名前を呼んだそのあとに

光、と名前を呼んでみた。一度離れた体を引き戻すように財前の背中に両手をまわして、ぎゅうと抱き締めてみた。
そうしている最中は羞恥心や照れなんてちっとも無い。今日の私は考えるより先に行動してしまう。
後になって生まれた恥ずかしさをなんとか抑え込もうと、ぐりぐり、財前の肩に額を押し付けてみても期待した効果は得られなかった。抑え込むどころか、さっきから財前が何も言わないので、恥ずかしさは増すばかりだ。せめて財前が抱き締め返してくれたら……、いや鼻で笑ってくれてもいい。何やねん急に、なんて軽く言ってくれたら私もゴメンねと笑えるのに。

くすぐったい静けさが続いた。
先に口を開いたのは私の方だった。ようやく財前が動いて、何をするのかと思えば私の肩を強く、ぎゅうぎゅうと力一杯抱くから、「苦しいです」と訴えたのだ。その声に笑みが滲んでいたからか、財前は力を弱めてくれない。くるしい。胸がいっぱいでどうしようもない。

財前も同じだといいなあ。
そう思ったのと、私の携帯電話が鳴ったのは同時だった。





店長から泣きの電話を貰って、急いでバイト先に行き、ササッと着替えてすぐホールに入った。この時間にシフトに入っていたベテランの先輩二人が揃って風邪を引いてしまったらしく、店長とユウジだけで回している店内は慌ただしかった。空いているテーブルを拭いて、使用済みの食器をひとまず下げて。今来た団体さんのドリンク提供は私がしよう。その後は、流しに溜まっているだろう食器を食洗機にかけて。
部屋を飛び出してきた時の財前の顔がちらと浮かぶ。……私も、何もなければあのまま財前の腕の中にいたかったけれど。お世話になっている店長の、このお店の助けになるならば駆け付けたいと思ったのも、素直な気持ちだった。
バイトを終えたら何か買って帰ろう。ご機嫌とりってわけじゃないけど、何か、財前が好きなものーー。
「苗字さんこれお願い!」
「はい店長」
「苗字!ヘルプ!」
「はいはーい」
「苗字さん今度はこっち!!」
「はい店長!!」
考える暇も無かった。

夕方のピークの時間帯を三人でなんとか乗り気って、お客さんの出入りが落ち着いた頃ようやく一息つく。嵐が過ぎた安堵と達成感から出てきそうになるため息を、まだバイト中だぞと仕舞いこんだ。
朝から休憩を取れていないらしい店長をレジから閉め出すようにして送り出すと、大袈裟なくらいお礼を言われる。ちょっとでも役に立てたのかなと思うと嬉しくて、いらっしゃいませ、ありがとうございました、の一言がついつい弾む。
「なんやお前、機嫌ええな」
「えっ、あーうん、まあね」
「ふーん」
食事の注文が止まって手が空いたユウジが、厨房からひょこと顔を出した。咄嗟に誤魔化すような喋り方をしてしまったけれど、ユウジは特に気にも留めずにホールへ出て行く。

財前とのことを、ユウジには話してもいいだろうか。ユウジには遠回しに相談させてもらったし、長い付き合いだし、言いたいけどなあ。財前、嫌がるかな。
よくよく考えると私は財前と恋バナなんてものをしたことがほとんど無くて、傾向と対策が分からない。彼女がいたというのも聞かないし……。
そうすると、もしかして、私が初めての彼女だったりするんだろうか。
「なにニヤニヤ笑てんねん」
「わ、わらってません」
下手くそな嘘を、ユウジはまたも「ふーん」で済ませた。



「苗字さん今日はホンットありがとう。助かったよ」
「いーえー、また何かあれば呼んでくださいね」
「えっいいの? 早速だけど三月はガッツリ入ってもらいたくって」
「三月ですね、三月……大丈夫だと思うんですけど、一応お返事は明日にさせてもらっていいですか?」
「うん、じゃあ明日、またよろしくね」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ。一氏君もお疲れ様ー」

ぺこ、とユウジと揃って店長に会釈をする。閉店作業も終わり明かりを落とした店を出ると、吹きすさぶ2月の風にさらされて、ぶるりと体が震えた。やばい。寒い。ココアでもテイクアウトすればよかった。
「さっぶ……」
「マフラーしてへんからやん」
「ああ、そうそうマフラーね、どこに……え?」
ふっと横を向くと財前が立っていて、手に持つマフラーを差し出してくる。赤いチェックのマフラー。私の愛用しているものだ。
「忘れてましたよ」
「うわ、ごめん……ありがとう」
受け取って、でもすぐには身に付けない私に財前は少し首を傾げた。

マフラーを手渡された時に触れた財前の指先がひどく冷たかった。どうしたん先輩、巻いたりましょうかと喋るたび白い息をほうと吐いて、鼻は赤くなっていて。どうしたもこうしたもない。きゅんと胸が鳴る。反面、忙しさに埋もれていた罪悪感もまた生まれる。告白されて告白した、あの空気の中で仕事へと飛び出したのだ。

ほんとごめん、と言おうとした。そこへユウジの咳払いが重なって、そうだユウジがいた、なんて失礼なことを思う。
「あー、お前ら、くっついたんか」
「まあ、そうですね」
「ほーか。おめでとさん」
何でもないことみたいにおめでとうを言うユウジ。淡々としている財前。いやいや。え?
「待って待って、ユウジ、気づいてたの? 知ってたの? 財前、ユウジに相談してたの?」
「質問多っ」
「相談とかしてへんけど、この人は気付いてましたね」
「財前も苗字も、すぐわかったわ」
「えええ。わかんないよそんなの」
「こんな鈍感相手によう頑張ったなぁ財前」
「ひどい」
「ホンマのことやからしゃーないっすわ」

バカにされている気がするのに、何故かくすぐったさもある。つい、ふふと笑うと財前に小突かれた。

お店の前でユウジと別れて財前と二人になると、手に持っていたマフラーをするりと拐われる。そのまま流れるように、そっと首に巻かれた。肌にふれる布が柔らかい。
「あ、ありがとう」
ニヤニヤとだらしなく緩みそうになる口元に手をあてて隠す。財前は私をじっと見下ろして、おもむろに、左手を伸ばして口元にやっていた私の手をとった。指先をその手で食べるみたいに包む。財前の行動に私の思考は追い付かず、ざいぜん、と言葉が溢れる。
それを、財前はよしとしなかった。

「名前」
「え?」
「財前に戻っとる」
「……あ、そっか。つい」

ぐ、と私の指先を握る財前の手は変わらず冷たい。でも、熱い。自分でも何を言っているんだと思うけれど、熱くて熱くて、夜風が心地よいと思うほどだった。

「先輩」
「……えーと、ごめんね急にバイト行って」
「話変えんな」
「だってなんか、気恥ずかしいっていうか」
「名前先輩」
「…………なにそれ。ずるい」

もう逃げ道なんて無いと言わんばかりに、名前を呼ばれ、真っ直ぐ向けられる目。財前はずるい。きっと自分のことも、私のこともよく分かっていて、そんなことをしてくるのだ。

「光」

絆されるまま口にした名前に、財前が、……光が笑う。困ったような、力が抜けたような、嬉しそうな笑み。名前を呼んだだけで、そんな風に笑ってくれる。
どれだけ大きな気持ちを向けてくれているんだろう。私には想像もつかない。だって今日まで知らなかったのだ。今日までずっと、見逃していたのだ。

光に握られたままの手をもぞもぞと動かして、指先を絡める。不格好な恋人繋ぎではあるけれど、これはこれで私達らしい気がした。かえろ、と私が言うと、どこに? と光が試すように聞いてくる。返事はさておき、光の手を引いて歩き出す。

「名前先輩」
「なぁに」
「……べつに、なんもない」
「ふふ、なにそれ」

この手を絶対に離さない。つないで、にぎって、あたためる。昔の私が出来なかったぶん、目一杯の気持ちで。

2月の夜風がびゅうと吹く。それなのに、やっぱり、私の体はぽかぽかと火照っているのだった。まるでお酒を飲んで酔ったご機嫌な帰り道のよう。
だから、向かう先は一つしかなかった。


2019/05/09


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