私は今、空飛ぶアンパンに追いかけられている。




木曜日はワルツ




私がこんなにも必死に走っているのに、空を飛んで追いかけてくるあの人との距離は縮まるばかりだ。振り返るたび、ああもう近い、捕まってしまう。そう思って懸命に足を動かすのに。ついに彼は私の真後ろまで来て、その黄色い手を振り上げた。もうダメだ――。

「オイ」
「いッ……」

ガツン、と脳天に衝撃が。
なに。だれ。驚いて私が顔を上げると、目の前には一氏くんが立っていた。右手に、スケルトングレーのプラスチック製ペンケース。まさかそれで私を殴ったの?
なんてことするんだと思いはするものの、批難の目を向けるなんて事、私には出来ない。一氏くんって、目つきもあんまり良くないし、女の子と楽しげに話しているところも見ないし、なんだかちょっぴり怖いのだ。クラスメイトではあるけれどこうして一緒に日直になるまで、ほとんど話したこともなかった。

「寝て待っとれ言うたか?」
「い、いいえ」

一氏くんは私の前の席にどっかり座って、椅子の上であぐらをかいた。そこは一氏くんの席ではない。私の友達の席だ。けれども、ちゃんと座りなよなんて言えない。

「俺が委員会から帰ってくるまでに黒板消しとけ言うたやろ」
「ハイ」
「お前は何で寝とんねん」
「すみません」
「日誌も真っ白か」
「……返す言葉もありません」

黒板の掃除を忘れていたわけじゃない。まず日誌を書いて、その後きちんとやろうと思っていたのだ。しかしいつの間にやら夢の中。アンパンマンに追いかけられていた。睡眠って不思議だよねえ。気づいたらグッスリ、だもん。

ごめんね。もう一度謝った。そのとき一氏くんの背に見える黒板はぴかぴかになっているのに気づいて、あっ、と思う。

「ごめん」
「ええからはよ日誌書けや」
「あ、はい。……あの、これ、私書いて職員室持っていくし。一氏くん、帰っていいよ」

日直の仕事はもうこれだけだ。一氏くんを残らせることはないと思って、私はそう言った。けれども一氏くんは不服だったのか、眉間に皺を寄せた。あれ。私の口調はつっけんどんだっただろうか。慌てて、一氏くん待たせるのも悪いし! と付け足した。私が日誌を書き終わるのを待つよりも、帰って受験勉強をした方が遥かに良いに決まってる。
一氏くんはここらの高校で一番の進学校を目指しているそうだ。本人から聞いたわけではないが、金色くんがその高校を受験するから多分一氏くんも、と誰かが言っていた。すごい。愛だなあ。

公立高校の受験まで、あと三ヶ月。余計なお世話かもしれないが、私は一氏くんを応援したい。

「だから、」
「もう決まっとる」
「……え」
「うちのテニス部、今年ええとこまで行ったやろ。それで推薦もらえてん」

すごい。それは、すごいことだ。とっても良いことだ。私は嬉しくなって拍手した。

「おめでとう」
「おー」

普通に入試を受けたのではちょっと危ない。そう担任に言われて推薦の話を受けたのだと言って、一氏くんはばりばりと髪をかいた。そうして日誌に視線を落としたそのうつむき顔が、ちょっとだけ笑っていた。

「でも、おめでとうだよ。一氏くん」
「……おおきに」

一氏くんはぶっきらぼうに言う。照れ隠しなのだろう。そんなところが意外で、可愛いなと思えた。笑いをとるためのありとあらゆる道具を自分で作ってしまえる彼だけど、不器用でもあるのかも。
なんだ、そんな人ならあんまり怖くない。私は途端に得意になる。シャーペンを握って、日誌に今日の日付を記入した。日直は苗字名前、一氏ユウジ。

「一氏くんて画数少ないね」
「……苗字は?」
「私? 私は……何画だろ、ちょっと数えてみる」
「画数の話とちゃうわ。苗字は高校、どないするん」
「ああ。高校ね。私はそこの女子高」

今日の授業内容を書きながら、空いている手で窓の外を指差す。私が受験する予定の高校が見えるわけではないけれど、それくらい近場だ。この中学から受験する女の子もきっと多いだろう。
そういえば、一氏くんの高校も近いねえ。
なんとなしにそう言って一氏くんを見ると、彼は私が指差した先をじっと見つめていた。

一氏くんの髪が、部分的に白くなっていた。それはチョークの粉らしく、ピンク色も混ざっている。さっき一氏くんが髪をかいた時についてしまったのだろう。
取ってあげようと思って手をのばした。髪に触れて、白くなっている束を指でなでつける。一氏くんの肩がびくりと震えたが、気にせず二度、三度髪を梳かすようにした。見た目より柔らかい。

「一氏くん、チョークの粉ついてたよ」

粉は簡単にとれた。だけどまだ手にもついているのではないだろうか。
洗ってきたら、と私が言うと、それまでずっと窓の方を見ていた一氏くんがこちらを向いた。ギギギ、とまるでロボットのようにぎこちなく首を動かす一氏くん。キツネ目がぐっと見開いている。

「え、ごめ、触るのダメだった……?」

信じられないものを見たような、そんな表情だったので、思わず手を引っ込めた。遅い後悔だ。もう触ってしまった。怒られる? だけど一氏くんは何も言わない。

たっぷり時間をおいて、一氏くんは瞬きをひとつする。初めて見つめた一氏くんの瞳の奥は、艶やかな黒色だ。

「ねえ」

ぱか、と私が口を開くと、一氏くんが突然立ち上がった。私は驚いて、ぽかんと口を開けたまま彼を見る。一体何がどうしたの。

「……トイレ」
「え、え?」

それから一氏くんは、大股で歩いて教室を出て行った。何て言ったの。どこへ行ったの。どうしたの。全然わからない。一氏くんって変な人だ。

残された私は、一氏くんの髪からチョークの粉を払った指を見た。金色くんに頼れば、一氏くんに関する謎はあっさり解けてしまうのだろう。……それはなんだか、面白くない。




2012/11/11
花森緋真さんのリクエストで「ユウジと日直」でした。タイトルは雨花さんよりお借りしています。花森さん、リクエストをありがとうございました!


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