39:畏怖されし巨体


 足場が消えた。手を伸ばしても何も掴むことはなく、迫る地面に舌打ちする。この高さだ。頭から落ちればただではすまない。それだけは避けなければと、身体を捻って体勢を整えた。何とか両足から着地したものの、その衝撃は凄まじい。両足裏から脳天にかけて衝撃が駆け抜け、息がつまった。倒れそうになるのを歯を食いしばって耐え、顔を上げる。ユーリ達は無事だろうか。真っ先に見つけた最も見慣れた姿に、ライは安堵の息を零した。

「ユーリ、動ける?」

 頷いて立ち上がる背中を確認し、視線を走らせる。ラピードも頭を振って立ち上がり、エステルとリタもよろめきながらも身体を起こしていた。カロルはまだ気を失っているらしい。まずいな、とライは奥歯を噛み締めた。

「クオォォォォ!!」

 魔物の咆哮に空気が震え、身体が震えた。あんな大きな魔物、滅多に会うことはない。会ったのは、過去に一度。脳裏に過る光景に、心臓が大きな音を立てた。あのときとは違う、あいつではないと分かっていても震えが止まらない。本能が、逃げろと叫んでいる。あれに近づいてはならないと、警鐘を鳴らしている。脳裏によみがえる光景が、呼吸さえも奪っていく。逃げなければ。ここから一歩でも遠くへ、一刻も早く。

「やべ……足、震えてら」

 珍しく弱々しい言葉を零すユーリの足は、確かに震えていた。それでも彼が剣を握っているのは、出口がないからだろう。周囲は瓦礫に囲まれており、出口は見つからない。入ってきた場所は、崩れた足場の上。逃げ場などなかった。
 それでもまだ、なんとかなるはずだ。離れたところではエステルとリタが起き上がっている。皆、生きている。怯えている場合ではないと必死に息を吸って、吐き出した。呼吸をする。それだけの動作で、額に汗が滲む。
 逃げ道がなければ、切り拓くしかない。ただただ魔物に喰われるつもりなど毛頭ない。なんとか息を整えたところで、ライは腰の短剣を抜いた。まずは、なんとしてもエステル達を逃がさなければ。

「……こんな魔物は、はじめてです」

 魔物を見上げたエステルが、ぽつりと零した。当たり前だ。こんな魔物が、そこら中に溢れては命がいくつあっても足りない。まともにやりあっても勝てないだろう。大事なのは、生き残ることだ。短剣を強く握りしめ、ライはユーリに並んだ。

「言っとくけど、仕留めようだなんて考えちゃだめよ。今はあの子達を逃がすのが先決なんだから」

「分かってる」

「バウッ!」

 頷くユーリとラピードの声に、身体の震えもおさまってきた気がした。大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせて、ライは視線を魔物に向けたまま声を上げた。

「エステル、リタと一緒に出口を探して!」

「でも、」

「あんな大きな魔物、相手にするだけ時間の無駄よ。リタと一緒に退路を探して。出来るわね?」

ただ逃げろと言っても、彼女達は逃げないだろう。あの魔物は危険だ。少しでもエステル達をあの魔物から遠ざけなければ。問題は、と視線を向けた先ではカロルが消えていた。彼の事だ。うまく逃げられたのだろう。それが賢い。

「結局ペットの面倒見んのは、保護者に回ってくるのか」

「困っちゃうわよね。最後まで面倒みれないなんて、飼い主として失格だって言ってあげなきゃ」

 軽口を叩けるくらいには落ち着いてきたのだろう。いつも通りに見える彼に、ライもほんの少し落ち着いた気がした。ユーリが頼んだぞ、とエステルに声をかけて駆けだす。ラピードも共に駆け、ライはすぐに詠唱に入った。なんとか時間を稼がなければ。

「――、ブーイング!」

 誰もが不快だと称する音が響く中、ユーリが剣を振り下ろす。その隙にラピードが背後に回って斬りつけた。あの魔物相手に、自分達はどこまでやれるだろう。術はうまく効いているだろうか。走らせた視線の先に、傷を負う魔物の姿はない。ライは息を吸い、再び詠唱に入った。

「――エナジーブラスト!」

光が弾けても、魔物は動じる様子はない。なんて固い魔物なのだろう。あの巨大な魔物にとって、ライ達は取るに足らない、虫けらのような存在なのだろうか。心臓が痛い程強く早く動く。短剣を握る手が震えていることに気付き、ライは空いた左手で右手を叩いた。覚悟なら、とうの昔に決めたはずだ。しっかりしなければ。
 ライの術ではあまり効果がない。となれば、前線に出た方が少しはまともな戦力になるだろうか。行かなければ。もう二度と、失わないために。ぐっと歯を食いしばって地面を蹴った。真正面から斬り合っても、フレンのような腕力のないライでは決定打に欠けるのは分かり切っている。

「ノクターナルライト!」

だが囮ぐらいにはなれるだろう。正面からナイフを投げれば、魔物の目がこちらを向いた。その表情に、ぞくりとする。凄まじい悪寒に足がすくみそうになるのを耐えて、ライは横に駆けた。立ち止まれば的になる。幸い、魔物の動きは俊敏とは言えない。全力で走れば追いつかれることはないだろう。前へ前へと足を出していると、魔物が大きく足を上げ、勢いよく落とした。それだけで周囲が大きく揺れ、ライは脚をもつれさせて転んだ。それでも止まることなど出来ない。そのまま転がりながらも足を立て、再び駆けた。あの巨体を崩すなら、足元だ。

「蒼破刃!」

背後に回って短剣を振りかざし、衝撃波を放つ。そのまま間合いを詰めて短剣で斬りつけ、バックステップで距離を取ると、ナイフを魔物の顔に向かって投げた。傷をつけられなくてもいい、注意さえこちらに引きつけられればいい。隙はユーリ達がついてくれる。狙い通り首をひねり、伸びて来た首を横に避けながらナイフを投げた。

「一閃!」

「三散華!」

ユーリが拳を打ち込めば、緑の術式が浮かび上がった。ユーリは術を使えない。あれは、と考えるより先に、身体が動いた。

「そこっ!」

術式目がけて、ありったけのナイフを投げる。感じたのは確かな手応え。閃光が走り、足を振り上げていた魔物が、苦悶の声を上げて崩れる。これが、先ほど魔狩りの剣の首領が見せた技だろう。だがそれは、ほんの少しの気のゆるみだった。

「まだだ!来るぞ!!」

「っ!!」

振りかぶった尻尾を避けようと思ったが、近くの瓦礫に足を取られる。気付いた時には魔物の尾が目の前にあり、ライは咄嗟に両腕で防いだが身体が大きく吹き飛ばされる。そのまま壁に叩きつけられ、躰が軋んだ。このままでは、まずい。すぐに立ち上がらなければならないのに、衝撃で身体が痺れていう事をきかない。歯を食いしばることも出来ず、視界が揺らぐ。まずい、まずい、

「――!」

優しい声が聞こえた。声が脳裏に響いたと同時に、痛みが幾分か和らぐ。助かった、と思うと同時にそれが意味することを理解し、ライは声を上げた。

「っ、エステル!?」

「わたしも戦います!」

ふらつきながらも立ち上がった所で、火の玉が飛んだ。火に弱いのか、魔物が幾分か怯んでいるように見える。術が飛んできた方角を見ればリタは帯を舞うように広げ、次の術式を描いていた。

「ここに私がいるってこと、忘れないでよね!」

確かに二人がいてくれれば心強い。魔物の目が、エステルに向けられる。怪我をしているのはライだけではない。ユーリ達の傷も癒すつもりなのだろう。白い術式の中、無防備なエステルに魔物の足が向かった。

「あんたの相手はこっち!!」

ナイフを投げるも、魔物はエステルを見据えたまま動かない。微動だにせず、ただ静かにエステルだけを見ている。ユーリの剣も、ラピードの声も届かない。だが、何故か魔物は攻撃を止めていた。まるで目の前のものを吟味するためだけに、存在するかのように。

「エステル!」

再びナイフを投げれば、魔物が踵を返した。攻撃に怯んだのではない。何も言わず、何もせず、エステルの存在を認識しただけ。それだけで魔物は瓦礫を踏みつけ、姿を消していった。

「なに…よ……」

あっけなくも思える終わりに、開いた口が塞がらない。奴の目的は一体なんだったのだろう。縄張りを荒らされ、あの魔物は怒っていたはずだ。だからこそ侵入者に敵意をむき出しにし、襲い掛かってきた。それはエステル一人の存在で、どうにかなるものだったのだろうか。そんなこと、在り得るのだろうか。

「きゃっ!」

リタの悲鳴と共に、何かが落ちていた。見ればそれは天井についていたはずの魔導器だったが、崩れた今はただの瓦礫。見るも無残な姿の魔導器にリタは悲鳴のような声を上げたが、崩れたのは魔導器だけではない。

「おい、天井が崩れるぞ!」

「急いで逃げましょう」

ここが崩れ落ちるのは時間の問題だろう。出口を目指しながら姿を消したカロルを探すが、その姿はどこにもない。やはり、先に脱出しているのだろう。そう信じて進むしかない。崩壊は待ってくれないのだから。
 息を切らせながら外に出ると、轟音が出て来たばかりの建築物から聞こえて来た。なんとか、無事間に合ったらしい。胸をなで下ろし、大きく息を吐き出すと体中が軋んだ。

「ったく、ガキんちょどこに行ったのかしら」

リタにそうねと頷いて、ライは周囲を見渡した。カロルがここから遠く離れる理由などない。近くに隠れているのだろう。

「ち、ちがうよ!」

「何が違うの!?」

 そう考えていると、カロルの声が聞こえた。もう一人の声はナンだろうか。もしかしたら魔狩りの剣と一緒にいるのかもしれない。声のした方に進めば、人影が二つ。首領とティソンはいない。二人はこちらに気付くことなく、ナンはカロルを睨みつけていた。

「やましいことがないのなら、さっさと仲間の所に戻ればいいじゃない!」

「だ、だからそれは……」

「あたしに言い訳しなくていい!する相手は別にいるでしょ……」

ナンの方はこちらに気付いていたらしい。怒り半分、呆れ半分といったところだろうか。何となく、二人が何を話していたかは分かる。バツが悪そうなカロルに軽く手を振っていると、背後からエステルが駆け寄った。

「よかった、探したんですよ」

カロルの無事を確認すると、エステルは顔を綻ばせた。安堵の息を零すエステル達に対し、カロルの表情は固い。

「まったくよ。どこ行ってたんだか」

「先に行くなら行くって言っておけよ」

「ご、ごめんなさい……」

「迷子にならなかったのね。えらいえらい」

ライは項垂れるカロルの頭を撫でて笑った。あの状況で一人逃げ出したと、後ろめたさを感じているのだろう。泣きそうにも見えるその表情に、ユーリがそっと息を零した。

「ま、怪我もしてないようだし、無事で何よりだ」

 なにはともあれ、全員無事ならそれで十分だ。誰一人カロルを責めるものなどいない。みな、分かっているのだろう。

「もう行くから」

「ま、待ってよナン!」

踵を返すナンに、カロルが手を伸ばす。足を止めたナンだったが、振り返る素振りはない。溜息だけが、小さく聞こえた気がした。

「自分が何をしたのか、もう一度よく考えるのね。でないと、もう本当に知らないから」

冷たく見える態度だが、その奥底ではカロルに希望を見出しているのだろう。本当にどうでもいい人にこんな態度をとったりしない。それでも、今のカロルには辛いものがあるだろう。唇を噛み締めるカロルの頭をユーリが撫でた。

「ちょっ、ユーリ!子ども扱いするのやめてよ!」

「行こうぜカロル」

言ってユーリが歩き出し、ラピード達も続く。ライはその背中を呆然と見つめるカロルの背中を叩いた。

「置いてっちゃうわよ」

「……みんな、なにも言わないんだね」

 ぽつりと零した言葉は、隣に居ても聞き落としてしまうくらい小さかった。あの巨大な魔物を前にすれば、誰だって足がすくんでしまう。動けなくても無理はない状況で、自分の身の安全だけでも確保した。ライにとっては、それだけで十分なのだ。

「なに言ってるの。無事でよかったって言ってたでしょ」

「でも、ボクだけ……」

みんな戦っていたなか、自分だけ逃げた。彼の中にあるのは、その後ろめたさ一点だろう。
 正直なところ、自分達は実力で生き残ったのではない。あの魔物に、見逃してもらっただけだ。何気なく後ろで組んだ手をぎゅっと握りしめ、ライはカロルを見つめた。

「私にとっての最善が戦うことだっただけよ。私は私の最善を尽くして、カロルはカロルの最善を尽くした。それぞれが最善を尽くしたから、こうしてみんな無事だった。なら、悲観することはなにもないでしょ?」

「うん……」

まだ、カロルは顔を上げない。弱い自分が許せない。かといって、己を奮い立たせるほどの勇気もない。弱い自分を嫌いながら、強くはなれない。

「カロルがやりたいと思うこと、こうなりたいと思う自分はいつかきっと成れるわよ。そうなりたいと努力すればね」

「……ボクも、ユーリたちみたいに強くなれるかな?」

「成れるわよ。誰だって最初から強かったわけじゃないんだから。私だって涙が枯れるまで泣いたこともあるし、ユーリだって、小さな魔物相手に震えたこともあったんだから」

涙を拭うふりをして、ほどいた手でくるくると小さな円を描く。ライの大げさな仕草に、カロルは薄く笑っている。信じていないのだろうが、全て事実だ。ライにもユーリにもフレンにだって、昔は何も出来ない子供だった。恐怖に震え、理不尽に成す術なく拳を握りしめたこともあった。今だって、出来ないことが沢山ある。それでも、出来ることがあるから進んでいるだけだ。疑いの眼差しを向けるカロルに、ライは向き直った。

「焦る必要なんかないわ。カロルが強くなってから私達を守ってくれればいいんだから。それまでは、これは大きな大きな貸しってことにしとくから」

にっこり笑って、小指を立てる。途端、引きつるカロルの顔にライは笑みを深めた。

「なんか、ライの貸しって怖いなぁ……」

「そーんなことないわよ?ただ倍にして返してもらうだけだから」

「こわいこわいこわい!」

ぎゅっと小指を握り込んで、指切りをする。指を解けばカロルは指をぎゅっと握りしめて顔をしかめていた。どうやらそこそこ痛かったらしい。

「でもね、勇敢に戦う事と、無謀な戦いを挑むことは違うわ。そこだけは間違えちゃ駄目よ」

死を恐れず戦う姿は、勇敢に見えるかもしれない。だが死んでは何の意味もない。大事なのは生きること、生き残ることなのだから。生きていれば、大抵のことは何とかなる。何もかも失っても、差し伸べられた手を握ることだけは出来たから。




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