鬼ごっこ
「なっ、なんで、こんなことに……」
ナンシーは建物の陰に隠れて、切れた息を整えようと努めていた。
その間も辺りに注意を配ることを忘れず、じっと気配を殺す。
「あの死神っ……悪ふざけがすぎる……!」
もう二度とヤツの遊びにはつきあわない、と決心したが、時はすでに遅かった。
次回からのことを考える前に、この状況をどうにかしなくては。ナンシーが歯がみしていたそのとき、
「見ぃつけた!」
「!」
上空から降ってくる影。
ナンシーは肩を大きく揺らし、息をつめた。そしてグレルが地に降り立つ前に地面を蹴って走り出した。
「ンフフッ、今度こそ捕まえるわよ!」
グレルの声がどんどん近づいてくる。
まずい、と判断したナンシーは足がかりになるものを全て利用して建物の上へ登った。
足で勝負するのは危険だ。隠れないと。
――ああ、もう、本当に、グレルの遊びになんてつき合わなければよかった。
認めたくはないが泣きそうだった。焦りながらも何とか物陰を見つけだし、そこに身を隠す。
事の顛末はこうだ。
デスクワークに飽きたグレルがやけにナンシーにつっかかってきたので、彼女は面倒ごとに巻き込まれないようグレルを避けに避けて、それがいつの間にか鬼ごっこをしている状況になってしまっていた。
つまり上手く乗せられてしまったということだ。
別に捕まったところで殺されるというわけでもないが、捕まってやるのは悔しいから絶対に嫌だった。大体捕まるまでの過程のことを考えても物凄く嫌だ。
この追われる側特有の追いつめられる感じは、ナンシーがこの世でもっとも嫌うもののうちの一つだ。
だから昔から鬼ごっこをしても鬼以外は絶対にやりたくなかったのに、こんな年になって追いかけっこ、しかもグレルみたいな死神に追いかけられる側に回るなんて……
本当に嫌だ。
ナンシーとしては速く終わらせてしまいたいが、やっぱり捕まりたくもない。
その堂々巡りだった。
ナンシーが物陰で息を潜めていると、グレルがナンシーがいる屋根の上に立つ音が聞こえた。
「どこに隠れたのかしら」
とても楽しそうな声だ。憎らしいくらいに。ナンシーはぎゅっと堅く拳を握りしめた。
コツ、コツ、と、靴音がこちらへ近づいてくる。ナンシーは自分の口を手で覆う。
そうでもしないと息の音が漏れてしまいそうだった。
……怖い。真面目に怖い。
だから追われるのは嫌なんだ、と、目を堅くつむる。
「ナンシー」
グレルはすぐそこまで来ている。
ナンシーは意を決して、できるだけ音を出さないように動き出した。
突然逃げ出しても捕まらないくらいに距離をとらなければ。
じりじりと少しずつ、グレルに見えないようその場から離れていく。
十分離れたと思った瞬間後ろへ駆け出そうとしたが、
「なっ」
すぐに足を止めることになる。
向こう側にいると思っていたグレルが目前にいた。離れるつもりが近づいていたのだ。そんな馬鹿な。
「このアタシを、なめてもらっちゃ困るわよ」
グレルは笑う。
ナンシーが鬼ごっこごときに「本気で」怯えていることを知ってか、いつもより嗜虐的な笑い方だ。
「グ、グレル、もうやめない? そろそろ仕事しないと怒られる」
「折角こんなに楽しいのに? 嫌よ。せめてアンタを捕まえるまでは止めない」
「……楽しいのはそっちだけだよ」
「そうよ? アンタがここまでビビるとは思わなかったケド、おかげで余計に楽しいワ」
ニヤッと笑むグレルは死神というより悪魔に見えた。
「そんなに追われるのが嫌い?」
「本当に嫌。多分私は前世でさんざん逃げ回ったあげく追いつめられて殺されたんだと思う」
大真面目に言うナンシーに、グレルは「あらそう」と適当な返事をしながら一歩近づく。
それにあわせてナンシーも一歩退がる。
「追いつめられたくないなら自分からこっちにくるのはどう?」
「……」
「それも嫌なのかしら」
「っていうか、捕まりたくないんだけど……」
「じゃあせいぜい逃げ回る事ね!」
なんでこんなにくだらない遊技にここまで怯えさせられなければならないのだろう。ナンシーは決死の思いで逃走を再開した。
どうにかしてこの状況を解決する策はないものか。いっそのことグレルをぶっとばして……無理だ。
なぜならグレルはナンシーよりも数段強い。
「……そうだ」
ウィリアムのところに行けば、グレルから助けてもらえるかも知れない。
名案のように思えたが、ウィリアムの居場所が分からなかった。立ち止まって誰かに聞くわけにも行かない。
逃げながらきょろきょろと辺りを気にし始めたナンシーに気づいたのか、グレルの声がとんできた。
「あーら、アタシとの鬼ごっこの最中に、余裕じゃない? 誰を探してるのかしら!」
「……ウィル探してんの!」
「あぁ、ウィルなら今不在よ」
「な、なんで!?」
「ちょっと厄介な仕事についてるらしいワ。その内アタシたちも増員として呼ばれるかも」
「そ、そんな……」
蜘蛛の糸が切れた。
まさにそんな感じだった。
ナンシーは角を曲がり、そのまま走ったと見せかけて再び隠れた。そうすることでグレルをやり過ごし、一度息をつく。
それにしてもこんなに激しい運動は久々だ。
「ウィルが駄目となると……」
どうするか。
とりあえず、グレルはついさっきここを通り過ぎたことだし、しばらくはこの場所に隠れていても平気だろう。
「もー嫌だ」
その場にしゃがんで、深くため息をついた。グレルはこっちの気持ちをわかってるくせに(むしろわかっているからこそか)やけに楽しそうだし、本当にタチが悪い。
「本当に嫌がってるのに……性格悪すぎ」
「あーら、誰の性格が悪いって?」
「!!」
ナンシーの血の気が引いた。
ばっと音のつきそうな勢いで立ち上がり、声のした方を見ると、そこにはたった今ナンシーの悪口の対象だった赤い死神が立っている。
「グ、グレル……」
「そろそろお終いにしましょ」
「い、嫌だ……こないでよ」
壁づたいに後ずさるが、ここから先は行き止まりだ。それを分かっているらしいグレルは尚の事ナンシーを追いつめるようにしてゆっくりと歩いてくる。
「そっちは行き止まりよ?」
駆け上がれないことはないのだが、壁登りはナンシーよりもグレルの方が上手い。そんなことをしたところで悪あがきにしかならない。
それを言えば、行き止まりと分かっていてそちらの方向に逃げようとすることも悪あがきなのだろうが、ナンシーとしては動かないわけには行かなかった。
「も、もう止めようって」
「安心なさい、どのみちもうオワリよ」
「捕まえたところでどうする訳でもないんでしょ?」
「だったら捕まったっていいじゃない」
「……っ」
容赦がない。
「……グレル……!」
「なあに?」
縋るように名を呼んでも、軽く受け流されてしまう。分かっているくせに、とナンシーは苦々しい気持ちになった。
終点はすぐにやってきて、ナンシーの背がコンクリートの壁についた。
「……っ」
こんな絶望を感じたのは初めてだった。しかしグレルはまだ一歩ずつ迫ってくる。ゆっくりと。ナンシーの恐怖を楽しむようにして。
「来ないで。本当に怖い」
「鬼ごっこ如きに大げさね。まあお陰でアタシも久々にゾクゾクしてるケド?」
ゾクゾクって。怖すぎる。
もうすぐそこまで迫ってきたグレルを目に入れたくなくて、ナンシーは顔を背けた。
「ほんと、意外な弱点を見つけたわね」
楽しげな声色で言い、グレルはナンシーの腕を掴もうと手を伸ばした。しかしその瞬間彼女は膝を折ってしゃがみ込む。
「往生際が悪いわよ」
「……」
返事はない。
怯えが頂点にきかけているのか、ナンシーは細かく震えていた。
できるだけ壁にくっつこうとして体をそちらに押しつけている。
そして絶対にグレルを見ようとしない。
「……駄目よ。そんな顔されたらもっと追いつめたくなるじゃない」
手を伸ばした先はナンシーの頬。軽くふれると、彼女は大げさに反応した。
「……今日はここまでにしておいてアゲル」
グレルはナンシーを立ち上がらせ、いたずらっぽく笑った。
ナンシーは少しの間息を整えていたが、やがていつもの調子を取り戻すと、グレルを睨んで、言った。
「もう二度とやらない」
「そんなこと言わないでよ。アンタがイジメたくなるような反応するのがいけないんじゃない」
「知らないよそんなん!」
「あんなふうに本気で逃げられたら追いかけるしかないデショ?」
「もう、二度と、絶対やらない」
唸るナンシーに、グレルは肩をすくめた。
「アンタ、いっつも怯えてればいいのに。そっちの方が可愛いわよ」
「……そんなこと言うのグレルくらいだって」
「まぁ、アタシいじめっ子だしね」
それからしばらく、ナンシーはグレルにたいして極力注意を払って対応するようになった。
END