堕落した先も雨


雨が、街全体を濡らさんとばかりに降りしきっている。コンクリートや土が湿り気を含み、雨の匂いがした。
ふいに上を向くと黒い傘越しに街路灯に吊るされた広告が目に入った。花の写真に囲まれた色鮮やかな催し物のポスターが寂しく雨に打たれていた。

この街が一番賑やかになる時期はいつかと問われれば、多くの人が初夏の今だと応えるだろう。嘗てはただの辺鄙な港町だった此処が、大都市へと発展する大きな一歩を踏み出した記念日の祭典には、人だけでなく花も色を添えるため街が一等華やかになるのだ。街の花と定められているバラは、港近くの公園には特に多く植えられ、麗しく咲き誇っており人々を魅了している。

然しこの雨では、丁度時期を迎えているバラの花も駄目になってしまいそうだと思った。
雨が降ると花は花弁に水を溜め込んで枝先が重さで折れてしまうらしい。見頃を迎えたバラにとっては、雨は厄介なものなのである。

まあただ、誰かにとっては恵でも他方には害であるなど能く在る話であろう。

「増水してるかなぁ」

立ち止まり足元の水溜りを見てひとり呟いた。脳内で自分が増水した川に飛び込む想像をしたが、水浸しや傷だらけになって行くとまるで自身が傷ついたかのような顔をする彼女が頭をよぎり、軽く頭を振って水溜りを大きく跨いだ。

彼女は最近少し甲斐甲斐しくなった。記憶が約十日毎に消えているのは確かだが、出会ってはじめの頃よりも私の自棄な行動を窘めるようになった。そして存外、自分も其れを煩わしいと思ってないから笑ってしまう。


結果からいうと彼女は異能力者ではなかった。先週行った彼女が異能持ちであるか否かを判断する企ては、少々邪な私の期待を裏切り、色気も何も無く終わった。

聞いたこともないような彼女の悲鳴で飛び起きた私に次は、前の晩と同じように枕が襲いかかった。混乱している様子の彼女は「待っ、落ち着いてなまえちゃん、これ、これ読ん、痛ッ!蹴らないで!」と一方的に攻撃を受けながらもメモ帳を受け取ってもらうことに成功すると、「記憶は保持されないか、」と小さくため息をついた。

“取り敢えず落ち着いて”と紛れも無い自分の字で書かれているため冷静に成らざるを得なかった彼女は座ったまま後ずさりをし私から少し距離を取ると表紙を開く。そして備忘録を読み進めるにつれ顔を青くさせて布団の上で土下座をするまでの一連の流れは、彼女には悪いがかなり面白かった。

記憶が消えてしまうのが異能の所為ではない、詰まり解決策も探しようがないということだった。残念だが仕方がない。

そうこうしているうちに目前に立ち聳えるのはマフィアの本拠地。晴れた青空よりも鈍い曇天がよく馴染んでいる。却説、と建物内に入ろうと歩き出した時だった。

「あ、太宰さん。おはようございます」

後ろから先程まで頭の中を埋めていた彼女の声で呼び止められ私は振り返った。彼女は何故かほっとしたような顔で小走りで近づいてくる。

「なまえ、おはよう。今日はあいにくの雨で憂鬱になってしまうね」

「慣れない道を歩き回ってしまったので靴濡れてしまいました…そうだ、この前みたいに川に飛び込むのは無しですよ。びしょ濡れのまま私のところに来るのも……」

突然彼女は言葉を切って立ち止まった。前触れも無かったため不審に思い身長差のせいから傘で隠れている顔を覗き込んだ。

「如何したの?」

目が動揺でゆらゆらとしていた。口を開けてとじる動作を数回すると

「どうして…?…私、昨日までのこと覚えてなくて、すぐ手帳を見たから気づかなかったけど…でも以前びしょ濡れの太宰さんと会ったことは書いてなくて、」

途切れ途切れに話す様子はかなり困惑しているようだった。真逆、と思った。
身体の内側から何かが込み上げてきた。

「私、太宰さんのこと、覚えてる…」

***


何が消えて何が残るのか自分でも判らない、それが一番厄介な点であった。

全て消えるわけではない。家族のことや通っていた学校の名前、長く付き合っている人のことも覚えていることが出来た。学生時代に気をかけてくれた担任の先生の顔は思い出せる。少し前まではちゃんと名前も言えたはずだ。

私の脳は自分の務めているところの首領ボスより先に太宰さんのことを覚えることにしたようだった。
しかし覚えているといっても断片的だ。さっき詰め寄って問われた「一昨日に行ったお店」やら「一週間ほど前にやったお泊まり作戦」等々は手帳に書いてあること以外は覚えていなかった。

扱いづらい頭だな、と自虐はするものの彼のことを覚えていられるようになったのは嬉しいことだ。

ひとしきり確認が終わってから、本来マフィアの建物に着き次第向かうべきであった首領ボスの執務室に向かった。そこにいた人物の顔は矢張り見覚えがなく、仕事に関係している人だから覚えた訳ではないのかと判った。太宰さんのことを覚えていたことを報告すると、彼はにこりと微笑み「それは善いことだ。私のことも覚えて貰うにはどうしたらいいかな、毎日のエリスちゃんとのティータイムを一緒に過ごして貰えばいいかな」と云って笑った。しかし何故か、じっと見つめられる視線によってチクリチクリと微細な棘によって肌が刺されているような気分だった。矢張り首領ボスのことを覚えていないということは不味かったのだろうか。

憂いからため息がひとつ溢れる。このファイルが終わったら珈琲でも買いに行こうかと思った。

「失礼します」

その声と共に扉が開いた。ポートマフィアに資料室に入るときに挨拶をする人はまず居ない。どんな人か、と思い通路を歩いている声の主に目を向けると、その人はこれまた珍しくかっちりとしたスーツを着て、どこぞの学術者のような眼鏡が印象的な人だった。
几帳面な人そうだ。恐らく先程の一言も自分の入室を知らせるためというより長年染み付いた癖といったほうが当てはまっているだろう。

こんな人もマフィアに居るのかと思った。彼は既に座ってる場所からは見えないところへ行ってしまった。私も仕事に戻るとしよう。奥の書庫の作業もそろそろ終わりが見えてきた。





棚の一番上の端のファイルを一冊取ってざっと見通すとそれを戻した。

見つからない。

この資料室は古いものから並んでいると聞いたが大凡の目処をつけたところにも求めているものが見つからないのだ。かれこれ10分はこの部屋をぐるぐるとしている。そろそろ苛つきを感じてきた。

資料課に新人が入ったのは知っている。それが有能であることも小耳に挟んだ。しかし自分がこの資料を探していたというその事実でさえ、漏れることを用心する必要がある。人に尋ねるなど出来るはずがない。それだけ危険なことをしている自覚はあった。

今まで関わった事件の報告書や資料が保管されているのだから当たり前なのだが、森の木々のような棚の中からどう探し出せばいいのかと思案していたときだった。

「なにかお探しですか?」

はっと顔を向けた。そこには手にファイルを抱えた女性が立っていてこの人が例の新人か、と思った。こう聞かれてしまっては答えない方が不自然だ。僕が部屋に入ってきたのも見られているだろうから、長いこといるのはわかっているだろうし僕の手に資料がないことが物語っていた。しかし探している資料の内容を伝えるわけにもいかない。どうしようかと内心焦る。

「いえ、その、」

「すみません、余計なお世話でしたか?ですが暫くこの部屋にいらっしゃるようなので…」

女性は困ったようすをごまかすように笑った。その顔を見て、初めて会った筈なのにその笑い方を知っている、と感じた。そして数秒してその正体に気づいた。

嗚呼、彼女が太宰君が話していた人か。

予定を合わせてもいないのに深夜にとある酒場に集まり、他愛もない話をする。それは大体無骨で、とりとめのないことだったが、四月の頭らへんから彼の口からひとりの女性の話がよく出てくるようになったのだ。所属は秘密だと僕たちに云っていなかったが、会う度に「この前はこんなことがあった」と楽しそうする彼の話が最近専らの酒のつまみになっていた。彼の言葉から、彼女への気持ちが変化していくのも第三者の立場で聞いているとよくわかるものだ。
あの少年を一切の光もない闇から日の当たる場所へ引き上げようとしている彼女が、そうか、この人か。確かに人の良さそうな笑い方をする人だと思った。

目の前の彼女の記憶が約十日毎に消えることも聞いていた。ならば今日の出来事はしばらくしたら彼女の記憶からは消えるということ。都合が良い、と云ってしまうと冷酷に聞こえるが今のこの状況では救いの手だった。

「そうですね、助かります。実は欧州で起きた事件の報告書を探していて」

「欧州、ですか。結構ありますが…何時のものでしょうか?」

「まだはっきりとわかってはいないので、ここ十数年のものを全てお借りしたいのですが…」

「そうですか、でしたらこちらですね」

そういって歩き出した彼女の背を追う。事件の報告書を探しているのは事実だが、特定のものを探している訳ではない。いつ起きた事件の報告書にもあることが“書かれていない”ことを確認するためだ。

この2つの棚がいつの、こちらが、と説明してくれる彼女を見ていると彼の楽しそうな顔が浮かんできた。その彼を裏切る行為につながることを、彼を笑顔にすることのできる人に尋ねている。

ずしりと心臓が重くなった気がした。逃げるようにそのことを考えるのをやめる。説明を終えた彼女に口を動かして「ありがとうございます」と云った。


彼女は何か返してくれたが、よく聞こえなかった。
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