8-18:Recapture.―大切なもの―

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ずっと、


笑っていて欲しかったんだ。




 ハーフエルフ解放令が出たのは、本当に突然のことだった。
以前から『差別を嫌う今代の神子と姫神子が、ハーフエルフの待遇をよくしてくれるのではないか』と噂はあった。
だがそんなものはただの噂だと割り切っていたのに、それが現実のものとなったから誰もが驚いたものだ。
 ハーフエルフ解放令が出ると、ハーフエルフ達の反応は二つに割れた。
自由になったと喜び勇んで地上に出ていく者、地上に出ても生きていく術がないと残る者。
リヒターはどちらかと言えば前者だったが、研究を途中で放り出して飛び出すほど愚かではない。
アンジェラも似たような反応だった。
特に地上や自由に固執することなく、折角ならアステルを驚かせようといつものように笑っただけ。
だからそう気にしていなかったが、いざ外に出ようとすればこの様子だ。

「おい、どうした?行きたくないなら、待っているか?」

 声をかければアンジェラはゆっくりと顔を上げたが、その表情は暗い。
いや、不安げだと言う方が正しいだろうか。
彼女はいつも笑っている。
どんなときでも、人間相手に理不尽な暴力を受けたときでさえ、その笑みを崩さなかった。
その彼女が今、笑みを作ることもなく立ち尽くしている。

「アンジェラ?」

「何でもないわ。行きましょう」

 呼べば彼女は笑みを作って歩き出したが、扉をくぐった瞬間彼女の身体が強張ったのが分った。
何に怯えているのか、外に出るのが怖いのか、それとも緊張しているのか。
アンジェラが何年前からここにいるのか知らないが、リヒターよりもずっと昔から彼女はここにいたという。
それが何年か、何十年か、何百年か分らない。
歩き出したものの、アンジェラの足取りはいつもより重い。
 ふいに彼女がリヒターの手に触れ、咄嗟に振り払うように逃げる。
動揺しつつもちらりと背後を見れば、彼女は俯いていた。
固く閉ざされた唇は微かに震えているような気がして、心が痛む。
そして再び伸ばされてきた手は、今度は拒むことなく、握り返す。
リヒターの手の中で、アンジェラの細く柔らかな手は震えていた。
こんなことで彼女の不安は完全に拭えないかもしれない。
だがこうして手を握るだけで彼女が少しでも落ち着くなら、この手を放したくない。
アンジェラの緊張が伝わってきたのか、手に汗が滲んできた。
高まる心臓に落ち着けと言い聞かせながら、リヒターはアンジェラの手を強く握りしめて前へと進む。
 薄暗い階段を上り、扉を開ければ懐かしい匂いが鼻孔を駆けて行った。
辺りを見渡せば地上の階の窓からは青空が広がっている。
太陽を見るのも、久しぶりだ。
最後に太陽を見たのは、ここに連れてこられた日。
両親が死に、リヒターが捕まった日。
だがこの青空の下で両親と過ごした日々は今でもはっきりと覚えている。
 いつの間にか止まってしまった視線に、リヒターは意を決し歩き出した。
ここで終わりではない。
リヒター達にはここの建物を出る権利があるのだから。
地下から出て来たリヒター達ハーフエルフを見る目は、正直心地よいものではない。
嫌悪と畏怖が混ざった視線が突き刺さって痛い。
だがここで弱い所を見せれば奴らがつけあがるだけだ。
それにここにいるのはリヒターだけではない。
万が一の時は、リヒターがアンジェラを守らなければならないのだ。
足早に進めば、外へと続く大きな木製の扉が目の前にあった。

「行くぞ」

 この扉を開ければ、外に出られる。
緊張気味に声をかければ、アンジェラの身体が固くなったのを感じた。
この扉の奥に、外の世界が広がっている。
誰にも束縛されることもない、自由な世界が。
生唾を飲み込み、リヒターは扉に手を伸ばす。
扉は思ったよりも軽く、あっけなく開いた扉からは光が差し込んできた。

「っ!」

 びくりと震えたアンジェラの手が、リヒターの手をすり抜けていく。
青い空に白い雲、澄んだ空気。
広がる世界に衝撃を受けたのはリヒターだけではなかった。
隣を見れば彼女は先ほどまでの怯えた表情ではなく。
子供のように目をきらきらと輝かせていた。

「これが、空……」

 そっと、リヒターと繋いでいた手を空へと伸ばし、アンジェラは笑みを零す。
その笑みはいつもよりも綺麗で、また心臓が強く鳴った気がした。
だがそんなリヒターに気付く素振りもなく、広がる景色に目を奪われているアンジェラは伸ばした手をそっと胸元に引き寄せた。

「これが、風……」

 愛おし気に呟き、零れた言葉はいつもよりも甘い響きを持っていた。
彼女でもこんな表情をするのだと、驚きと共にまた鼓動が早く鳴る。
気温が高いのか、何やら頬まで熱をもってきた。

「これが、大地」

 一つ一つを確かめるように、アンジェラは屈むとそっと地面に手を伸ばした。
やはり研究者として気になることでもあるのだろうか。
何か声をかけたいような気がするが、なんと声をかければいいのか分らない。
言葉を探していると、立ち上がったアンジェラがゆっくりと一人で歩き出し、ゆっくりと駆けだした。

「これが、世界……!」

歌うような声色に、また鼓動が早くなる。
自分の心臓はこんなにも早くなるのかと驚くほどに。
それもただ早くなるわけではない。
響く鼓動は胸から全身に伝わり、体中にしびれに似た衝撃が伝わる。
自分は、どうしてしまったというのだろう。
初めての感覚に立ち尽くすリヒターの視界で、アンジェラが両手を広げてくるくると回り始めた。
まるで子供のようにはしゃぐ彼女を見るのは初めてで、落ち着かなくて、でももう少し見ていたい気もする。
本当に自分はどうしてしまったのだろう。
青い空に白い雲、青々と茂る草原ではしゃぐ彼女から目が逸らせない。
 楽しそうに笑う彼女だったが、ふいに足をもつれさせて背中から地面に倒れ込んだ。

「おい、大丈夫か!」

慌てて駆け寄って膝をつくが、アンジェラは転んだとは思えないくらい楽しそうに笑っている。
その笑顔はあどけなく、彼女はゆっくりとその笑みを贈るように手を空へと伸ばした。

「ねぇ、リヒター。世界って、こんなにも綺麗だったのね」

その笑みが本当に綺麗で、本当に幸せそうで、身体の芯が熱くなる。
堪らず口を堅く引き結んで顔を隠す様に背け、隣に座って空を見上げたがやはり心臓が落ち着かない。
彼女でもこんな幸せそうに笑うとは驚きだ。
だが、いつもの作った笑顔より、今の幸せそうな笑顔の方がずっとずっと、綺麗だ。
出来ればずっと、彼女はこの幸せそうな笑顔でいて欲しい。
いつだって、心の底から笑っていてほしい。
この幸せな笑顔を、失いたくない。
誰にも奪わせたくない。
守らなければ。
誓いに似た願いを抱き、リヒターは煩い心臓を鎮めるように胸元を握りしめた。






この笑顔を、幸せを、彼女を、


失いたくないと思ったんだ。







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