01:Hear.[1/1]


 目を瞑って、息を吸って、大きく吐き出して、ぎゅっと手を握る。自分の意志で身体が動くのを確認して、リンネはそっと目を開けた。開いた視界では、暗闇の中でランプの光が揺れている。あたたかな色をじっと見つめ、再び目を閉じて、頭を空にして睡魔を追う。
 けれどどれだけ追いかけても睡魔の姿は見えず、何度も繰り返した行為をやめてリンネは起き上がると窓辺から空を見上げた。少し外の空気を吸おうとかと考えて窓に手を伸ばし、隣の部屋の気配を探る。彼は人の気配に敏感だ。旅をしてきた時も、リンネがこうして眠れぬ夜に一人でいるといつも来てくれた。それが申し訳なくて、けれど今では嬉しかったように思う。彼が傍に居てくれなかったら、自分一人で抱えきれないものを抱え込み、押しつぶされていただろう。
彼の言葉が、そっと触れてくれた優しい手が、どれだけ自分を救っただろう。
 そう思うと無性に声が聞きたくなって、リンネはため息をついた。時刻は日付が変わって、ベッドに入った時間より夜明けの時間の方が近い。こんな時間に会いたいなんて、そんな我儘が許されるわけがない。彼もリンネと同じく、若しくはそれ以上に忙しいのだから。
 大人しく寝ようと決めて、窓に背を向ければ目の前に広がるのは暗闇。今日は新月のうえに分厚い雲が空を覆っているため、灯りはベッドテーブルで揺れる小さなランプのみ。暗く閉ざされた部屋は一般家庭の部屋より広いはずなのに、どこか息苦しくてリンネはエクスフィアを握りしめた。暗闇は、あの日を思い出してしまう。
 大きく息を吸って、大きく吐き出して、ぎゅっと手を握る。大丈夫、大丈夫、この身体は、リンネのもの。リンネの意志で動くことができる。あのときとは違う。今まで何度も自分に言い聞かせた言葉で言い聞かせて、リンネは窓に手をかけた。やはりここより外のほうが良い。気配を消して、物音を極力消して、静かにベランダに出たリンネは屋根に上った。こんな所を見つかったら、何と言い訳をしよう。
きっとまた心配をかけてしまう。それだけは避けなくては、と再び溜息をつきリンネは膝を抱えて座り込んだ。
 
「また眠れないのか?」

 だが聞こえた声に背筋を伸ばす。まさか、と背筋を伸ばせば彼も軽く屋根に上ってきた。まっすぐ見つめる青の瞳はどこか楽しそうで、ほんの少しの怒りを孕んでいる。早速見つかってしまったらしい。思わず苦い笑みを浮かべ、リンネは薄暗い空を見上げた。 

「ちょっと、目が覚めちゃって」

「俺さまに隠し事はしないんじゃなかったっけ?」

言ってゼロスは小指を口元に寄せた。その仕草と言葉で思い出すのは、世界統合の旅をしていた頃。イセリアで交わした約束。彼の前でもう嘘はつけない。かなわないな、とリンネは小さく息をついて視線をそらした。

「真っ暗になると……ちょっと、思い出しちゃって」

 ぎゅっと膝を抱える腕に力を籠める。あの日のことは、ラタトスクと初めて会ったときのことはしっかりと覚えている。身体を覆った黒い靄、自分の身体が消えていく感覚。死ぬのなんて怖くないと思っていたのに、死を目の前にして感じた本当の恐怖。それが今でも忘れられなくて、時折思い出しては眠れなくなるのだから情けない。

「だから不安になるっていうか、ちゃんと自分がここにいるって実感が欲しくって」

「寝るのが怖いのか?」

具体的に話さなくても、ゼロスは察してくれたらしい。申し訳ない気持ちが少し、けれどそれよりも嬉しと思う気持ちの方が大きくなったのはいつからだろう。隣に座り、近い距離から顔を覗き込むゼロスの表情は真剣そのもので、なんだか直視できずに顔をそらしてしまう。前はなんともなかったのに。

「……ちょっとだけ」

「って顔じゃねーな」

だが両手で顔を包まれ、真正面からゼロスを見つめる形になる。それだけで変に動揺してしまい、不安なんていつのまにか消えていた。やっぱり、ゼロスはすごい。傍に居るだけで、声を聴くだけで、こんなにも。

「でも、もう大丈夫だよ」

「本当かー?」

ぐりぐりと、ゼロスがリンネの頬を混ぜるように撫で、楽しそうに笑う。このままではまともに話せそうにない。リンネはゼロスの両手を掴んで止めると、そのままぎゅっとその手を握った。

「大丈夫だよ。だってゼロスが来てくれたから」

握った手のぬくもりを感じれば、自然と頬が緩む。自分より一回り以上大きい手は固くて、力強い。やっぱり男の人の手なんだな、なんて当たり前のことを考えると妙に恥ずかしくなり、リンネはそっと手を外して胸元のエクスフィアに手を当てた。もう、こうしてエクスフィアに手を当てても誰も応えない。それでも触れてしまうのは長年の癖だろうか。静かに目を瞑り、エクスフィアを撫でると幾分か落ち着き、ゆっくりとリンネは言葉を続けた。

「ラタトスクに呑みこまれたとき、死にたくないって思った。消えたくないって、もっと生きたいって、もっとやりたいことがあるって、」

指が消え、足が消え、手が消え、このまま消えてしまうかと思った。生み出されてから十五年近く死ぬために生きてきて、それが間違いだと気付いて。生きようと決めて、やりたいことを見つけて、一緒に生きたいと思う人が出来て。だから、リンネは消えなかったのだろう。
 消えなかったのは奇跡だと、精霊も言っていた。奇跡を起こせたのは、リンネの力ではない。彼がいてくれたから。

「だからね、ありがとう。ゼロスがいたから、あたしは消えずにここにいるんだよ」

旅をしていた頃から何度も助けてくれた。消えなければいけないと思っていた自分を、変えてくれた。前に進む力をくれて、生きる希望をくれた。ゼロスには感謝してもしきれない。それでも言葉にしたくて、ありったけの想いを込めて笑えば、ゼロスは小さく笑って視線を走らせた。
 何か言いたいことがあるのだろう。じっと続きを待っていると、ゼロスの視線が戻ってきた。

「そういえばさ、俺さまも一つ気になってたんだけど」

「何?」

首を傾げれば、ゼロスは再び視線を逸らした。余程言いにくいことなのだろうか。急かすことなくただじっと見つめていると、ゼロスの口から小さな息が零れた。

「ラタトスクに会いに行く前、何か言いかけてなかったか?」

ラタトスクに会う前、ということは二年ほど前の話だろう。思考を巡らせ、あの日の記憶をたどる。はっきりと覚えていないが、あの頃考えていたことは……と、考えれば一つの答えが出て。けれどそれを言葉にするのは何故か躊躇われて、リンネは視線を逸らした。

「よく覚えてない……かな」

「隠し事はしないって約束だろ」

意地悪そうな笑みを浮かべてにじり寄るゼロスに、座ったままじりじりと後退る。下がって、距離をつめられ、また下がって、更に距離をつめられる。これは観念した方が良さそうだと、リンネは視線を上げてゼロスを見上げた。

「ゼロス、前はよく抱き付いてきたりしたのに、一緒に住み始めてからそういうの無くなったから……なんでかなって」

旅をしていた頃は、すぐに手を握ったり肩を組んだり、抱き寄せてきたりしたのに、旅を終えてからそういうことは一切しなくなった。以前よりもずっと近くにいるはずなのに、何かが違う。違和感を覚えたものの、自分でもよく分らない。しいなに相談したときはそれでいいと言われたが、何がいいのか分らない。最後に抱きしめてもらったのは、ラタトスクから解放された直後。それがどんなに嬉しくて、幸せだったかゼロスは気付いているだろうか。
息苦しいくらいの腕の力も、息をすれば体中を巡った香りも、いつもより少し早い鼓動も、何もかもが嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、放したくないと思った。もう離れたくないと、そう思った。だからしがみつくように腕を伸ばして、ぎゅっと握りしめた。それから、もう一年経つ。

「気になるか?」

「あたし、嫌われることしたかな……とか」

口の端を上げるゼロスに、また視線をそらす。嫌いだ、なんて言われたらどうしよう。あり得ないことではないだろう。今まで散々迷惑をかけてきたのだから。

「んなわけねえだろ。俺さまがリンネちゃんを嫌うなんて」

「それならいいけど……」

それならどうして、触れてこないのだろう。理由を聞きたくて、でも聞けなくて、靄のようなものが渦巻く胸の中をそっと撫でる。それでも落ち着かなくて、視線を彷徨わせているとゼロスの手が伸びてきた。

「じゃ、触っていいか?」

嬉しそうな微笑みに自然と頷けば、ゼロスの手がリンネの頬に触れた。大きな手はすっぽりとリンネの頬を包み、優しく触れる指先がくすぐったくて身をよじる。今まで何度もゼロスの手に触れた。けれどこんな感触は初めての気がして落ち着かない。ただじっとしているだけが出来なくて、視線を彷徨わせ、じわじわと込み上げる何かにぎゅっと唇を噛み締める。どうすればいいのか分らなくて、何か言いたいのに、何かしたいのに、何も分らない。リンネは行き場を失い、ただ握りしめるだけの手を解いてゼロスにそっと伸ばした。

「ゼロスばっかり触るの、不公平だから」

同じようにゼロスの頬に触れれば、青い目が大きく見開かれた。続いて笑い、俯き気味のゼロスの肩が揺れている。そんなに意外なことをしただろうか。

「ゼ、ゼロス?」

「どうぞ」

声をかければ、ゼロスがリンネの手に重ねてきた。たったそれだけのことなのに、心臓が飛び跳ねて自分でも驚く。昔はよくしていたことなのに、久々だからかどうも落ち着かない。びくりと肩を震わせれば、顔を上げたゼロスは目を瞑り、リンネの手をなぞるように撫でた。

「今なら大サービスの触り放題だぜ」

おどけて笑うゼロスに、リンネはそっとゼロスの頬を撫でた。言われてみれば、こうしてじっくりゼロスに触れるのは初めてのような気がする。白い肌に、長いまつ毛、すらりと通った鼻筋。
掌から熱が伝わってきて、胸にじわりと言いようのない感覚が広がる。手を動かせば緩くふわりとした赤髪が手の甲をくすぐり、花のような香りがした。これはゼロスお気に入りのシャンプーの香だ。リンネもこの香が好きだと言ったら、嬉しそうに笑っていたのをよく覚えている。好きだと、言ったから。

「ゼロス、明日も仕事あるんでしょ。早く寝た方がいいよ」

 手を放し、リンネは立ち上がった。ゼロスもリンネも多忙を極める日々。夜更かしはよくない。ほら、と手を差し伸べればゼロスはリンネの手を取り引き寄せた。バランスを崩し、そのまま倒れればゼロスに抱き留められる形となる。以前はよくしていたこと。けれど一年ぶりの抱擁はあまりにも突然で、頭がおいつかない。

「俺さま、明日は昼から仕事だからな。もうちょっとゆっくりできるぜ?」

耳元から聞こえる声にぞくりとする。嫌な声じゃない。寧ろ、と考えたところでリンネは強引に立ち上がった。

「じゃああたしはそろそろ寝るね!」

「一人で眠れるか?」

「大丈夫!栄養補給したから!おやすみ!」

そのままゼロスに背を向けて、ベランダに飛び込んだ勢いのまま、逃げるように部屋に逃げ込んだ。もうこの部屋を出たときの不安は微塵もない。あるのは、このどうしようもないざわめきと動揺。もう少しこの心臓が落ち着いていれば、もう少しゼロスの傍に居られただろうか。触れられただろうか、触れて貰えただろうか。そう思うともったいないことをしてしまった気がして、リンネは大きく大きくため息をついた――――







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