光の、上手に口笛を吹くところが好きだった。好きだったと過去形で言い切ったけれど、勿論今も大好きだ。
光は恥ずかしがって人前で口笛を吹くのを嫌う。だから彼の機嫌がとてつもなく良い時にしかそれは聴けないのだけれども、それはそれで特別な感じがして悪くない。




やさしい魔法使い






初めて光の口笛を聴いたのは、中学三年生の秋だった。

白石達と一緒にテニス部を引退した数日後。部活はオフで、テニスコートから音は聞こえない。私は部室でマネの後輩と待ち合わせをしていた。マネ用の部室の鍵をその子に渡すという用事があったのだ。
ものの十秒で終わる事。後に図書室での勉強会――白石先生と謙也先生のスパルタ理系講座を控えていた私は、足早に部室へ向かった。


透き通る、やわらかい音。

それは部室の前に立ったとき、すっと私の耳に入ってきた。誰かの口笛。知らない曲。なんてやさしい音色なんだろう。

私は部室の外で、その音がやむまで聴いていた。こんなふうに口笛を吹く人は誰なんだろう。心当たりがない。ああ、そもそも皆の口笛の音色なんて知らないや。
そう思っていると音が聴こえなくなって、少し緊張しながら部室の扉を開けた。そこにいたのは、

「え、財前?」

ユニフォーム姿の財前だった。UFOでも見つけたみたいな、物凄くびっくりした顔をしている。でも驚いたのは私も同じだ。まさかさっきの口笛が、財前のものだったとは。
財前の表情は驚きから、「やってしまった」ときまりの悪いものに変わった。これが謙也だったなら「俺、口笛上手いやろ!」と胸をはって言うだろうし、白石だったならどや顔を決めるだろうに。なんだか悪いことをした気分だ。

「ごめんね財前。きいちゃった!」
「……スルーしてください」

あら。怒ったかな?
ラケットを手に私の横を通り過ぎて、部室を出ていく財前。真っ赤な耳。
……かわいいやつ。



また聴きたいなぁ。そう思いながらも、受験勉強に追われて、そんな機会は無いまま高校生になって、また男子テニス部のマネージャーになって。初めて彼氏なんて存在が出来たりして。一年後に同じ高校に上がってきた財前にも、夏には彼女ができて。

口笛吹いてよと頼んだことはある。だけど何度頼んでも、彼は拒否し続けた。「嫌です」「うざい」そう言って断られる。こんな辛辣な財前が、あれほどやさしく口笛を吹くなんてやっぱり信じられない。


――あの口笛を、彼女は聴くんだろうか。

ふと浮かんだ疑問。あっという間に、私の心も脳も、ドス黒く染まってしまった。

財前の口笛を彼女が聴くこと。
あのやさしさが誰かに向けられること。
私は、それが嫌なんだ。

そう自覚してからすぐに、彼氏と別れた。

それからすぐ学年が上がって、財前も彼女と別れた。日曜の部活の後、財前自ら私にそう言ったのだ。別れましたと、抑揚の無い声で。
まさかそこで嬉しそうな顔をするわけにもいかず、私も極力抑揚を抑えて「そうなんだ」と答えた。

白石は顧問のところに行っているし、部員は帰った。私と財前しか残っていない部室には、何代も前の部長が書いたらしいスローガンが掲げられている。もうすぐ最後の夏が始まるんだ。


「名前先輩、俺のこと好きでしょ」

唐突にそう言われ、私は部日誌を書く手をとめた。
顔を上げることも出来ず、今自分が書いた文字をひたすら見つめる。そんな私に構うことなく、財前は言葉を続けた。

中学から好きだった。でも高校生になって私に彼氏ができたのを知って、諦めようと思った。付き合ってほしいと告白してきた女の子は「今は私を好きじゃなくてもいい」と言った。だから付き合ってみた。
でも、好きにはなれなかった。


「先輩が彼氏と別れたんは、俺を好きになったからやろ? 分かりやすくて助かりました」

そうか。じゃあ、彼女さんが財前に振られたのは、私のせいなのか。

財前が淡々と話すものだから、はじめのうちは破裂しそうだった心臓も、今は落ち着いている。今なら聴けるかもしれない。あの口笛を。

みるみる緩んでいく顔を上げると、「アホ面」そう言う財前の顔は、嬉しそうだった。





昔のことを思い出したのは、珍しく光が口笛を吹いているからだ。

付き合って分かった。光は優しい人だ。ただ素直になれないだけで、本当はすごく心配性で、友達も家族も、私のことも、大切にしてくれる。あの口笛と光は不釣合いなんかじゃない。

台所に立ってご飯を作る私を、後ろからぎゅうぎゅう抱きしめてくる光。間近で聴こえるやわらかい音に、胸があたたかくなる。幸せになる。魔法みたいだ。
私のお腹あたりに組まれた光の手。左手には、私とおそろいの指輪。光がくれたやさしさ。


来月、私たちは結婚する。



2012/03/16


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