普段ならしないようなミスをした。それが、もう何やってんのと同僚に笑ってもらえるものなら良かったけれど、そうはいかない。始末書もののミスだった。救いだったのは、日頃の真面目な勤務態度のおかげか、上司から叱り飛ばされなかったことだ。今日までの私に感謝しかない。

一人また一人と同僚が帰宅してついに一人ぼっちになったフロアで、カタカタとキーを叩く。始末書の作成の前に取り戻すべき仕事をして、定時を大幅に過ぎた今、ようやくコイツに取りかかるところだった。終電には乗れるだろうか。
……乗れなくても、いいけど。どうせ誰も待ってないし。


優しい熱が止まらない



一昨日。月曜日のことだ。最寄り駅で電車を降りて自宅へ向かう道すがら、ポケットの中の携帯電話がブン、と一度だけ震えた。すぐに取り出して画面を確認すると、彼氏の名前と彼氏のアイコンが表示されていた。
今週末は一ヶ月ぶりのデートの約束をしているから、きっとそのことだろう。日にちが近づいてきたから、どこに行きたい?だとか、そういう相談。私は迷いなく画面をスライドさせて彼氏からのメッセージを読んだ。

大学二年の冬から付き合っている同い年の彼氏とは、学内のサークルで知り合った。気の合う友人から恋人になってもうすぐ丸七年が経とうとしている。社会人になってお互い忙しく、頻繁には会えていない。だけどSNSではちょこちょこやり取りしてきたし、次のデートがちょうど記念日に重なるから、もしかして何か素敵な展開が待っているかも、なんてコッソリ期待していた。
もうすぐ丸七年が経とうとしていた。
結論から言えば、私達が次の記念日を迎えることは、なかった。

渇いた眼に目薬をさす。しばらくまとまった雨が降っていない東京の空気はカラカラに渇いていて、このフロアの加湿器は壊れて使い物にならなくて。涙なんて一滴も出やしなかった。

「先輩まだおったんすか」
抑揚のない声の方へ、顔だけ向ける。外回りに行っていた財前が帰ってきたところだった。コートを脱ぎながら自分のデスク、私の隣へやってきて、すとんと椅子に座る。椅子の背もたれにかけられた財前のコートから外の冷たいにおいがした。
「あれ、直帰するんじゃなかったの?」
「そのつもりでしたけど、今日のとこ、今日中に片したろ思て。明日は明日でやりたいことありますし」
「さすが、出来る子は違う」
鞄からノートパソコンを取り出す財前を見ながら、茶化すように言ってみる。だけど言葉通り財前は仕事が出来る人なので、茶化したことでみじめになるのは私の方だった。とんだ自爆だ。それもまた笑って無かったことにして、始末書を仕上げてしまおうと、パソコンの画面を再び睨み付けた。


ーー二つ年下の財前がうちの会社に中途入社して来た時のことはよく覚えている。部長が新入社員の財前光を紹介する言葉が聞こえないくらいフロアの女の子たちがざわめき立って、女性社員一同、後で部長からお叱りをいただいたからだ。まあそこそこ……いやだいぶ、イケメンでいらっしゃるけれども、私は一言も喋ってない。なのになんで一緒に叱られなきゃなんないのかな。納得できません部長。
けれども、そんな絶対に口に出来ない文句を噛み砕く暇もなく、私は忙殺されることになった。噂のイケメン新人くんとペアで営業することになったのだ。
「よろしくお願いします」
「財前くんね。こちらこそよろしく」
私にとって二回目の新人教育だった。初めて新人教育を任されたのは新卒の女の子で、これがもうめちゃめちゃ可愛くて、甘やかし過ぎんなよと先輩方に言われてしまうほど。おめでたい話があって彼女が退職してしまい、財前がやってくるまでの2ヶ月は、時間の流れがあまりにも緩やかだった。
「先輩、これのチェックお願いします」
「え、はや、もう出来たの?」
私が忙殺されることになったのは、財前があまりにも手のかかる子だったからではない。全くの逆で、財前は1教えたら10出来る子だった。わあ、これは教えるのが楽だぞ、なんて暢気に思えたのはそれこそ研修を初めて二十分ほどの短い時間。私なんてあっという間に越えて行ってしまいそうな後輩を前にして、負けたくない、私もっと頑張ろう、そう奮い立ったのだ。
「先輩まだ帰らへんのですか」
「帰らへんのです」
「発音変ですけど」
「うっさい! いーから、財前は上がりなよ。花金だよ花金! 若者は遊ばなきゃ!」
「……まあ、ほんなら、お疲れっした」
「お疲れー、また来週ね」

財前はいいヤツだ。ちょっとどころじゃなく生意気なので、彼のことをよく思っていないおじさん先輩もいるみたいだけど、三年間一緒に仕事をしてきて多分誰より遠慮なく物を言われている私が胸をはって言えるのだから、間違いない。
いいヤツでイケメンで仕事も出来るとくれば浮いた話の一つや二つ、あってもよさそうだけどなあ。聞いても微妙にはぐらかされるというか。この前、仕事終わりに飲みに行った時もそうだ。
「財前さぁほんとに彼女いないの?」
「それ何回聞くんですか」
「何度でも聞くさ! あ、店員さんコレ、久保田おかわりください」
「あんたほんま飲み過ぎや」
「あはははは、で、どうなの?」
「おったらこんなめんどくさい飲んだくれの先輩と終電なくすまで飲まへんわ」
「はははは、そーかそーか。……今めんどくさいって言った?」
「自分とこはどうなんすか」
「ええ? まあ……ぼちぼちよ。うん。ハイきみもおかわりして」
「はいはい」
……あれ、めんどくさいな私。そりゃ彼氏にフラれもするわ。


始末書を添付したメールを上司に送って、パソコンの電源を落とす。疲れているのか疲れていないのか、つらいのか、つらくないのか、自分でもよく分からなかった。ただ心は一日中じくじくとうずいていて、それがひどく気持ち悪い。
「先輩」
隣にいた財前がノートパソコンを閉じてこちらを見る。
「飲みに行きますか」
「……行く」
少し悩んだけれど、頷いて見せると財前が小さく笑ったから、私もつられて笑った。


終電間近の駅を通り抜けて、会社の人や財前とよく行くお店へ歩く。飲み屋が連なる区画にひっそりと佇む、お気に入りの居酒屋さん。あの道の裏にこんなお店があって、茶碗蒸しと、あとおでんが特にオススメなんだよ、今度行こうね。私は彼氏にそう言って、電話越しの彼は、うん、いつか行こうと言った。いつかって、いつのつもりだったんだろう。行く気なんて最初から無かったんだろうか。
「せや、先輩、今日のとこ契約してもらえると思います」
「お! やるー」
「先輩にもろたチャンス、潰されへんわ」
私が今日契約の話をしに行くはずだったクライアントだけど、行けなくなったのは私自身のミスのせいだ。別に財前が気負うことはない。いい話になって何よりだと心から思う。財前に任せてよかったと、心から、

「……先輩?」
いま、よくないものを見ている。見つけてしまった。
見たくない。けれど目が離せない。ぴたりと歩みを止めた私に財前が呼び掛けてくれて、そして
「……お、おお、名前か」
目の前の男が私に気付き、声をかけた。
気まずそうな顔で、なにが、おお、名前か、だ。
「おつかれ」
「うん、そっちも」
「ん、じゃー、またな」
「……うん」
男が私と財前の横を通り過ぎる。女の子と手を繋いで、ばっちり指も絡ませて、早足に。まるで逃げるみたいに。
「……なんなの」

『好きな子ができたから、別れてほしい。』
一昨日彼氏から送られてきたメッセージを見て、私は、やっぱりそうかと思った。今週は忙しい。新しいプロジェクトのリーダーになってヘトヘトで、しばらくプライベートの時間をつくれそうにない。そう言われると、私はもうわかったと言うしかなくて、一週間置きだったデートが段々と、間が空くようになった。ここ二年くらいは一ヶ月ぶりなんてことも珍しくはなくって、メールも途切れ途切れ。電話は出られないことの方が多いだろうからやめてくれと言われていた。潮時なんてとっくの昔に迎えていたのだと思う。
それでも、会った時には好きだと言ってくれた。目を細めて慈しむように笑いかけてくれたのだ。だから私はーー

「さっきの人さ、彼氏だったの。二日前まで」
「……そうですか」
「そうです」
好きな子ができたって、もう、恋人みたいな仲なんじゃん。ねえ、もしかして、ずっと前からじゃないよね。
「財前」
「はい」
「ちょっと、今日は、飲むのやめとく。また財前にめんどくさく絡んじゃいそうだし」
次のデートが記念日だった。会えるのを楽しみにしていた。長い間彼と付き合って、なにもかもにときめくようなことは私ももう無くなっていたけれど、好きなことに変わりはなかったのに。
「ごめんね」

ずっと前だけを見ていた視線を隣にいる財前に向けて、私はびっくりした。財前がひどく悲しそうな表情をしているからだ。
「え、なに、財前どうしたの」
「あんたが」
「うん?」
「……変な顔しとるから」
「ひどい」
「つらいんやったら泣けばええやん」
「……はは、何言ってんの。やだよ」
言いながら、ぼろ、と涙がこぼれる。

あ、だめだ、いやだと思った。だけどもう涙はあとからあとから溢れてとまらなかった。心がくずれていくみたいに、涙がぼろぼろと落ちていく。なんでだろう。一昨日も昨日も泣きはしなかったのに、なんで今、人前で。
突然、財前が私の手をとって、路地の裏へと引っ張った。道とも呼べないような暗く細いお店とお店の隙間。財前が私へと向き直って、私の手を握っている方とは反対の手を私の背中に回した。私は財前の肩に顔をうめる形になって、財前の温かさに、涙が余計に溢れてくる。

やっぱりだめだったか。残念だけど予想通りになっちゃったな。そうは思えても、全部を思い出にしなければならないことが今はまだつらい。
だって、好きだったのだ。喧嘩もたくさんしたけれど、楽しい時間も一緒に過ごしたのだ。彼が私を好きだと言ったこともきっと嘘じゃない。過ごしたいくつもの季節で見てきた笑顔はほんものだって、思いたい。
私と目が合うまで、彼は隣の女の子と笑い合っていた。同じ笑顔を、私もずっと見ていたかった。


「先輩」
「……なに?」
遠慮がちな手つきで財前が背中をなでてくれるのに安心して、嗚咽もおさまりかけた頃。財前が小さく私を呼ぶ。だから私も小さく返事をした。
「こんな時に言うん、セコいと思われるかもしれませんけど」
財前の両手にぎゅっと力が入って、
「好きです。苗字先輩が」
初めて聞くようなやわらかい声色でそう言った。

「……うそ」
「嘘ちゃうわ」
「だ、だって、そんなの、……わたし、彼女いないのって何回も……」
後輩のプライベートが充実したらいいのにと思ってのことだけど、お酒の席で何度もしつこく聞いてしまった。毎回軽く流されるので、躍起になって聞き出そうとしたこともあったはずだ。
「そうですね。ほんまこの鈍感女ええ加減にせえよって思ってましたわ」
「……ごめんなさい」
「ええっすよ、別に」
いやよくないでしょ。私ならそんなのつらいよ。
「嫌やったら先輩と飲みに行かへん。俺がそうしたくてしてただけなんやから、先輩がどうこう思う必要ないねん」
「うん……?」

ふっと財前の手の力がゆるむ。
財前が少し体を離したので見上げてみると、暗やみの中で彼は優しく、ひっそりと笑っていた。

「返事急かすつもりないんで、今すぐ俺のこと考えてくれとは言いません。ただ、あんたのこと、大事にしたいと思っとるヤツがおることは知っててください」

そしてそんなことを言う。失恋をして、仕事でも失敗をしてぼろぼろになった心をつつむように、あたたかな言葉をくれる。
おかしいな。涙が溢れてとまらない。

「財前、ありがとう」

財前がもう一度ぎゅっと抱き締めてくれたので、いよいよ、たまらなくなってしまった。二日前まで追い求めていた元彼の影が目蓋の裏にちらついて、財前の背中に手を回すことは出来ないけれど。
長い時間をかけた恋が終わっていく。それこそ私の青春を、二十代のほとんどをかけた恋だった。いつかあの日々を笑い話に出来た時、財前が変わらず隣にいてくれたらいい。隣で優しく、笑ってくれたらいい。


2019/02/11
ロレンシー
20万打リクエスト:桐花さん


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