マリーゴールド

肩にかけたタオルで顎を伝う汗を拭う。ここ数日猛暑日が続いていて、今年の夏は冷夏だと言っていたお天気コーナーのお兄さんは朝の番組の中でからかわれていた。そりゃそうだ。冷夏はどこに行っちゃったの。

「あつ……」

中学三年の夏。関西大会が迫っていた。
夏っていうのはどうしてこうも暑いのだろう。考えたところで暑いものは暑いのだから、全く意味のない疑問なのに毎年思ってしまう。でも同時に、秋の涼しさはまだまだ遠いものであってほしい、一番長く夏を戦えるのがうちの部であってほしいとも、毎年思っている。

「苗字ー」
「お帰り謙也。はいどうぞ」

ランニングから一番早く帰ってきた謙也にドリンクのボトルを渡すと、受け取るや否やあっという間に飲み切ってしまった。空のボトルが手元に戻ってきて、かわりに冷やしておいたタオルを差し出す。にゅっと手が伸びてタオルをさらっていったのは謙也ではなく金ちゃんだ。

「もーろた!」
「おおおい金ちゃんそれ俺の!」
「ええやんかあ。はー冷たくて気持ちええわあ!名前おおきに!」

言いながら金ちゃんはタオルを首に巻き付けて、すぐ近くの水道の蛇口を思いっきり捻る。家のシャワーなんて比にならない量と勢いの水に、けれど全く気にすることなく金ちゃんは頭を突っ込んで水浴びを楽しんでいる。それをするなら冷えたタオルいらないじゃん!と思うものの、金ちゃんの豪快さは見ているこちらも気持ち良い。隣の謙也もウズウズし始めた。

「部長がそろそろお戻りになりますよ謙也サン」
「わ、わかっとる……けどしたいもんはしたいんや!」

堪えきれずに謙也も頭から水をかぶって、それだけでは飽き足らず水道の下に放置されていたホースを引っ張り出して蛇口に着けた。当然、金ちゃんも真似をする。あーあ、これは白石に怒られるやつだ。
白石がランニングから戻る前にここを離れよう。そう思って踵を返したところで、上からドバドバと落ちてくる冷たい水。私は呆気に取られて、ぽかんとしたまま動くことも出来なかった。

「苗字苗字!」
「見てみぃ虹やでー!」

謙也と金ちゃんが無邪気に言うので、つられてホースから出る水の先を追いかける。太陽の光が水によって屈折し反射して、見事に光の帯が出来ていた。
それはとても綺麗で、わあ、と心からの感嘆が漏れる。いつまでも見とれていられる。もちろん白石のお怒りが落ちなければの話だが。

「金ちゃん!謙也!苗字!何してんねん!」
「ゲッ」
「出た!」
「巻き添えです部長……!」

白石が鬼の形相をしてこちらへ歩いてくる。謙也と金ちゃんは慌ててホースを自分の背中に隠したけれど、肝心の蛇口の水を止めていないのでホースの先から勢い良くあっちこっちへと水が放たれた。水道まわりはビシャビシャだ。白石の顔が一層恐ろしいものになり、金ちゃんと謙也は青ざめてついに脱兎の如く駆け出していった。

「コラ!逃がさへんで!」

健ちゃん達も駆り出され、皆して謙也と金ちゃんを追いかける。逃げ足の速い二人なので追いかける方は大変だ。ダブルスはテニスコートのネットをまるで網のように広げて待ち構えていたりして、何をやってるんだかなあ。

「笑ってる場合っスか」
「え? うわっ、と」

ふふふと漏れる笑みを遮ったのは財前の声と黄色い布ーージャージの上着だった。頭から雑に被せられたそれから顔を上げると、いつから近くにいたのか財前が隣から流し目を向けてくる。目と目がぱっちり合うと反らされてしまったけれど。

「あのこれ、暑いっす」
「でしょうね」
「すぐ乾くと思うし、大丈夫だよ。ありがとね」

私が髪も服もずぶ濡れだから、寒いだろうと思っての親切に違いない。財前もいいとこあるじゃんと思いつつ、ジャージのファスナーが途中まで上げられているお陰で風を感じられないのには参ってしまう。親切の気持ちだけ受け取ることにして、まずはファスナーを下ろそうと留め具に手をかけた。でも、「アホ」というぼやきと一緒に軽く頭を叩かれて、阻まれてしまう。

「いたいな!私一応先輩だよ!?」
「うるさ」

財前は優しいの生意気なのどっちなの。どっちもか!

「とりあえずそのまま部室行って練習再開する前にはよ着替えてください」
「ええーだいじょう、」
「大丈夫ちゃいますほんまアホですねいっぺん病院行った方がええですよ」
「……そこまで言うか」

財前に気圧されて、言う通りにすることにした。暑くて仕方ないけど、それに凄く伝わり難いけど、折角の親切心だ。有り難く受け取ろう。わかったよと伝えると、財前はハァとため息をついた。手のかかる子どもだな……とでも思っていそうなその表情に不意に面倒見の良さを感じる。
もしかして結構いい先輩に、ひょっとして頼もしい部長に、なるのかも。後で白石に伝えてみよう。……あっ、その前に私、白石に怒られる……?

ーー毒手いややあ!
遠く、頭の奥の奥の方で、謙也と金ちゃんが白石に捕まる瞬間の叫び声がした。フィルターがかかっているみたいにくぐもった二人の声はやがて消えていく。景色が白んでいく。
私は隣にいる財前を見て、ねえ、財前、と呼び掛けた。だけど財前は聞こえているのかいないのか、こちらを向いてくれない。


「…………財前?」


ハッとして目を開ける。私としてはずっと見開いていたつもりだったけれども、本当に目を開けたのは、いいや目覚めたのは今だ。
夢を見ていた。空想の夢ではなく、思い出をなぞる夢。あれは中学三年の夏の、実際に私が過ごした時間だった。

あの時分からなかったことも、今は分かる。
財前が上着をかしてくれて、着替えるよう急かした理由。ファスナーを下ろすのを遮ったり、視線を反らした理由。ハッキリとは言いにくかったんだろう。だからあんな可愛げのない言葉で……いやそれは今もかな。
それにしても中三の私の女子力……どうなってるの。水に濡れてピッタリと身体に張り付いたシャツをちっとも気にすることなく、後輩が気を遣ってくれていることにも気付かなかった。女子力が低いどころではない。財前が呆れるはずだ。

「……水」

夏場の夢を見たせいか喉の渇きを覚えて、ベッドを抜け出した。冷蔵庫には確か牛乳があったはずだ。牛乳なんて気分じゃないけど何も飲まないよりはいい。
だけど驚いたことに、水のペットボトルが二本、冷蔵室に並んでいた。なにこれ魔法? 二日酔いに効くというエナジードリンクまである。どれも買った覚えのない物だ。

「あ……、財前?」

思い当たるのは、さっきまで夢で会っていた財前だった。多分、昨日のテニス部との飲み会の後で送ってくれたんだ。思い出話に花が咲いて私はまたかなりの量のお酒を飲んでしまった、と、思う。泣き疲れて途中で寝たような、気もする。つまるところ、しっかりとは覚えていないけれど。

鞄からスマホを取り出して、ペットボトルを脇に抱えたままトーク画面を開いた。財前、ありがとう。文字を打ち込みながらふと夢の中の財前を思い出す。そして今の財前を思い浮かべる。
背が高くなった。細いだけの身体じゃなくなった。声も少し低くなった気がする。あとは、なんていうのかな。顔つきが大人になった。表情がちょっと、柔らかくなった。可愛い後輩から格好いいひとになったのだ。
そうだ。だから、私がどぎまぎしてしまうのも無理はない。財前のことばかり考えているのも、視線を向けられるとやけに胸がざわめくのも。全部が全部、財前のせいだ。


2019/04/01


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