手をのばせば届く距離? 確かにそうかもしれない。俺の手は彼女に届くやろう。手をのばす、理由がないだけで。
意志あるしもべ
小さな寝息が聞こえる。
俺の後ろの席からや。午後の国語が格別眠いんはわかるけど、謙也、お前ずっと寝てるやんか。
右隣の苗字さんをちらと見ると、内職をしているらしくノートの横にノートを広げて一生懸命何かを書いとる。いつも真剣に先生の話を聞いとる苗字さんが今日は一日中内職してるなんて、珍しい。
そう思いながら左隣へ目をやる。俺の左隣は、窓。雲ひとつないサッと晴れた夏空。
今日の部活もいい汗かけそうや。
授業が終わると同時に、後ろから気の抜けたあくびが聞こえた。
「自分、寝すぎやで」
教材を鞄に詰めながら後ろへ振り返る。
「んん……弟とな、ゲームしとったん。2時まで」
そら眠いわ。自業自得やけど。
謙也は緩慢な動きで目をこすりながら「ノートかして」と言ってきた。
部活中にぼんやりしてたら筋トレ2倍にしたろ。
「しゃあないなぁ……明日の昼飯で手を打ったるわ」
片付けたばかりのノートを取り出す。そら高過ぎるわーと言う割に値切ってこない謙也にノートを渡したところで、ふと、思いつく。苗字さん。
「苗字さん」
さっきの授業の続きか、ノートとノートを見比べながらせっせと手を動かしていた苗字さんを呼べば、はじかれたように顔を上げた。茜色の厚いフレームの奥から覗く目が真っ直ぐこちらを向く。
何してるんと聞けば苗字さんは一瞬きょとんとしてから、ああ、と微笑んだ。
「今田くん、今日休んでるやろ。ノート写してーってメールあって。」
ご近所さんやから。
苗字さんは、そう言いながらノートの表紙を俺に見せた。表紙の下の方にはクラスメイトの今田の名前が濃く太く書かれている。
苗字さんは、優しい。自分の板書を差し置いて頼まれごとをするような子や。やから、つい皆甘えてしまう。その度彼女は少し損をしとると俺は勝手に思っているけど、彼女自身はなんとも思ってないんやろう。今だって、さっきの授業の板書が出来ていないことにようやく気付いても、「もう消えてる、日直さん仕事早いわぁ」と、朗らかに笑っている。
そんな彼女に、謙也の手から俺のノートを取り返し、差し出す。
「どうぞ」
「えっ」
えっ、と言ったのは謙也やった。
「謙也はまた今度でええやんな」
言いながら謙也に向かってにこりと笑って見せる。謙也は呆れたような顔をして、へいへい、と手を振り帰る準備を始めた。
苗字さんに差し出したままにしていたノートを彼女の机に置く。
「ほんまにええの?」
苗字さんは俺のノートに手を添えて、ちょっと嬉しそうに言った。ええよと答えると同時に担任が教室に入ってきて、すぐにホームルームが始まる。
ありがとう。
息だけでそう言う苗字さんの声は、担任の話と被ってはいたけど、ちゃんと俺の耳に届いた。
「白石は、苗字が好きなんか?」
制服からユニフォームに着替えながら謙也が俺に向かって投げかけた言葉に、傍におったユウジが動きを止めてこちらを見る。なんやねん。
「ちゃうわ」
「せやけど、白石、苗字に優しいやん」
……そうやろか?
自分でもよく分からず、曖昧に返事をしておく。
特別苗字さんに優しくした覚えはない。さっきのノートのことを言っているなら、あれは、苗字さんが隣の席で、板書してへんのに気づいたからで。好きとか、そんなんやないと思う。
そう言えば、ふーん、と真に受けてなさそうな声。
「まあ、優しいし、かわええし、ええんちゃう」
白石もそのうち自覚するやろ。
謙也にそう言ってからかわれて、なんとなく悔しい。
謙也とのやり取りが終わりユウジに視線を滑らせると、訝しげな顔をしている。ユウジのそんな表情に気付いた謙也が、なんや、と少し驚いた顔をした。
「苗字って……苗字名前か?」
おん。
俺が頷くだけの返事をすると、謙也が続けて「知り合いやったんか?」と。
「……去年、同じクラスやってん。苗字って、ナヨナヨしとらんし、まあ、優しいし、顔もかわええ方やん。小春のが断然かわええけどな!!」
それはええから。
苗字さんがどないしてん。
「あいつの表の顔に騙されたんや。お前らも、騙されとる。」
……。
「「はぁ?」」
なにを。なんで。どうやって。誰に。苗字さんに?
「あいつ、眼鏡外したらごっつぅ怖いで。睨んできよる。」
ま。一見の価値ありやとは思うけど。
俺と謙也が疑問符を飛ばす一方、ユウジはバンダナを装着し、着替えを終えた。
なんやそれ。気になるわ。
そんな話をした次の日は土曜日、そして日曜日が終わり、今日は月曜日。
一見の価値があるらしい苗字さんの眼鏡を外した姿を見てみたい気持ちはあるけど、突然そんなお願いをするのは気が引ける。そう思っていたら一日はあっという間に終わってしまった。
部員が帰ってから小一時間サーブの練習をし、そろそろ帰ろうと部室に引っ込む。着替えを終え、部室を施錠して、気付く。学校新聞の書きかけの原稿、教室のロッカーん中や。締切近いんに。
教室に行くのは面倒やけど、仕方ない。鞄を抱え直し、校舎に向かう。
3年2組の教室はまだ電気が点いていた。残っていたのは、苗字さん。
思うより先に足がそちらへ向かう。苗字さんは本を読んどったけど、近寄ると気付いてくれた。
「いま部活終わり? お疲れ様」
「おん。苗字さんはずっと本読んでたん?」
彼女の手にある本を指さす。最近飛ぶように売れているらしい、ミステリーもののハードカバーやった。
「うん。部活オフやったし、読み切ろうと思って」
まあ、もう読み終わって、二周目なんやけどね。言いながら、苗字さんは窓に目をやった。
夏の太陽が、もうすぐ沈んで見えなくなる。窓にうつる彼女の瞳はごつい眼鏡のフレームに隠れて、曖昧にしか見えない。
「苗字さん」
出てきた声は、なぜか少し緊張の色を帯びていた。
俺の呼び掛けに彼女がこちらを向く。
「ん?」
「……一つ、頼みたいことがあるんやけど。ええやろか」
頼み事を伝えもしないで聞くのは彼女が断らないだろうと踏んでいるからで。
「うん。なに?」
何でも聞いてあげましょう、と顔に書いてある。予想通りの返事に思わず口角が上がり、よくわからないままに感じていた緊張も解けた。
「眼鏡、外してみてくれへん?」
何でそんなことを言うんやろう。
そう言いたげな苗字さんは、それでも頷いて、下を向いて眼鏡を外してくれた。
そのまま顔を上げた苗字さんともう一度目が合ったときには、がっつりと眉間にシワが刻まれ、優しさなんて微塵も感じさせない。いつもにこにこしている口元も、今は静かに閉じている。眼鏡越しに見ていた瞳は鋭く光って、俺を見ていた。
心臓が、どくん、と大きく一度脈打つ。
ええやん。たまらんわ。
気付けば彼女の手から眼鏡を奪っていた。苗字さんは更に眉を寄せる。多分、困った顔をつくろうとしとるんやろうなぁ。大失敗しとるけど。
「なんで眼鏡取るん?」
苗字さんが椅子に腰かけたまま俺を睨むから、俺から見れば睨む目も上目遣いで、俺はこれを手に入れたいと思った。
……いや、今の苗字さんだけやあかん。
全部。全部ほしい。
突然現れた独占欲に胸が軋むのを抑えられず、眼鏡を取り返そうと伸びてきた苗字さんの腕を、眼鏡を持つ手とは反対の手で掴む。
苗字さんは眉を寄せたまま不思議そうな声色で「白石くん? どうしたん」と尋ねてきた。
謙也。お前の言う通りやったわ。今自覚したで。
「眼鏡返したるから、そのかわり、もう誰の前でも誰に頼まれても眼鏡外したらあかん。」
わかった?
笑顔を向けて、首をかしげてみる。首をかしげたいのは彼女の方やろうけど、眼鏡を引き合いに出された苗字さんは、曖昧やけど一応頷いた。それを確認して掴んでいた腕を離し、眼鏡を返す。
眼鏡をかけてしまえば、鋭さは一片も感じられない。
「なんやったん?」
苗字さんは楽しそうに笑っていた。
お人好し。鈍感。少しは懐疑心を持ちなさい。
「なんやろなぁ」
「なに、それ」
白石くんって変な人だね。
苗字さんにそう言われた。変な人って。苗字さんもなかなかやで。
そう思いつつ、一緒に帰ろかと誘ってみた。
この優しくて朗らかでお人好しで鈍感で俺を変な人呼ばわりする子に気付いてもらえるよう、アピールしよう。手をのばす理由はここにある。
2012/02/22
雨花