アイマイミーマイン



理科準備室の扉に左手をかけると、きゃあきゃあ、女の子たちの声が聞こえた。自分の表情が険しくなるのが分かる。だけど中に入らなければ、クラスメイト達の化学の課題を運ぶという任務は達成されない。化学の課題提出の日に日直に当たるなんて、最悪だ。
一度大きく息を吐いて、静かに扉を開けた。失礼します。ほとんど呟くように言ってから、ひと足早く空調を入れている理科準備室に足を踏み入れる。7月の蒸し暑さを溜め込んだ廊下との温度差に、身震いした。

「せんせ、今度女テニにもコーチに来てよぉ」
「そーだよ、白石先生が来てくれたら、もーすっごい頑張るから!」
「えっ、じゃあ女バスにも来てよ! ね!」

女の子にデスクを囲まれて、白石先生が笑っている。こらこら、敬語を使いなさい。先生がそう言うと、彼女たちは揃って「えー、どうしよっかなぁ」と意地悪な顔をした。スリッパの色からして彼女たちはまだ一年生だけど、女の顔だ、と思った。だけど私が「女」だと思う表情も、先生から見れば「子ども」っぽいものなんだろうか。
早くここから立ち去りたい。右手でわっしと掴んでいるプリントの束をその辺りの棚にでも置いて、気付かれないうちに、静かに出ていきたい。だけどそれは叶わなかった。

「苗字?」

先生が私に気付いた。女の子たちが一斉に私を見る。品定めをしているんだろう。上から下までじろじろ見た後、勝ち誇ったような笑みを見せる。ああ、うんざりだ。
彼女らを避けて先生のデスクに近寄った。何が楽しいのか、先生はにこにこしている。

「3年7組の課題、提出しに来ました」

みんなのプリントを先生に渡す。先生はパラパラと確認して、私のプリントを見つけると、それに目を通した。そして満足そうに、ふふと笑った。

「苗字、頑張っとるやん」
「まあ、はい」
「去年の今頃は補習常連やったのになあ」
「そうですね」
「先生ちょっと寂しいわぁ」
「はあ、そうですか」

ぶっきらぼうな私の返答にも嫌な顔一つしない先生。一方女の子たちはつまらなさそうにしている。さっさと帰ろうと思って、それじゃ、失礼します。そう言ってデスクを離れた。彼女たちはまた先生に話しかける。短いスカート。色のついた爪。ばっちりキマっているお化粧。
心の中で「お邪魔しました」と言っておいた。


新任のカッコいい先生が来る。どこからともなく流れてきた噂は、高校二年生になったばかりの私の耳にも届いた。たくさんの女の子が、その魅力的な噂に胸を躍らせた。噂の先生へ求める顔面偏差値はかわいそうな程高まってゆく。けれど、噂は噂だ。期待のし過ぎで実物にガッカリするのがオチだ。私はそう思っていた。始業式の中盤、新任の先生の紹介にと、彼が体育館の壇上に立つまでは。
先生は皆の期待を裏切らなかった。
裏切らなかったどころか、何もかも、出来すぎている。顔も、背丈も、声も。学生の時には全国区のテニス部の部長だったらしいし、難関大へ現役合格。持って生まれたモノが違う。神様、えこひいきだよ。
そんな人が何を教えてくれるっていうんだろう。そんな反感を、私は白石先生に持っていた。

数学が好きで理系に進んだけれど、数学以外の理系科目はてんでダメだった。中でも化学は一年生の時から補習の常連で、極々稀に赤点を逃れたりすると、友達に「採点ミスだ!」と笑われたものだ。それが、二年生になって白石先生が教科担任になると、私の化学の成績は良くなった。点数の伸びはゆるやかで、相変わらず補習には通っていたけど。でも、確かな手応えがあった。
秋頃、そう、秋の実力テストだ。化学の点数がにょきっと伸びたのは。今も覚えている。82点。信じられなかった。答案を返されて固まる私に、白石先生は「よう頑張ったな」と言って私の頭を撫でた。
それ以降、私は補習に呼ばれなくなった。
白石先生の教え方は、素晴らしかった。生徒が教師に向かって「教え方が素晴らしい」なんて、私は何様のつもりだ。だけど、白石先生を知った時に抱いた反感をきれいサッパリ拭い去るくらい、素晴らしかったのだ。
白石先生の教え方からは、白石先生がこれまで積み重ねてきた努力が見えるようだった。



理科準備室から戻った私に、友達がそそそ、と近付いてくる。私は席について、机から次の授業の教材を引っ張り出した。昼休みはあと5分もない。

「ね、白石先生、今日はどうだった?」
「どうって……普通だよ、普通。お変わりありません」
「そっかぁ。じゃあ、今日もすンごいカッコよかったんだ」

ムフフと笑う彼女に、苦笑を返しておいた。

私には愛嬌というものが一ミリもない。いつだって強がって、プイとそっぽを向いて、興味のない振りをしてしまう。本当は。本当はね、先生。先生のおかげです、ありがとうございますって素直にお礼を言いたい。ぶっきらぼうな、「まあ、はい」なんて返事はしたくない。あの子たちみたいに気軽に先生に話しかけたい。だけど、出来ない。
白石先生が女の子と話しているところを見たくない。だから理科準備室は行きたくない場所ナンバーワンだ。あそこにはいつも、白石先生を取り囲む女の子がいる。


「名前っ、ちょっと、名前!」

がくがく、肩を掴んで揺さぶられた。

「……え? ごめん、聞いてなかった」
「ばか! ほら、白石先生が!」

チラッ、チラッと視線だけをずらして友達が訴えてくる。彼女の視線を追うと、白石先生がいた。心臓が大きくはねる。白石先生は私たちの教室の入口に立って、手招きをしていた。教室中の女の子が先生に見とれている。

「名前を呼んでるんだよっ」
「う、うん……行ってくる」
「くそぅ。うらやましーぞ!」

席を立った。友達の声が私の背中に当たる。そんな言葉も嫌味っぽく聞こえないのが彼女のすごいところだ。同じ言葉を私が言えば、ネチネチ、べっとりした響きを持ってしまうだろう。

白石先生の前に立つと、先生がニッと笑う。いつも穏やかでにこにこしている先生だけど、こんな風に、クラスの男子みたいに笑ったりするんだ。そんな発見に、私の心臓はどっこんどっこんうるさく鳴っている。

「ちょお、耳かして」

白石先生がそう言うので、私は無言で片耳を先生の方に向けた。先生が顔を近づける。たまらなくなって、目をぎゅっと閉じた。白石先生の声が私の鼓膜を震わせる間、私の神経の全てを耳に集める。

「放課後、3階の空き教室においで」

先生がはなれてゆく。先生の声に満たされた耳が、じんじんする。

「……よろしくお願いします」
「おお。待っとるで」

先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、階段の方へ歩いて行った。騒ぎ出すクラスメイト。廊下で見ていたらしい女の子が、私を睨んでいる。私は何も悪いことはしていない。自分のプリントの裏に「科学も教えてもらえませんか?」と書いて提出しただけだ。口を開けば可愛くない私の、これが精一杯だった。
科学の先生に言えと一蹴されるかも、気付いてもらえないかも、そういう可能性もあった。これは賭けだった。先生が私に化学以外も教えてやると言ってくれれば私の勝ちで、そうしたら、私は私を変えよう。素直になろう。そう決めていた。

耳に触れてみると、熱い。誰がどう見たって私の勝ちだ。




2012/08/10
ゆうさんのリクエストで「白石先生と生徒」でした。ゆうさん、リクエストをありがとうございました!


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