れに行くのだろう。
グラウンド外に出ると、中からウグイス嬢の澄んだ声が聞こえた。金属バットの気持ちいい音も聞こえる。中学の時は弟の試合を見に行ったときによく聞いたが、最近は野球に携わる事もなかったし、本当に久し振りだ。
千代は私のキャップを見て、プロ野球も好きなんだね、と言った。私が野球好きなのは半分親、半分ハルとアキの影響だと思う。それで、弟も両者に影響され、野球を始めた。私の周りはみんな野球が好きだ。
水を入れ終わって帰って来ると、もう試合は3回表が始まっていた。2回は浦総に点が入っており、武蔵野は0点に抑えられている。
ブルペンではハルが投げている。アキのナイボー、という声も聞こえる。ブルペンに居るって事は、正捕手じゃないのか。
ジャグの近くにペットボトルを置いて元居た場所に座ると、隣から声が掛かった。


「幼馴染サン」
「へぇっ?」


突然だったものだから、変な声が出た。彼の周りに居る部員何名かが腹を抱えて笑っている。
プロテインの話をしていた時にへろへろと泣きそうになっていた坊主の男の子だった。確かスヤマ、と呼ばれていた。


「榛名サンのバッティングのこと、何か分かる?」


そう言われて、頭を抱えた。協力してあげたいのは山々だが、観戦経験しかない私に聞いても無意味に近い気がする。


「えっと、打つよ。ピッチャーだけど打てる方だと、思う」
「じゃあ、ピッチングは?」
「わかんないけど、いろんなとこからスカウト掛かったとは言ってた。伸びがあるとか」


答えになっているか分からないが、人づてか、本人から聞いた事があったのをそのまま伝えた。スヤマ君はスコア表の端の方に、私の言った事を必死の形相でメモしている。


「ごめんね、参考になるような情報なくて」
「いや、なるよ!サンキューな!」


あのプロテインが相当イヤなのだろう。
漸く一息つけると思ってリュックから水筒を取り出したと同時に、3回裏が終わった。点差は3点。
ウグイス嬢の選手交代のお知らせを聞く。榛名元希。ハルが投げる。久し振りに観られる。何とも言えない高揚感。ドキドキする。ワクワクする。自分がそこに居るわけじゃないのに、間近に見ているような、そんな感覚。けれど、やはり片隅にあるのは後ろめたさだ。


「なー!名前何てゆーの?」


突然大声が聞こえたと思ったら、同時にタックルされ、よろけた。水筒を開けていなかったからよかったものの、もし空いていたら大惨事だった。隣にいる男の子は鼻にソバカスの、プロテインを吹き出していた田島君だ。


「間宮、昴、だよ」
「間宮って榛名と付き合ってんの?」
「ハァ!?」


久々に耳にした質問に、うろたえた。中学の頃は散々言われて耐性も返し方も心得ていたが、もうは無くなってしまったらしい。強い口調で言ってしまう。


「幼馴染っつったでしょうが!」
「だって超仲良しみたいだからさー。みんな言ってたぜ」


にひひと笑う彼を見てから、他の部員に目をやると、三橋君以外の全員に目を逸らされた。三橋君だけはしきりに目を泳がせていた。
そんな会話をしているうちに、試合は4回の裏に入っていた。表は三者凡退らしい。やっぱり、ハルはスゴイ。カッコイイ。けれど、スゴイと恋ゴコロは必ずしもイコールではない。私の場合、イコールで繋がるのはアコガレ、だ。
ふいに、金属バットの音が球場に響き渡った。ベンチから聞こえる「ナイバッチー!」という声も、微かに聞こえた。あの時の決意が緩いでいたら、私もあそこにいたのかもしれない。