校舎の最上階、しかもその一番端の教室へ行くのは、本当に気が滅入る。
私が目的としている音楽室はもう、とんでもなく遠く感じた。実際、何十分もかかるような場所にあるわけではないのに、大げさだと自分でも思う。
やっとの思いで階段を登り切り、1人で息を切らしながら、なんとか音楽室前にたどり着いた。ぷあーと聞こえてくるトランペットの音色が心地よい。


「こんちはー」


挨拶をしながら部室のドアを開けると、オウム返しのようにこんにちは、と返ってきた。どこの吹奏楽部もこのような感じなのだろう。中学の頃も同じだった。
楽器が置いてある部屋へ行こうと、部室に荷物を置くと同時に、後ろから元気な声が飛んできた。振り向いた先には、ショーちゃんがにこにこして立っていた。


「昴、おっすー!」
「ショーちゃんおーす。どうしたの?」
「楽器取り行こー」


返事をしてからすぐに立ち上がって、ショーちゃんと並んで歩き始めた。
ショーちゃんは、野々宮祥子という、私と同い年の吹奏楽部員だ。部活に入って初めて友達になった子で、眼鏡がよく似合う女の子だ。ユーフォニウムを吹いているが、ずっとやってみたかったラッパも練習するのだと張り切っていた。
この学校の吹奏楽部は規模が小さい。部員は数十人居るが、大会には出場せず、学校付近の老人ホームや様々なボランティア活動に力を入れている。部員の質は悪いわけでは無いが、良いとも言えない。人数が少ない事もあってか、私とショーちゃんと、他の新入生は大歓迎されながら入部した。先輩方は飴と鞭を使い分けられる、良い人たちばかりだ。
ショーちゃんが横で妙にソワソワしているため、どうかしたの、と話を振ると、待ってましたと言わんばかりに食いついて来た。


「聞いちゃいけないのかも、なんだけど。昴ってさ、あのスカウトでしか部員取らないトコからスカウト来たんでしょ?」


どこから漏れたのか、不思議でたまらなかった。私と同じ中学校に通っていた人くらいしか知らないはずなのに。
んー、となるべく平生を保って、適当に返事をした。次に来る質問は安易に予想出来る。


「何でそこにしなかったの?」


そら見ろ、と思いながら、溢れそうな溜息をどうにか押し込め、雛形と化してしまった言葉を返した。


「だってあそこ家から遠いし、ジョシコーなんだもん」


きょとんとした表情で固まるショーちゃんに、野球応援がしたくて共学を選んだと伝える。彼女はほう、と声を上げ、それからにやりと悪く微笑んだ。


「……てことは、野球部の男のコ目当て?」


きゃあと歓声を上げられる。思わず呆れ顔をしてしまった。
その質問のあともしつこく勘ぐってくるため、頬をつねって何とか諌めた。野球部の子に興味は無いのだと徹底的に叩き込んだ。そもそも喋った事すらないのだと伝えても、にやにやと笑い続けられた。
楽器を組み立てながらも、痛いところを突かれないように、変な質問はのらりくらりとかわした。相手も私も話すことが尽きたので、新しい話題に移ろうとしたが、ショーちゃんは最後に言ってもいいかと私に問うた。こちらが受身になるのだしいいかと、一度、首肯をした。


「もったいないなーって思ったの。昴みたいな実力のある人、こんな吹奏楽部じゃ活躍も何も出来ないじゃない?」


最後の最後で、痛いところを突かれてしまった。頭の中でなんとか言い訳を探す。


「活躍なんてする気無かったよ。これくらいゆるゆるやってる方が好きだし」


それに、実力なんてこれっぽっちも無いし。
ここで漸く納得してくれたようで、ショーちゃんはにこりと一度微笑んでから、時間が迫っている事を嘆いて小走りで部室へ向った。私もそれを追いかける。
途中、部長の基礎合奏開始を告げる声を聞いて、2人で大慌てしながら音出しを始めた。








「間宮さんはドコの高校行くの?」


埼玉で吹奏楽をやっている人間なら誰でも知っている男性が、自分の目の前に居るということが信じられなかった。頬をつねったりしてみたが、どうやら夢では無いらしい。
行くつもりの高校はあったが、まだ決まっていないと返すと、その男はにんまりと笑って私に言った。


「ならさ、僕が指揮してる学校で一緒に吹奏楽やらない?間宮さんなら1年生レギュラー確実だよ」


考えても見なかった言葉に、思わず目を泳がせてしまった。手に持っていたトロンボーンが少し傾いた。
気が動転している。なぜ、私なのか。
そこは私立の女子校で、吹奏楽の大会で3年に一度は全国大会に駒を進めている常連校だった。吹奏楽以外でも、お嬢様学校だと有名だった。私なんか実力不足だし、やる気の面でそぐわない。
行くつもりなんて微塵もなかった。なんとか理由を付けて断ろうと、頭の中で必死に言葉を探す。


「あの、うち、貧乏なので、私立はちょっと、」
「こうやってスカウトしているんだから、特待生として受け入れるよ」


さらりと返されてしまった。他に何か言い訳しようと考えたが、何も思い浮かばない。
男はにこりと笑って、決断ができたら、顧問の先生に言って連絡しておいでと言った。行かないっつうの、と心の中で悪態を吐く。話は終わったようなので、礼を言って部室の方に踵を返した。
部室はなぜかしんとしていた。入るや否や、部員は私の方を凝視した。隣の席の後輩が、あの高校に行くんですか、と密やかに聞いてきた。


「行かない、行かない。高校でマジメにやる気ないもん」


そう言い切った直後、友人と目がぱちんと合った。背筋の凍るような、冷たい視線だった。
何か悪い事をしただろうかと思いながら、とりあえず謝罪の言葉を口にしようとした時、彼女はがたっと音を立てて立ち上がった。楽器がパイプ椅子に当たって、きんと音を立てた。部員全員の視線が友人に移る。
友人の頬からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれていた。


「ずるいよ、昴。そこに行ける実力があるのに、どうして」


声は弱弱しく、そして震えていた。