名前



財前の部屋に来たのはあの酔い潰れた日以来で、どうしてもあの時のことを思い出してしまって気まずい。適当に座ってくださいと言われて一人にされ、まずベッドに目が……行きそうになるのを何とか避けた。ローテーブルの前に座ることにする。

ここに来るまでの私はめちゃくちゃだ。自分の予想にへこんで、財前を好きでいるのは止めようと思い、なのにそのすぐ後で独占欲を爆発させて、千葉さんから避けるようにして財前を連れ出した。何やってんの私。穴があったら入りたい。
恋愛感情っていうのは本当に困ったやつだなと最早他人事のように思う。財前だってきっと意味が分からないと思ったはずだ。途中までよく大人しく着いてきたなと、そちらの方が不思議なくらい。

そんな自分をコントロール出来てない今、財前と二人になるのは、私の精神衛生上良くはない。自然に振る舞える自信は一ミリたりとも無い。でも、話したいことがあって、なんて財前に言われると断れなかったのだ。
改まって話って、何だろうか。もしかしたら千葉さんのことかもしれない。実は好きで、もう先輩とは遊んであげられませんなんて財前の口から聞こうものなら立ち直れないかも。
でも、それでも、聞きたい。少し……いや大分つらいことだけども。好きだっていう気持ちとは別に、これまで財前をだいじな友達と思ってきた私として、財前が私と話したいと言うならどんな相談もきちんと聞いて受け止めたいから。

「なんで正座?」
「っ……ではお言葉に甘えて崩しマス」

財前の声がすると、ドンと構えたはずの心が跳ねた。しっかりして私。

財前がテーブルに置いてくれたマグカップからキャラメルラテの甘い香りがする。ユウジと一緒に財前の部屋へ乗り込んで遊んだ時、私が持ち込んだインスタントのものだ。このメーカーのキャラメルラテが私は大好きで、特にお願いしなくても淹れてくれる財前が、やっぱり好きだなあと思ってしまった。

「ありがとう」

だからか、マグカップを手にして言ったありがとうが自分でも驚くほど温かな声色になった。財前が目を丸くする。失敗だ。なに今の……もうやだ。

それから財前はベッドに腰掛けて、私の方を見るでも話を始めるでもなく、コーヒーを飲んでいる。ちらちらと財前を見上げながら私もキャラメルラテを飲む。数分、もしかしたら一分程の短い時間だったかもしれないけど、静けさが痛かった。
それからまるで意を決したみたいにコーヒーをぐっと喉に流し込んでマグカップを置いてから、財前が口を開いた。

「……先輩に話したいことがあって」
「うん。なに……?」
「その前に言わなあかんことがあるんで、そっちから聞いてほしいんすけど」
「うん」

胸が締め付けられる。なんで私から顔を反らすの。財前。

「先輩が酔ってうちに来た日のことなんですけど」
「……うん」
「先輩に誘われたって言うたけど、ベッドに誘われただけで何もしてへんから」
「……………………え?」
「一緒に寝よーて先輩に言われて横に寝ただけで」
「…………」
「先輩勘違いしとるみたいやけど、シてへんっすわ」

……。
……。
……この人、何言ってるの?

え、だって、財前が言ったんだよ。私が財前のベッドに上がり込んで、自分から、財前を誘ったんだって。え? 誘うって、なに、言葉通りってこと? 添い寝のお誘い? 財前はそれに応えてくれたと。……つまり、そういうアレコレは、してないと。

そういうこと?

「……ちょっと待ってよ何それ……!」

まだ中身が残っているマグカップをどうにか静かにテーブルに置いて、まばたきも忘れるくらいがっちりと、財前を見つめた。財前も私を見る。気まずいなんて感情は今は一切無い。

「先輩が勝手に勘違いするから俺はもう……おもろくて」
「は!?」
「でもあんまり悩ませるのも可哀想やし」
「どの口が言ってるの!?」

可哀想と言いながらついに笑い始めた財前。この男、自分の行いに反省の様子が見えないんだけど!?

「ひ、ひどい……!」
「すんません。すぐ言うてあげたら良かったんでしょうけど」
「そうだよ! っいや、最初から紛らわしい言い方しないでくれる!?」
「そこは、俺には俺の事情もあったんで」

財前が足を組んで私を見下ろし、ニヤリと笑う。私をおちょくってくるこの人が格好良く見えてしまう私の瞳はどうなっているんだろう。
崩れかけた交戦態勢を正そうと背筋をピンと伸ばしてみる。それをまたバカにしたように笑う財前が……これがまた、格好良くて困る。

「事情って、どんな」
「それが本題なんですけど、言うから、こっち来てください」
「……うん」

財前が自分の隣、ベッドを叩く。一瞬悩んで、大人しく従うことにした。隣に呼ばれて嬉しい気持ちも無いことはない。
やや距離を取ってベッドに腰掛けると緊張が一層増した。組んでいた足を戻して財前がこちらに体を向ける。さっきまでの小馬鹿にした笑いは消えていた。

「騙すようなことしたんは、悪かったと思ってます。でも、俺かて必死やったから」

言い聞かせるみたいに紡がれる言葉。こんな風に話す財前は見たことがない。ゆっくりまばたきをして、再び見開かれた瞳に私が映る。

「一回しか言いません。ちゃんと聞いといてください」

真っ直ぐ私を見る眼の熱さに焼かれそうだ、と思った。でも反らせない。逃げられない。かちこちに固まっている私を財前がかすかに笑う。

「……先輩、好きです」

そうしてそんなことを、言う。

うそ。反射で言葉が浮かんだ、でも音にはならない。財前の眼差しが、財前の言葉をうそだと感じさせなかった。
ーー先輩。好きです。
財前が、私を、好き。

しばらくの間、それだけが頭の中を巡っていた。だって思いもよらなかったのだ。そんなことは。そんな、嬉しいことは。

何も言えずにいる私を財前はただ見つめて、待っていた。少しだけ眉を寄せているけれど、怒っても拗ねてもいないと分かる。赤くなった耳が教えてくれる。
胸がひどくざわめく。恥ずかしくてたまらない。なのに、このまま目を合わせていたい。財前。心の中で呼んだら、いよいよ気持ちが溢れだした。だから今度は本当に名前を呼んだ。私がきみのことをどう思っているか伝わるように願いをこめて。

「財前」

すると財前がこちらへと距離を詰め、私は抱き締められた。ゆるく背中にまわされた腕。
勘違いさせるようなことを言って、そのあともずっと飄々としていて、昔からいつだって余裕があって。だけどこんなに優しく抱く人なんだと初めて知る。愛しくて仕方ない。

「好きだよ。私も財前が好き」
「…………どうも」
「ふふ。あのさ、財前」
「なんすか」
「さっきのもう一回言って」
「いやや。一回しか言わへんって、言うたでしょ」
「ええー」

財前の背中に手をあててゆっくり撫でると、少しだけ腕の力が強くなった。それでもまだ振りほどこうと思えば出来てしまえそうだ。もっと強く抱き締めてくれていいのに。普段は結構強引なのに。かわいい人だなあと思いながら、肩口に自分の額を押し付けた。

「……ね、一つ聞きたいんだけど、財前は私を好きなんだよね」
「……まあ」
「それって、私が酔ってここに来る前から?」

財前が渋々といった声で、そうですけど、と答えた。それじゃあ、もしかして、

「じゃあさ、私が言うのも何だけど、あの時は……わかんないけど、我慢したの?」
「……フツーそんなん聞きます? 」
「ごめん。つい、気になって」

顔を上げて身体を離し、財前はため息をついた。決まり悪そうに、でもどこか観念したように髪を掻く。少しうつ向いて財前が呟く。我慢したっちゅうか、あんな状況で手ぇ出さへんわ。
それは小さな小さな声だった。この静かな部屋の、こんなにも近い距離にいてようやく聞こえる声。私は、え、とか、なんで、と喉から出てきそうになるのを飲み込んで、財前の言葉を聞き逃すことのないように耳をすませる。

「一晩くらいのことで、ぐちゃぐちゃにしたないねん。……俺が、何年あんたのこと好きやと思ってるんすか」

私はもう、飲み込む言葉もなく、ぽかんとするしかなかった。胸がざわめくどころじゃない。ギシギシと、音が鳴るほどに軋んだ。いつからなの。財前。
でも聞かない。今はね。今私は、手を伸ばしたい。ぎゅっと抱き締めて、好きだよと伝えたい。それでも足りなかったらキスをして。

この人を幸せにしたいと一心に思いながら、まずは最初に、光と名前を呼んでみることにした。



2019/04/26 end


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