天の遊戯、暮れ行く空の向こうから。
穏やかな日々というのは穏やかであるが故に残酷だ。それは永遠の彼方に過ぎ去ってから、じわじわと刹那に留まる心を突き崩すのだから。
【天の遊戯、暮れ行く空の向こうから。】
「吉野さん。それとってください」 吉野の後方を指をさして愛花が言った。場所は不破家のリビング。吉野は宿題を片付けに真広の元へ来ていたのである。 そこに珍しく加わった愛花が吉野に指示をだす。菓子を取りに行った真広がいないせいか、その口調はいつもより柔らかい。 「これ?」 「そうですよ、それです」 指と視線に従ってそれらしきモノを探し、羽の様なおもちゃを手に取る。ペン立てにあったものだ。ピンクや水色や黄色などファンシーな色合いのそれから一本引き抜けば愛花は楽しそうに笑って肯定した。 そのアイテムは、まるで。 「ねこじゃらし……もどき……?」 「ええ。可愛いでしょう」 「いや、確かに可愛いけど……」 なぜそのようなものが大量にあるのか些か理解に苦しむ。特にこれといった使用目的は思い浮かばないのだが。 「何に使うの? こんなの」 「それは勿論、ネコと戯れるのに。ねこじゃらしですからね」 「はぁ……」 手渡しながら尋ねても返ってくるのはそんな台詞ばかり。まぁいつもの事なのでそれは諦めるしかない。溜息と共に吉野はソファーに戻った。しかしそこで、愛花が今度は吉野を指差して宣言する。 「という訳なので吉野さん。その辺に寝転んでください」 「はぁっ!?」 いま、この子は何といった? 吉野は目を白黒させた。いきなり何なのだ。人の家で寝転べと? いや、それは真広の家だし今は三人しか居ないしで特に遠慮する理由もないのだけれど! でも、流石におかしくはないか。 立ち上がりこちらへ向かってくる愛花に座ったまま後ずさる吉野。 「まって、ネコをじゃらすんだよね!?」 「その通りです。何度も言わせないでください」 「いやだって僕はネコじゃないし!」 「ネコですよ、ネコ。何事に対してもいっつも受け身。全く嘆かわしい事ですが、今度ばかりはこれで勘弁してあげますよ」 受け身といいますが貴女が襲ってくるだけです。 なんて言える筈もなく吉野は引きつった笑みを浮かべる。 「何その理屈……」 「おや。筋は通っているでしょう? まぁ、かといってマヒロの様でも困りますけれどね」 さて、なんて言いながら愛花は吉野を軽く突き飛ばした。予期せぬ衝撃に吉野の体勢が大きく崩れる。そこをこれ幸いとやり包められ、吉野はソファーに仰向けで愛花を見上げる羽目になってしまった。 気のせいでなく、押し倒されている。愛花が猫じゃらし片手にニヤリと笑い、そして――。 「なぁあにをやってるんだ!?」 ばたぁあん、と激しい音を立てて開く扉。そこから飛び込んでくる金髪。 「あ、真広」 「おや、マヒロ」 「あでもおやでもねぇッ!!」 肩を怒らせて入ってきた真広は持っていたポッキーを机に叩きつけて吉野の顔を覗き込んだ。ポッキーは大丈夫だろうか。最早ボッキーになっているような気しかしない。 「なーにーを、やってるんだ?」 「嫌がらせですが?」 「い、嫌がらせをされてるらしいよ……」 「嫌がらせぇ?」 なんて事は無い、と澄まして言う愛花。乾いた笑いを浮かべる吉野。真広は両者を比べ見る。 「吉野、お前が愛花から?」 「そう。見たまんま。何が何やらなんだけど。取り敢えず真広助けてくれない?」 「いけませんよ、マヒロ。この諸悪の根源たる悪人には今こそ罰を与える時なのです。というわけで徹底的に苛めます」 「ふぅん……」 しかし助けはこず、それきり真広は黙り込んでしまった。ただし視線はこちらに注がれたままだ。痛いほどに。 とそこで、監視されてるようだと思った吉野のシャツが軽く捲られ、露出した白い肌を柔らかいものが撫でた。 「ひぁ、ちょ、何して……!」 見れば、あの猫じゃらしもどきである。愛花は悪戯な笑みをマヒロ対策の悪意十割の笑みに変えて吉野を見下す。 「罰ですよ、罰。精々反省すればいいんです。この陰険チンカスが」 「それ女の子が言っていい台詞じゃないよね!? あぅ、ちょ、やめ……っ!」 「吉野さん、今何か言いましたか? 言っていませんよね?」 「い、言って…………っ、ふぁっ!」 「ふぁ? 何ですか、人の苗字も発音出来ないのですか。これだから低脳は……」 何だこれはそういうプレイか。そうだとしても普通は逆ではないのか!? 「――まて。それは明らかにおかしいだろう」 吉野が心の中で叫ぶと、だいたい似たような事を真広が呟いた。たまにはまともな方向きに思考回路を働かせるらしい。 「どうしたんです、マヒロ。ぶすったれた顔をして」 しかし、まさか確かにぶすったれた顔をしている真広が、救出を切実に願う吉野の期待を大幅に裏切る事になろうとは。 「愛花がやるのはおかしい」 「真広…………」 吉野はその台詞にほっと方の力を抜いたのだが、 「オレがやる」 続いた台詞に目を見開く羽目になってしまった。 「――は?」 今何と? 本日何度目かの問いが頭を過る。何がしたいのだ、こいつは。目の前の真広に深い考えはありそうにない。単純に面白そうという事か? 「まだあるな? よこせ」 「まだまだありますよ。ベトベトにしても何ら問題はありせん」 「それなら大丈夫だな」 「…………何が? 何も大丈夫じゃないんですけど」 愛花のピンクにあわせて水色を引き抜きながら真広が言う。ベトベトとはどういう事だ、ベトベトとは! 吉野のは自分が冷や汗をかいていない事が不思議である程だった。明らかな身の危険を感じている。 それでも二人は本気のようで。 「いや、問題ないだろ」 「問題ありませんよ」 「僕の人権は無視?」 「あなたにそんなものは初めからありません」 「ひど…………」 項垂れる吉野に愛花はそっと笑みを送ってから窓の方を振り返った。 「綺麗な夕焼けですね」 「そ、そうですね」 そして唐突にこそんな事をいう。確かに夕暮れの空は紅くもあり、赤黒くもあり、黄昏の橙と暮れ行く青を抱いて空を染め上げていた。 「まるでこれから流される血に空が歓喜しているみたいで」 しかし感想がこれである。そんな愛花に吉野はやはり口元を軽くひくつかせ。 「いやそれ僕死ぬよね?」 「あ? 吉野は殺しても死なねぇだろ」 そこに真広まで便乗してくる。吉野は真広を一睨みしたが、既に遊ばれた後の状態からの上目遣いにどのような効果があったのかは定かではない。 「真広はいい加減僕に殺されたいのかな」 「出来ると思ってるのか?」 「出来ないと思ってるの?」 「――はい、そこまで! さぁ、始めますよ!」 お互いがお互いを揶揄する会話に愛花が割り込む。 「結局僕の意見は無視なのか……」 「だから、初めから意見を言う権利なんて無いんですってば」 そうでした。諦めの溜息をついた吉野に二人が詰め寄る。満面の笑みと猫じゃらしもどき。二対のそれは吉野の前で振り上げられ、そして。 「という訳で吉野」 「という訳なので吉野さん」 ――覚悟っ!
エノコログサが風に吹かれて揺れる。猫じゃらしの異名をもつそれが立てる微かな音と小さな水音、それからカラスの物悲しい鳴き声だけが彩る静かな土手。昏く鮮やかな夕焼けを映して穏やかな水面が煌めく様を見下ろす。 そんな場所に、二人きりで。 「……吉野」 「なに、真広」 「…………」 徐に名を呼ばれ問うも、返ってくるのは沈黙のみ。隠していた事実、愛花の彼氏が明るみになり、和解のようなものもした。それでも気に食わない事はあるのかもしれないし、それは吉野が大口を叩けるようなものでもない。こちらから具体的に聞くのはどこか憚られた。 そう思いつつも吉野は後ろを歩く真広を振り返らない。足も止めない。 「意外、だった? やっぱり殺しておく?」 「…………そうじゃ、なくて」 「なら、何」 ただそれだけを聞くと、真広は歯切れ悪く否定した。 立ち止まる真広に、今度は吉野も立ち止まる。真広は絨毯をつくるエノコログサを指差して。 「これみてて、思い出してた。ねこじゃらし。いつかお前で遊んだ事があっただろ」 「あぁ……あれは散々だった」 遠い目をする吉野と、遠い色を浮かべる真広。 「あの時、何だか無性にイラついてて。愛花絡みだったんだろうなって思うのに、何故か今でもそれじゃ落ち着かねぇ……」 「…………」 「もっと、何か別に、求めるモノがあるんじゃないか、って思っちまう」 真広の瞳が、真っ直ぐに吉野のそれに合わされる。 「……吉野」 「……なに、真広」 その吉野の肩に片手を置き、 「な、なんだよ? 殴るなら宣言してか――っ!?」 空いた手を顔の方へ持ってゆき―― 「ん、……っふぅ、……くっ!」 桃色の薄い唇に己のそれを、押し付けた。吉野がぎゅっと目を瞑る。 「ぁ……、ふ、はふっ! ――ぁ、」 真広は強引に舌を捻じ込んだ。逃げるそれを追い掛けて執拗に絡める。 そうすればそうする程に満たされる気がして、しかしそうすればそうする程に暗闇もその色を濃くした。 「ま、真広!?」 「…………」 解放され、真っ赤な顔で溢れかけた唾液を拭う吉野を見つめる真広。 「真広は……真広は、」 その真広に吉野は潤んだ目で、 「僕を、どうしたいんだ……?」 そう問い掛ける。しかし真広は答えを持っていない。 「そういうお前は、どうなんだよ……?」 「わから、ない……」 「オレだって、わからない」 吉野だって、持っていない。 真広は何事も無かったかように視線を緑に移す。 「この雑草はこんな呑気に生えてんのに、オレらだけが変わっちまった。オレらは変わらないのに、愛花だけがいなくなった」 「…………」 「理不尽だ。なら、オレらの存在そのものもまた理不尽なのか? この世の不合理を嘆くこの身そのものが理から反しているが故に、こうも」 「安息から疎外されるのか」 静かに吉野が言葉を引き継いだ。烏が終わりを告げるかの如く鳴く。それは物悲しく、静けさを何処までも強調するどこか空恐ろしい声音。 「お前はあの時、俺を殺せない事はないと言ったな」 「断言はしてないけどね。そうはなるかな」 「オレは絶対、お前を殺せる」 「……だろうね」 「愛花殺しの犯人がお前だったとしたら、オレは迷いなくお前を殺すだろう」 真広は己の指を心臓へともっていき、 「だがその時はきっと――」 ここが、痛い。そう、叩く。 「分かるか、吉野。お前を躊躇いなく殺せるのに、痛いんだ。軋んで嫌な音をたてるのが、もう既に予想出来ている」 その言葉に吉野は一歩真広との距離を詰めた。 「そんなのは、僕だって、同じだ」 理由も分からないのに、痛い。 応えるようにそちらからも一歩踏み出す真広、しかし音に乗るのは拒絶のそれ。 「同じ? それはない。この不可解な軋みがお前に聴こえる筈なんてない。ましてや理解? このオレ自身ですら持て余すものを」 心が、終わりを告げるかの如く泣く。空の色は紅く、赤黒く。橙でもなければ、青くもない。 「吉野。もしもの時はオレに殺されろ。そして決して、殺されるな」 真剣な瞳と、同じ色。 「なんだよ、それ……」 エノコログサは、戸惑う瞳と、同じ色。 「オレ以外の奴から傷付けられるのは許さない。結末が悲劇であるなら、お前はオレだけを見て、オレの手で終わる。そうすればきっと、きっと」 「真広……」 きっと。きっと、どうだっていうのか。吉野の翡翠が、夕焼けの赤を混ぜて揺らめき。 「真広は、僕と、どうなりたいんだ……?」 「――っ!」 吐き出された台詞に真広は身を強張らせた。その台詞は、いつか妹に言われたもの。そして今の真広は、それの持つ意味を知ってしまっていたから。 「なんでも、ない。忘れてくれ」 だから、そうはぐらかすしか無かったのだ。
誰が好きで、誰が嫌いで。何が道理で、何が外れているもので。世界は常に願いと反比例する。それは一見条理に沿っているかのようでいて、何処までも不条理なもの。
本当に求めるものとは、一体何であったのか。
言えない言葉と言ってはならない言葉。開けてはならぬパンドラの箱。声に出せず、空に哭く。
あぁ、なんという因果か。気付いてはならぬ気持ちを気付かぬものと装って蓋をした。歪に紡がれるハムレット。 吹き荒ぶ風に揺れるエノコログサとおなじもの、猫を翻弄するエノコログサが同じもの。一度対象になればそれまで、運命に弄ばれるのみ。
右へ左へ、思うがままの猫じゃらし。気紛れに振られる幸福。弱い人間は不恰好にもただ手を伸ばすしかない。伸ばしては触れる事も叶わず引き上げられ、満たされない空虚な塊だけを飲み下すのだ。
紅く染まる夕暮れ。それはこの先の悲劇を彩るそれか、否か。 どちらにせよ決して戻る事のない日々は、新たな傷を刻みつつ膿んでゆく。 変わってしまったものと、変わらないものと、変わりゆくものと。過去という傷痕は絶妙なコントラストで現在を染め上げていた。
天に響く樹木たる神の産声。あげる事の許されぬ二人の赤子の泣き声。 これならいっそ幸せなど知らない方が良かったと、そう願ってしまいたくなる程に。
穏やかな日々というのは穏やかであるが故に残酷だ。穏やかさを得てしまったから、もう何も持たなかった日には帰れない。還れない。 あぁ、響く音はどんな悲劇より痛烈な。
それは永遠の彼方に過ぎ去ってから、じわじわと刹那に留まる心を突き崩すのだから。
end*
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