ここじゃないどこかずっと遠く



「お邪魔しまーす」

部室の扉を勢いよく開けたのが苗字先輩だったから、俺は内心驚いて部誌を書く手を止めてしまった。ここに目敏い部長やユウジさんがいなくてよかった。
まあ、あの人らがここにいるはずもない。三年の先輩らは夏の終わりにテニス部を引退して、今は大学受験の真っ最中や。国立志望の部長や謙也さんなんかは試験日まであと10日ほどあるみたいやけど、本人らにとっては、たったの10日しかない。家だか図書館だか、とにかく学校ではない場所で、最後の追い込みをかけてる頃やろう。
「財前久しぶり」
俺が驚いたことなんてきっと少しも気づいてないだろう苗字先輩は、片手をヒラヒラと振って上機嫌に笑う。
「……別に久しぶりやないやろ」
「ええ、そうかな」
言いながら部室の奥まで入ってきて、引退前と大して様子は変わってへんやろう部屋のあちこちを懐かしむように見ている。そして俺の正面の席についた。この人の定位置だった場所だ。

苗字先輩と会うのは三週間ぶりだった。随分長い間会っていない気がしていたけど、文字にすると三週間。久しぶりと言うような日数ではない。三週間を久しぶりと言ってしまったら、この先の別れを言い表す言葉は一体何になるのか、考えたくもなかった。

「先輩、受験終わったんすか」
「そーなんです」
「へえ」
「……」
「……」
「………………結果を聞いてほしいな」
そんなもん、わざわざ聞かなくてもあんたの顔に書いてある。
そう思ったけど、真面目な顔と神妙な空気を作って俺が問いかけるのを今か今かと待っているのがやけに面白く、素直に聞いてやることにした。
「……どうでしたか」
「受かったよ! 第一志望のとこ!!」
顔中で笑って万歳のポーズをする先輩。わーい、なんて漫画のコマとでしか見たことがない台詞を普通に使うのはこの人と金ちゃんくらいだ。こんなガキくさいところがあるのに、この人も大学生になるのか。
合格しているなんて顔を見た時から分かっていたことだし、憎まれ口を叩くことも出来る。そうする方が俺らしいとも、思う。それでも「おめでとうございます」と素直に言ったのは、放課後の図書館や移動教室ですれ違う時に見た、真剣に受験勉強に取り組む姿があったからだ。
「ありがとう!」
心の底から喜んでいるのがわかる。そら、そうやろうな。中学の時からそこに行きたいんやって、先輩ずっと言ってたとこやもんな。
初めてその話を聞いたのは多分俺が中2の秋で、どこそこの大学に行きたいともう考えてる先輩が大人びて見えた。なんも深く考えてへん人かと思っとたのに意外や、なんて言った記憶がある。
あの時は、へえ、意外やな、それだけだった。東京の大学なんて、遠過ぎて現実味がなかった。

「今日のお昼に合格発表があって、あ、ネットで見られるんだけど」
「はあ」
「受かってたから、私これで受験終わりで。部室に顔出そうかなって思って、でもほらバレンタインじゃん。急いで作ったよ」
じゃーん。効果音つきで先輩が鞄のチャックを開ける。中には小さい袋がギッシリ詰め込まれていた。中学から毎年お馴染みの、苗字先輩から部員へのチョコレートや。そのうち一つを先輩が手にとって、はい、と俺に差し出してくる。
「どうも」
「いーえ。財前はたくさん貰っただろうけどさ」
特にからかう風でもなくこう言うのも、毎年同じで。それに俺が何も言い返さないのも変わらない。
本当は誰からも、一つたりとも受け取ってはいない。誰がどう作ったのか分からへんやつを食べたくないのが本音やけど、そうでなくても本気のやつを無責任に受け取りたくない。唯一欲しいものはいつも同じ形をしていて、テニス部の連中は皆貰っていて、謙也さんや金ちゃんあたりが惜しむこともなく食べてしまうから空しい。
「あとこれ、明日皆に配ってくれる?」
「なんで俺が」
「部長いっちょ頼むわ」
「オサムちゃんの真似似てへんし」
「あはは」
あはは、やないわ。
「明日来て自分で配ったらええやないですか。その方があいつらも喜ぶやろ。」
「ほんとはそうしたいんだけど、明日東京行くから」
「……は」
今度こそ驚きを隠せなかった。先輩が気づくくらいだ。
「あ、違うよ。部屋を探しに行くだけ。明後日には戻るから」
早く探して決めないと、いいとこはどんどん埋まっちゃうらしくて。弾むように喋る先輩の声が今の俺にはちっとも響かない。東京に行く。明後日には戻る。そのあと東京に行ったら、次に戻ってくるのはいつになるんですか。
心臓がいやに軋む。苦しくて、油断すれば何かを口走ってしまいそうで、もう、やめてくれと思った。これ以上俺を振り回すのは、もう。
「ホワイトデーにはもう東京にいるからさ」
それでもいつか、もしかしてと考えてしまう。アホやろ俺。会えもしない人のことを望むなんて、やめておけばいいのに。この先で打ちひしがれて後悔することになるかもしれないのに。
「お返しは全国優勝がいいな」
この人に会いたくて、追いかけてしまう。
「……ええっすよ。見せたりますわ」
だからあんたも、全部とは言わない、せめて俺らの全国大会くらい見に来て欲しい。大学がどれだけ楽しくても、好きな男ができたとしてもや。
「約束ね!」
「はいはい」
こんな軽い調子の約束でもきっと先輩は覚えていてくれる。この人のそういうところが俺は、好きだった。


先輩と並んで部室を出る。桜が咲く気配なんて全然無くて、やっぱり、はなむけの言葉なんて俺の口からは出てきやしない。
東京から戻ったらまた顔出すね、と先輩が楽しげに話す。いつの間にか先輩と道が別れる交差点まで来てしまっていた。ここじゃないどこかずっと遠いところへ先輩が行ってしまう。たった一年の歳の差がこんなにも大きくのし掛かってくるのは、俺がまだ子供だからだ。
「じゃあね」
早く大人になりたい。そうしたら、思いきって手を伸ばせる。きっと伝えられる言葉もある。

「苗字先輩」

小さくなっていく後ろ姿に向かって名前を呼んだ。すると先輩が振り返って笑う。大きく右手を振って、またねと言って。そうして先輩は歩いていってしまった。
何も言えない。何も出来ない。先輩が見えなくなるまで、俺はずっとそこに立ち尽くしていた。


2019/02/22
20万打リクエスト:氷雨さん


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