薄い雲の中に、満月。
そんな夜。

部活帰りに見つけた後姿には、見覚えがあった。ブラウンで縞模様の毛に、長い尻尾。赤い首輪。部長の家の猫――エクスタちゃん。
「エクスタちゃん」なんて、酷い名前をつけられたもんや。俺があの猫やったら、部長の顔引っ掻いた上で家出するわ。


誰かの家の塀の上、俺に背を向けてゆらゆらと尻尾を揺らす彼女。後姿でエクスタちゃんと分かるくらいには、部長の家にお邪魔しとる。……まあ、謙也さんに引っ張って連れて行かれるんやけど。
っちゅーか猫ってこない遠出すんねんな。猫の足やったら、ここから部長の家ってかなり時間かかるんちゃうん。そう思いながら近寄ると、人の気配に気付いたんか、エクスタちゃんがこっちを向く。丸い大きな目をさらに見開く。

「……ひかるくんッ!」

涙声で、そいつは俺の名前を呼んだ。


月夜の二人



今度は俺が目を見開く番や。そらそうやろ。鳴き声に大してバリエーションの無い、日本語を話さへん生き物に、名前を呼ばれたら。俺でなくとも固まる。なんやこいつ。どうしてこうなった。

「ひかるくん!」

彼女にもう一度名前を呼ばれ、分析する事を放棄しとる頭に鞭打つ。声を出しとるんはこいつで、こいつは俺を呼んどるんやんな? 一応辺りを見回しても、誰もおらん。すると彼女は、ひかるくんに話しかけてるんだよ!と言う。
人間の行動の意図を読むやなんて、賢い猫やな。

……ちゃう。
そうやなくて。

「なんで日本語話せるんや」
「えっ、満月の夜だからだよ?」

当然でしょ?とでも言いたげに、きょとんとする。満月の夜やから猫が日本語を話すって、どこの童話やねん。

「意味分からん」
「人間だって話すじゃん」
「アホか。それは、……」

直立二足歩行と喉の構造の変化、脳の発達。人類の進化の何たるかを説明しようとして……やめた。当たり前のような顔ですらすら話す猫にそんなもんを教えたって、どうしようもない。

言葉を続けんかった俺に何を満足したのか、猫はどや顔をかました。ペットは主人に似るってほんまやな。まあ、どや顔や言うても猫やし、人間の、部長のどや顔ほど憎たらしくはないけど。

「……で、なんでこんな所におんねん。お前の家はこの辺ちゃうやろ」
「それがね、ゴンタくんに追いかけられて、逃げてたら……帰り道が分からなくなったの……」

ゴンタくんって、あれか。部長宅の斜向かいの家におる、やたらでかくて威勢のいい犬か。俺から見てもあいつはでかいのに、こんなちっこい猫からしたら脅威やろうなぁ。
彼女が、尻尾を下ろして、見るからにしょんぼりする。

猫にこんな顔されたら、誰だって、どうにかしたりたいと思うはず。塀の上の彼女に手を伸ばして、頭を撫でる。猫はおとなしく俺の手を受け入れた。

「送ってったるわ」

手を離してそう言うと、彼女はパッと顔を上げた。電信柱の街灯の下、らんらんと輝く目。毛玉が俺の腕の中に飛び込んでくる。両腕で受け止めたると、彼女は自分の頭を俺の顎にこすり付けた。

「ひかるくん、ありがとう!」

ああ、なるほど。
愛猫家の気持ちがよう分かったわ。





彼女は、よく喋った。俺が聞き取れるぎりぎりの声量で、それでも喋り続けた。
白石家の住人のこと、近所の犬や猫のこと、人間の前で話したらあかんっちゅう暗黙のルールがあること。「だから、私が話したことは誰にも言わないでね」 ……頼まれんでも、誰にも言えへん。頭おかしいヤツと思われるやろ。

ああ、それから、名前のこと。

「くらのすけくんには言ってない……というか言えないんだけどね、わたし、もう一つ名前があるの」

余程「エクスタちゃん」が嫌で、自分で名前作ったんか。
問えば、違うよ!と叫ばれた。アホ。でかい声出すな。

「くらのすけくんがくれた名前だもん。大好きだよ」
「へえ」
「へえって、それだけ!? もうちょっと興味持って聞いてよー!」
「ちょ、静かにせえや」

咄嗟に彼女の口を覆う。と、彼女はモゾモゾして、俺の腕の中から抜け出した。軽やかに歩いていく。その後ろをついていく。彼女の家のすぐ近くまで来とった。
部長は待ちに待っとるやろなぁ。『エクスタちゃん、保護したんで部長の家まで送ります』 そのたった一文のメールに、恐ろしく長い、感謝の言葉を綴ったメールが返ってきよったし。あの人、彼女ができたら束縛するタイプやな。



「名前」
「ん?」
「名前。なんていうん」
「なんだ、聞きたいんじゃん」

まるく、やわらかく、高過ぎず低過ぎない彼女の声。
名前、と、短い言葉が少しだけ空気を振動させた。

「お母さんがくれた名前なの」

ピンと立てた尻尾の先が、ふよふよ動く。玄関の前で彼女が振り向いて、くらのすけくんには内緒だよ。そう言って悪戯をした後の小さい子みたいに笑った。


玄関のベルを鳴らすと、間髪入れず部長が扉を開ける。部長は足元の猫を大事に抱え上げて、おかえり、と彼女に頬をすり寄せる。彼女も嬉しそうにしとるし、これでお役御免や。

「じゃ、帰ります」
「おん。財前、ほんまおおきにな」

小さく会釈をして踵を返す。
一歩、二歩、歩いて、三歩目。

ニャー。

背中に届く猫の鳴き声。
振り返ると、彼女がじっと俺を見とった。そしてもう一度「ニャー」と鳴く。

「財前にお礼言うとるんか?」

部長が彼女に問いかけると、彼女はそれにも短く鳴いて答えた。


名前で、エクスタちゃんで、流暢に話す猫。
次にここへ来る時には、猫缶でも買ってこようか。マタタビの方がええか。名前、お前の好きなもんは何や? 次の満月の夜に聞いたるから、答えを一つ、準備しとき。


そう、こんな満月の夜には、猫だって話し始める。




2012/05/20
このはさんのリクエストで「財前相手であとはおまかせ」とのことだったので、私の趣味を敷き詰めました。財前と猫の友情。どうでしょうか…!このはさん、リクエストいただき、ありがとうございました!


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