8-17:Aqua.―彼のために―

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あの日、本当の笑顔を


はじめて見たんだ。





 その日も、何の変化もない一日だった。
長年申請していた共同研究の許可が漸く下り、リヒター達も資料や機材の移動に追われていた。
そんな日の夕方、休憩がてら食堂に向かったが、どこからともなく怒鳴り声のようなものが聞こえてくる。
地上はどうかしらないが、地下研究所ではあんな声を荒上げるものは少ない。
こんな場所で騒ぐとは何者だろう。

「騒がしいね」

 疑問を口にしたのは、隣でトレーを用意していたアステルだった。
人間でありながら地下で食事をする彼は最初の頃こそ好奇の目が向けられていたが、今では彼もすっかりここに馴染んでしまっている。
慣れとは恐ろしいものだ。

「何かあったのか?」

 リヒターが声をかければ、近くにいたハーフエルフの男は顔をしかめた。
何か心当たりがあるらしい。

「いつものことだよ。地上の人間が言いがかりをつけにきたんだ。わざわざ地下の入口まで呼び寄せたってんだから、よっぽどだな」

人間はアステルを除いてこの地下に寄り付かない。
アステルと親しいリリーナでさえ、忘れ物を届ける以外に近寄らない場所だ。
そんな人間達にとって忌々しい場所に、わざわざ足を踏み入れている。
余程のことなのだろうと察した所で、リヒターはふと周囲に視線を走らせた。
いつも通り、黙々と食事をするハーフエルフ達と、それを見張る監視員。
その中に彼女がいないことに気付き、リヒターは持っていたトレーを返却した。

「見て来る」

「また独房に放り込まれるわよ」

 声をかけてきたのは、心配げな表情のエマだった。
ふっくらした彼女の隣には、ほっそりとした姉のイーラがいる。
リヒターが初めて独房に放り込まれたときのことを思い出したのだろう。
 だが、先ほどから妙な胸騒ぎがする。
今日、アンジェラも自分の研究室を片付けてくると言っていたため、朝から会っていない。
昼食には遅く、夕食には少し早いこの時間だから彼女がいないと考えるのが妥当だが、何か嫌な予感がする。
杞憂で終わればいいが、そうでないのなら呑気に食事などしている場合ではないだろう。

「問題ない」

「僕も行く」

「お前はここで待て」

 トレーを置いたアステルに、リヒターは顔をしかめた。
争いごとに彼を巻き込みたくない。
荒事になる可能性が高い以上、連れて行くわけにはいかないのにアステルは自信に満ちた笑みを浮かべた。

「相手が相手だし、僕がいた方が何かと便利だと思うけど?」

アステルの言う事は一理ある。
人間が、ハーフエルフに言いがかりをつけにきている。
そんな場面にハーフエルフのリヒターが一人で行くより、地上の優秀な研究員であるアステルがいる方が何かと都合がいいのは確か。
利用するようで申し訳ないが、彼女の為にもアステルの力を借りた方がいいかもしれない。
無理はするなよと一声かけて、リヒターは足早に怒鳴り声が聞こえる方へと向かった。
 見えてきたのは、三人の人影。
今にも手を上げそうな男と、胸倉を掴む男。
そして胸倉を掴まれ、苦悶の表情を浮かべているのはアンジェラだった。

「何している!」

 声を上げれば、握った拳に力が籠るのが分った。
まただ。
また、人間が馬鹿な言いがかりをつけにきた。
大股で近寄っていくと、こちらに気付いた男がリヒターを睨んだ。

「部外者は引っ込んでろ!警備に突き出すぞ」

そんなことは関係ない。
力を込めた腕を振り上げようとした時、ふいに腕を掴まれリヒターはつんのめった。
振り返れば、リヒターの腕を掴んだアステルが胸からぶら下げた身分証を示した。

「部外者ではありません。彼女は僕の研究チームの一員です」

地上の研究員であるアステルに見つかるのは、得策ではないと判断したのだろう。
舌打ちしながらも手を放せば、解放されたアンジェラが苦し気にせき込んだ。
後退る二人の男の不満げな表情を睨みつければ、やめろと言わんばかりにアステルに名前を呼ばれた。
怒りをぶつけるのは容易いが、今ここで問題を起こせば折角許可が下りた共同研究がどうなるか分らない。
ぐっと拳を握りしめて耐えていると、アステルは近くで一部始終を見守っていたであろう監視員に目を向けた。

「監視員は、問題が起きないように監視するのが仕事じゃないんですか」

怒っているのはリヒターだけではない。
己の責務を果たすことのない監視員を見るアステルの目は、冷たい。
彼でもこんな目をして、人を睨むことがあるのだと驚くほどに。
討論がいつの間にか喧嘩になっていたことは何度もあるが、そんなものは子猫のじゃれあいのようなものだったのかもしれない。
怒りを含んだ声に、監視員は二人の男達を連れてフロアを出て行った。
 これで一安心だろうか。
内心胸をなで下ろしていると、アンジェラが膝から崩れ落ち慌てて支えた。

「大丈夫?アンジェラ」

「大丈夫よ。いつものことだから」

心配げなアステルにアンジェラはいつものように笑うが、支えた身体は微かに震えていた。
これでうまく平常心を装っているつもりなのだろうか。
殴られたのであろう頬は赤く腫れており、それでも笑顔を作る彼女が痛々しい。

「大丈夫じゃないだろう。動けるのか?」

眉間に皺が寄る中、身体を放そうとしたアンジェラの手を握りしめる。
こんな時まで無理をして笑わなくてもいいのに、何故彼女はこうも弱い所を見せようとしないのだろう。
心配するリヒターに、アンジェラはそっと息を零しながら小さく笑った。

「あら、心配してくれるのね」

「こんな時まで、無理して笑わなくてもいいだろう」

彼女のこういう顔は好きじゃない。
作られた表情、上辺だけの言葉。
そんなにリヒター達を信用できないのだろうか。
彼女はもっと、と眉間に力が籠るのを感じているとアンジェラはそっと手を握りしめてゆっくりと口を開いた。

「本当に、いつものことですもの。彼等は何をやっても、気に入らないみたい」

諦めに似た言葉を零す彼女の笑みは悲しげだった。
垣間見えた彼女の本音に少しだけ安堵する自分と、憤る自分がいる。
アンジェラが一体何をしたというのだろう。

「とにかく、手当しなくちゃ」

ほら、とアステルに促されリヒターもアンジェラを支えて歩き出した。
引き寄せた肩は思ったよりも細く、軽い。
もう身体の震えは止まっているようだが、それでも彼女が儚く消えてしまいそうで手に力が籠る。
薬箱を取りに行ったのであろうアステルの背中を見送りながら、リヒターは唇を噛み締めた。
 研究室に戻ると、リヒターは彼女を椅子に座らせる。
そこでようやく気が抜けたのか、リヒターが自分の椅子を用意しているとアンジェラが安堵の息を零しているのが分った。
呆然とどこか見つめる彼女は、一体何を考えているのだろう。
一人にすればもう少し気が抜けるような気がするが、今の彼女を一人にしてはいけない気がしてならない。
今アンジェラを一人にすれば、彼女はまたやり場のない不安を一人で抱え込んでいつものように笑顔を作るだろう。
そんな作られた笑顔なんて、見たくない。

「動くなよ」

 リヒターはアンジェラの前に置いた椅子に座り、深呼吸を繰り返す。
少し前に覚えたばかりだが、使うなら今だろう。
アステルの薬箱を待っている間、ずっと彼女の腫れた頬を見つめるのは嫌だ。
息を整え、リヒターはアンジェラの頬に手を伸ばした。
触れた肌はあたたかく、指先を彼女の柔らかな髪がくすぐりどきりとした。
だが、こんなことで心を乱してはならない。
平常心、平常心と自分に言い聞かせてリヒターは言葉とマナを紡いだ。

「貴方、癒しの術が使えるのね」

「覚えたばかりなんだ。気が散るから黙っていろ」

 ふわりとあたたかくなった指先に、アンジェラが驚きの声を上げる。
だが会話している余裕など、治癒術初心者のリヒターにはない。
そんなことはアンジェラの方がよく知っている筈なのに、彼女は術を妨げるようにリヒターの手を握った。

「駄目よ、ここでは研究以外での魔術使用は禁止でしょう」

「うるさい黙れ」

術を止めようとしたのだろう、彼女の手を反対側の手で掴んで膝に置く。
意図せずアンジェラの太ももに触れてしまい、ざわついた胸に集中力が切れて術が途切れた。
思わず舌打ちしながらも、リヒターは目を瞑り再び意識を集中させて治療を再開した。
ここに監視員の目はない。
それに仕事をしない監視員相手に怯むことはないだろう。
 やはりまだ練習が足りないのか、中々怪我が治らない。

「そんな必死にならなくても」

可笑しそうに笑う彼女の声が、鼓膜をくすぐる。
この声は、いつもの作った笑顔じゃないのだろう。
そう思うと瞼を開きそうになり、慌てて瞼に力を込めた。

「……跡が残ったら困るだろう」

今目を開けば、また集中が途切れてしまうかもしれない。
意識を集中させながらもなんとか言葉を紡げば、アンジェラが小さく笑った。

「大丈夫よ。ここにいる限り、研究するための頭さえ動けば身体がどうなろうと問題ないわ」

この声はきっと、悲しそうな笑みだ。
表面上はいつも通りの笑顔、仮面のような笑顔だろう。
確かに、この地下で生きるだけなら研究するだけの頭があればいい。
 それでもと黙っていられなくて、リヒターはゆっくりと口を開いた。

「お前は……自分を卑下しすぎじゃないのか?」

「そうかしら?」

だが口を開けば術が消えてしまう気がして、慌てて口を閉ざす。
何度か深呼吸を繰り返した後に、意識を集中させながら再び口を開いた。

「あれは、どう考えても……あいつらが悪い。お前が耐える必要なんて、ない」

「だって、言葉が通じない豚に何を言っても無駄でしょう?私、無駄な事はしない主義なの」

 どこか楽しそうなアンジェラに少し安堵する自分がいる。
少しは落ち着いてきたのだろうか。
いつもの調子を取り戻しつつあるアンジェラにリヒターも鼻で笑った。

「そう言ってやればよかったんだ」

「そんなことしたら独房にいれられて研究が遅れてしまうわ。それに、引っ越しの準備で忙しいもの。無駄なことに時間は割きたくないわ」

確かに、今は少しでも早く研究室の準備を整えたい。
今までは互いの研究室を行き来していたが、同じ部屋で研究出来ればその手間も省ける。
資料整理も今までより楽になれば、より研究に集中できる。
これ以上はあまり問い詰めない方がいいだろうか。
 少しずつアンジェラの傷が癒えて来たのを感じながらゆっくりと目を開けば、彼女は腹部を押さえていた。
服の上からでは見えないが、あそこも殴られたのだろう。
無抵抗の者にここまでする理由が一体どこにあるのか。
やはり一発くらい殴っておいたほうが良かったのかもしれない。

「今度、ああいう事があれば大声を上げろ。助けに行く」

「あら、頼もしいわ。守ってくれるの?」

「当然だ」

顔をしかめながらも頷いて顔を見れば、彼女は綺麗な目を大きく見開いていた。
こんな風に虚をつかれたような顔は初めてかもしれない。
そんなに意外なことを言っただろうか。
彼女は人に助けを求めると言うことを知らないのだろうか。
そんなに自分は無力な子供にみえるのだろうか。
 そう考えると腹立たしく思えて、再び口を開こうと動くより先にアンジェラの手が動いた。

「初めて会った時はあんなに子供だったのに。いつの間にそんなことが言える子になったのかしら」

ふわりと微笑んだ彼女の表情は柔らかく、心臓が飛び跳ねた気がした。
いつもの作った笑みではない、嬉しそうな笑みに頬に熱が走る。
やっぱり綺麗だ、なんて言葉が浮かんで慌てて視線を逸らして首を横に振った。

「深い意味はない!お前に何かあればアステルが困るからな」

「あら、リヒターは心配してくれないの?」

「いいから黙れ!気が散る」

これ以上からかわれては心臓がもたない。
うるさい音を立てる胸を落ち着かせようと深呼吸し、リヒターは再び目を瞑るとマナを紡ぎ始めた。
腹部の方に意識を向ければ、やはり殴られたのか負傷した気配がある。
早く治さなければ、と思うのに先ほどの嬉しそうな笑みが瞼の裏にも焼き付いて消えない。

「ありがとう、リヒター」

鼓膜を揺らしたのは、アンジェラの柔らかな声。
目を開ければ、先ほどの嬉しそうな笑みを浮かべているのだろうか。
そう思うと目を開きそうになったが、またあの笑みを見れば集中が途切れてしまう気がする。
集中、集中、と自分に言い聞かせていると、アンジェラの笑い声が聞こえてきた。

「そういう優しいところ、好きよ」

「う、うるさいぞ!」

好きなんて言葉、そう簡単に言うものではない。
大切なことは、大切な時に言うべきだ。
からかわれているのだろう。
そうに違いないと言い聞かせ、リヒターは途切れた治癒術を続けた。
 






仮面を脱ぎ捨てた笑顔は


あまりにも綺麗で。







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