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追憶に捧ぐ音色




アルス・セルティスは、大きな榎の木の下で暮らしている。
 正確に言うと、そこは小さな診療所だった。ベントブランチより少し南に下った森をさらに分け入って、どこから来たのか分からなくなる頃、木々が遠慮したように急に僅かひらける。円形の野原、その中心を陣取るように大きな榎が聳え立っているのだ。その姿はどこか神々しく、青々と茂る木の葉は何故かあまり虫に食われていない。エーテルを蓄えて通常より何倍も大きく育った、その榎の根に抱え込まれる様に建つ古い木造建築。それがアルスの生家である。
 残念なことにその診療所は、歩くと床が軋むほど老朽化が進んでいた。風が吹けば飛びそうで、文字通り榎にしがみ付いているような状態である。人が住めなくなるまであと僅かと思われた。
 しかしそこはアルスにとって、また、そこに身を寄せるものにとって、どうしても失うわけにはいかない場所だった。一階が診療所かつ身寄りのない子供たちの生活の場となっており、二階がアルスと両親の家だ。生活に余裕はなく、ここがなくなればもう行き場がない。
 なんでも、何代か前の先祖がそこに小屋を建て、それ以来素人手で補修を繰り返してきたのだそうだ。イシュガルドで学んでいたミコッテの占星術師が、つらい修行に耐えきれず黒衣の森まで逃げてきて、そのまま隠れ住みつつ、貧相な占星術の知識を医療に活かし始めたのである……と、伝え聴いている。実際のところどうかは、もうよくわからない。
 だがその痕跡を残すように、二階の奥には手入れされたイシュガルド正教の祭壇が、ひっそりと息づくように存在する。そのすぐそばの天窓からは、木の葉の隙間から満天の星空を臨むことができた。
 ところで、アルスは占星術師で、サンシーカーのミコッテ族だ。柔い黒髪の先は花緑青、瞳も同じ光を宿す。
ついでに父はサンシーカーだけれど、母はムーンキーパー。直系の血筋は母のもので、アルスは小さな牙を持っていた。
 なにはともあれ、アルスは部族から遠く離れ、占星術を継いで姓に榎を名乗り、密やかな診療所で穏やかに日々を過ごしていたのである。
 そう、この日までは。






「こんにちは〜、納品に来たよ!」
 アルスがいつものように自室で読書をしていると、玄関扉のノックと共に、穏やかなララフェルの声が響いた。二階の窓から身を乗り出して確認すれば、見知った少女と目が合う。姉貴分のエリィだ。前にあったのは数ヶ月前。
 今日は何か約束していただろうか。予定を思い返しながら挨拶を返す。ええと、そういえば、薬の納品日だった。
 訪ねてきたエリィは冒険者で、アルスが生きる「この世界」ではそれなりの有名人である。重なり合う世界の重ならない部分で英雄と呼ばれる彼女には、ハイデリン――クリスタルの加護があり、思いもよらない所でその力を発揮する。
 例えば腕力。今日の彼女は背中に身の丈ほどの杖を背負い、木箱を一つ抱えている。横には身長の倍ほどの高さまで同じ様な木箱が積み上がっていた。四隅に打たれた金具がこれまた重そうだ。
どうやってここまで運んだんだろう……まさか抱えてスプリントしてきたんじゃ、などと考えていると、二つ年下の姉が見透かしたようにこちらへ手を振った。
「アルスー、これ、入ってすぐの備蓄庫でいいかなー?」
「ええと、それは」
 声を出したところで、隣からひょいと母が立ち上がり窓に身を乗り出す。小柄な母はもうそれだけで落ちてしまいそうだ。アルスが小さいのは確実に遺伝だと思っている。
「はーい! ちょっと待って。アルス、手伝いお願いね」
 アルスが頷く間もなく、母がまろぶように慌てて階段を駆け下りていく。その際つんのめってカーペットが引きつり、隅に避けてあった洗濯籠が倒れた。
 それを起こして一つため息をつく。おそらくこれをもう一度畳み直すのは自分の仕事になるだろう。母は恐ろしく不器用なので。
 それはそれとして、アルスもまた読んでいた本をきちんと棚にしまい、母を追いかけた。立ち眩みのせいで同じ個所で躓きかけたのだけれど、それは秘密にしておこうと思う。あまりに格好がつかないのだもの。
そのまま一階へ降り、診療中の父に軽く挨拶をした。彼の眉がぴくりと上がる。顔色を見咎められたのだ。ふふ、わかってる――でも、大丈夫。今日はそんなに体調も悪くないよ。本当に、本当。
 そしてその先で。
「――えっ、エリィ、ほんとに?」
「なにが? ほら、ちゃんと全部揃ってるよ。ここから、あそこまで。アルスも数えてよね」
 多少時間がかかったとはいえ、だ。たどり着いた備蓄庫ではエリィ一人で荷運びが終わっていた。あまりにも早い。本人はとても涼しい顔をしているが、一体どんな身体構造をしているのだろう。
 そう言うと、エリィは小首を傾げて宣った。
「クリスタルの加護だよ」
「なんでもそれで片付くと思わないで欲しい」
「くらえハイデリンアタック」
「ん……っ! ちょっと、もう!」
 真顔のエリィから繰り出された小さくも恐ろしく重い拳が、華奢なアルスの脛に直撃した。熱を持って痛む――先程も思ったが、確実に術師の腕力ではない。
「あの、モンク取ってなかったよね?」
「新式にクリティカルをフル禁断してるんだ〜。よかったちゃんと効果出て」
「頼むから身内で試さないでくれる?」
「はいはい」
 柔らかな声を低く曇らせ呟くアルスに対し、エリィが雑にソラスを飛ばしてくる。悲しいことにそれで全回復した。
「いまので溜まったやつ」
「君って僕の事なんだと思ってるの……」
 そんなやり取りをしているところに、帳簿を持った母が現れた。途端、エリィの顔が大人しくなる。できる冒険者の風格を醸し出す彼女を他所に、アルスは額に手をやった。
「あら、こんなにたくさん……! ごめんね、ありがとう」
「いいの、おばさん、気にしないで。私にできるのってこれくらいだもん。……それにしても、随分たくさんポーションが必要なんだね。去年のこの時期より多いんじゃない?」
 エリィが、ララフェルには大きすぎる木箱を爪先立ちで覗き込んで言う。箱には几帳面に並んだポーションがぎっしりと詰まっていた。本当にこれを一人で運んだとは思えない。アルスには腕力がないので、同じ仕事は不可能だ。
全く以て、本当に敵う気がしなかった。アルスはエリィを極力怒らせないよう努めている。少なくとも、自分の信念を曲げる事にならない限りは。アルスにとってのエリィは、きょうだいのようであり、同時に取引相手であり……正直なところ榎家はエリィに生活の大部分を助けられているので、頭が上がらないのだった。
そんなエリィに、母が困った顔で頷く。
「ええ、今年はここらの森の主の討伐に手間取っているみたいで。逃げ遅れて親に捨てられた子供や、ここまで逃げてくる兵士や冒険者がたえないのよ。ほら、戦のほうに人手がとられているでしょう?」
「え! 知らなかったな……私が原初世界を離れている間にそんな事になってたなんて。それだったらまだ必要かな。追加で持ってこようか? ハイポーションのほうがいいかなぁ」
「そういうわけにはいかないわ、今だって無償で譲ってくれているのに」
「それは本当にいいの。お世話になったお礼になればと私が勝手にしていることなんだから。それに材料は全部この周辺で採れるんだもの、製作費もかかってないんだよ。それなのにお代なんて貰えないよ」
 頭を下げる母に、逆にエリィの方が両手を振ってさらに頭を下げ始めた。その様にアルスはため息をつく。もう、いつもこうなるんだから。
 これについては、どちらの言っていることも事実だ。捨て子のエリィはウルダハで拾われて以来、五年間この診療所で暮らしていた。エリィがそれを一生の恩と思っていることをアルスは知っている。一方で、賢く好奇心旺盛な幼いエリィが勝手に始めた採集・錬金家業が、傾いていた榎家の財政を大幅に立て直したのも事実なのであった。
 そして実際に今もまだ、独り立ちしたエリィは傾き続ける榎家に援助を続けている。
「ほら、二人ともそれくらいにしておこう?」
 本当に、仕方のない。アルスは遠慮に遠慮を重ねる二人の間にそっと割って入った。
「母さんもエリィの気持ちを汲んであげて、エリィは母さんのこと大好きなんだから。エリィも、母さんが好きならあまり困らせないであげて」
「うぅ……分かってるんだけど、なんとかできる現状を前に何もしない事なんて出来ないよ」
 それも分かってるよ、とアルスは頷く。エリィのこういう性格が彼女を英雄たらしめているのだろう。だがしかし、それはそれ、これはこれである。良い落とし所がないかとアルスは首を捻り、それからぱふりと手を叩いた。
「そうしたらエリィ、また別のエリィしか出来ないお願いがあるから、それをきいてくれるかな。実はこの後頼もうと思っていたことがあって」
「別のお願い? いいよ! なんでも言って!」
「榎の木の健康診断なんだけど。最近あまり調子が良くなさそうだから、見てあげてくれる?」
 それはここ最近のアルスの悩みだった。長いこと榎家を支えてくれているその木だが、最近感じ取れるエーテルが弱々しくなっているのだ。エーテルを分け与えてもらっている身としては一大事である。使いすぎによるものか何か他の事が作用しているのか、きちんと見定めておかねばならない。
 この家で一番強い力を持っているのはアルスであるが、そのアルスでもこの違和感を確信に変えるには少々不安がある。自然の世界のエーテルを感知することにかけては、占星術師よりも白魔導士の方が良いだろうとアルスは判断した。
 アルスは占星術は得意だが、白魔法はそうでもない。一方エリィならば両方こなすことが出来る。グリダニアの白魔導士は自然と向き合う仕事なのだから、エリィがの方が適任だと言えるだろう。
「わかったよ、任せて! アルス、榎にエーテルを返すから水瓶を持って来てくれる? 昨日もよく晴れて満月だったし、ちょうどいいと思う。今日は外でやろうよ」
 アルスの要請を受け、エリィが窓の外を確認する。確かにここ数日の気候は穏やかで、今日も気持ちの良い秋の晴天だ。祭事を執り行うには都合が良かった。
 エリィの言う水瓶はいつも二階の祭壇に置いてある。陽光と星光を浴びた聖水がそれだ。アルスは更にそこへ、毎日少しずつ自分のエーテルを注いでいた。その聖水をほど良い頃榎に捧げるのだ。
 これはアルスの先祖が榎を祀るために独自に始めたことであり、実際のイシュガルド正教とは何の関係もない。
「ん。ならエリィ、動かす前の祈りを一緒に頼める?」
「うんうん、勿論だよ」
「ならさっそくい――んぅ!?」
「びっ」
 そう言うや否や駆け出そうとした二人は、踏み出した途端に喉が詰まり悲鳴を上げた。首元の衣類が食い込んでつんのめる。何事かと振り返ると、鬼の形相の母が居た。二人揃って首根っこを掴まれたのだ。こういう時ばかり要領がいいから困ってしまう。
 その母がずいとアルスに顔を寄せた。唇は弧を描いているのに目が笑っていない。
「アールースー? あなたお昼ご飯まだよねえ? またご飯抜くつもりかしら。この間倒れたばかりなのは誰?」
「え!? アルスまた具合悪いの?」
「……そんなこと、ないよ。僕は普通、いつもと同じ」
 地を這うような母の声。慌てふためくエリィ。母はわざとこの状況を作り出したのだ。小食で殆ど食事を摂らないアルスに対し、母が苦労をしているのは分かっている。分かっているけれど、受け付けないものは、仕方がなくて。
 この体が生まれつき弱く、何から何まで生存に不向きな体質であることを、家族皆が相応に理解しているのだけれど。
その現実すら捻じ伏せ無理にでも食卓に着かせたいとき、より都合の悪い現実が一番効果的だと母は知っていた。アルスがそこに嘘を重ねることを確信しているのだ。その証拠に、やることはやったと言わんばかりに背中がキッチンへと消える。
 こうなればもう逃げ場はない。諦め、周囲を安心させるために顔の前で軽く手を振った。
「ちょっと眩暈がするだけ、だから。病気になった訳ではなくて、いつもと一緒。だからほら、気にしないで?」
「日常的に眩暈がするのは病気なんじゃないかな?」
「うちの備品の四割を一人で使う虚弱体質で、一体なにを言ってるのかしら?」
「えぇ……?」
 しかし言い訳に間髪おかず訂正が入る。エリィが真下から、母がお玉を片手に。アルスは曖昧に微笑んだ。これに関してはなんとも返答し難い。嘘の向こうの事実が明らかすぎるから。
 たしかに昔から、眩暈がしたり頭痛で動けなくなったりすることが多かった。血を吐く事も珍しくはない。ここ数年は特に酷く――家の中にいる時が、一番顕著だ。
 傍から見れば確かに怖いのかもしれない。突然青い顔で蹲るのだから、安静にさせたい気持ちも理解できる。それでも、これは病気ではなく、療養で完治など決してするものではない。そして知れば彼らは嘆くだろう。だから隠す。
 自分が穴の空いた水瓶だなどということは。
「ねえ、エリィだってよくあるでしょ?」
「あれは超える力」
 真顔で答えるエリィに、似たようなものだよと返す。エリィの頬がぷくぅと膨らんだ。これはまた拳をくらいそうだ。
 そんな彼女の頭を一つ撫でて、アルスは母の手料理をテーブルに並べはじめた。今日はオムライスだ。オムライスはエリィの好物で、彼女が来る日は高確率で食卓に並ぶ。
 運び終えたところで食卓横のサーバーに向かい、マグカップに黄色い液体を並々と注いだ。それを一息に飲み干して更に注ぎ直し、席につく。目にも鮮やかなパイナップルジュースだ。これが好物ではないことに、エリィだけは気が付いているだろう。誤魔化せるなんて思っていない。それでもなにも言わない彼女にそっと感謝し、席を勧めた。
「ほらエリィ、昔みたいに二人で食べよう?」
「アルスってほんとずるい大人になったよね」
「そんなことないよ、まだ十八だし」
 エリィはまだ不満そうだが、それ以上の追求はなかった。二人だけの食事が始まる。子供たちは奥の部屋で、父は診療中だし、母はキッチンでデザートの仕上げに取り掛かったようだ。この香りは、得意の木苺パイだろう。
 オムライスにはブロッコリーとトマトが乗っていた。目にも鮮やかなとろとろの卵をスプーンでかきあげて頬張り、エリィの頬まで溶けていく。アルスもそれに倣った。今日もチキンライスと卵の割合が絶妙だ。母の料理より美味しいものをアルスは知らない。
「母さんのオムライスなら、うん、僕も量を食べられるかも」
「それならよかったわ。無理のないくらいでいいからね」
 ぽつりと呟いたところで、すかさず母の頭がカウンターから飛び出す。それが気恥ずかしく、同時にあたたかい。
「ん……、ありがと。僕にとってこれは、家族の味で、本当に冗談とかじゃなくて、ずっと守りたいもの、だから」
 その先が言葉にできず、控えめな笑みでごまかした。そんなアルスに気が付いたろうに、けれどエリィが軽やかに笑う。
「私もそう思う! カモミールティーも美味しいよ」
「ありがとう二人とも。ほら、デザートもあるのよ、だから、また冒険の話を聞かせてちょうだい」
 母がデザートの乗ったお盆を手にダイニングにやってきた。やはり木苺パイだ。木苺は榎の向こう側へ少し行った場所に群生していて、昔からよく摘みにいくのである。
 彼女が来た昼はこうして食事を取り、その冒険譚を聴かせてもらう。それは榎家共通の楽しみなのだ。
「なにか景色のいいところはあった? 絵に描いてくれたりするでしょう、いつも楽しみにしているのよ」
「ほんと? 嬉しいな。そうしたら、お花で可愛く飾り立てられた――の街なんてどう?」
「まあ、それはいいわね。是非見せて」
「これこれ。ここが――て言ってね」
 デザートをそっちのけにして母とエリィが盛り上がる。その様子をアルスは穏やかな気持ちで見つめていた。
 母はエリィの冒険譚を聴くのがなによりも好きだ。母は榎木家の直系であり、この家系は基本的に体が弱い。その程度は人によるが、アルスも母もその例にもれなかったのである。
 幸いにもアルスには普通に過ごす分には問題ない程度の体力があるが、母が出歩くことは少なかった。その分、あちこち飛び回るエリィの話に興奮するのだろう。
「あら、これも素敵ね。森だけどこことはだいぶ雰囲気が違うみたい」
「ここはちょっと熱帯なかんじだったなぁ」
「この岩とか見たことがない模様が刻まれているわね!」
「そうそう、これは――ていう文明の」
 止まらない二人に相槌をうちながら、アルスはそっと頭を振る。今日もエリィの台詞の一部が耳に入ってこない。エリィの言う言葉の、主に名詞にあたるであろう所が抜けていく。昔からよくある事で理由も分からないが、今日は特にひどい。
 聞き漏らさないように意識を集中すると酷い頭痛に見舞われるので、アルスはもうその点については諦めていた。
「ほらアルス、ここなんかアルスも好きそうだよ」
「ん、どこ?」
声をかけられて端末を覗き込む。しかし見つめた先はまるで像を結ばず、ただ曖昧にぼやけていた。
「ええと……、うん、そうだね」
だからその曖昧さでゆるく頷く。エリィは分かりやすく顔を顰めた。やはり彼女は何かを見透かしている。
はあまったく、と彼女は大仰にため息をついて見せた。
「アルスってば引き籠もってばっかりなんだもの。その気になればいつだって見にいけるのに」
「そうは言っても、そんな遠くまで行く手段もないし」
「アルスの嘘つき」
 エリィがアルスを睨む。アルスはまた曖昧に笑った。どうにもできない。
 何が嘘なのか心当たりはないが、あまりよくない流れであることは分かった。エリィはアルスの何かに怒っている。もう戻れなくなっても知らないよ、という彼女の呟きがやけに大きく聞こえた。穏やかな空気の奥底に押し込められた冷ややかな鋭さを、実はアルスはもうずっと感じているのであった。
 その理由を、本当は知っている。戻らねばならない。
 ――戻る。どこに、いつに……誰が。僕だって、戻れるのなら戻りたいのに、けれどねえ、戻りたく、なんか。
ぱきりと頭痛が走り抜ける。だめだ、これ以上の思考はゆるされない、だから、もう。
 アルスは逃げ場を探して、目下のパイを頬張った。木苺の甘酸っぱい匂いが広がる。ああ、とアルスは息を吐いた。
 ――思い出はいつも、甘酸っぱい匂いがする。
 しかしそんな空気を微塵も察することのない母が、無邪気なまでの能天気さでアルスに話を振る。
「そうよアルス。貴方も昔から大人しいとはいえ男の子だし、いい加減冒険のひとつもしてみたいんじゃない? そういう時は遠慮せずいいなさい」
 気付けば、父もまた此方の様子を伺っていた。浮かべた笑みが苦笑に変わる。全くみんな、心配しすぎだよ。
 結果がどうであれ――はじまりが、どうであれ。この道を選んだのは他でもない、僕自身だ。
「あのね、僕は我慢して此処にいるわけじゃない。ここが気に入っているし、父さんと母さんの仕事も誇りだと思う。このまま勉強をして跡を継ぎ、皆で変わらず過ごせるなら、それが僕の一番の幸せ、だから」
 だから守るよ。僕がこの夢を、ずっと、ずっと。醒めないように。この命が、尽きるまで。
 声に出さぬ誓いは胸中へ押し込めて、また静かに微笑んだ。するとほら、母の目が潤み、父が音を立てて椅子をひく。二人してこちらに向かってきて、もう、仕事があるんでしょう?
「まあ、アルス!」
「アルス……!」
「んうっ、締めすぎだから……!」
 抱きしめられ息が詰まるが、気分は悪くない。アルスは家族が好きだ。少々そそっかしいが明るい母と、寡黙だが優しい父。誇らしく素晴らしき家族。
この家の存在意義の半分が、体の弱い榎直系の療養の為にあることも実は分かっている。そのうえで誰かのためにと毎日働き、時に木陰で休む穏やかな日々。
 アルスの全てがここにあった。満ちる優しさは陽だまりと相違ない。いずれ自分も器にそれを満たすだろう。この幸せだけは何としても守り抜かねばならない。
 そんなアルスを、エリィだけが悲しい目で見つめている。





 食事を終えてしばらく。ようやく歓談に一区切り付いた頃を見計らい、アルスは席を立った。消化に労力を割いた体は重いが、まだ一仕事残っている。
 窓から空を見やれば、ほんのりと橙を帯びて雲が漂っていた。夕刻への足音が聞こえて来る時間である。
「エリィ、そろそろ大丈夫? こうしているのも楽しいけれど、もう日が落ちてしまう。秋は一瞬で空模様が変わるから、やるべき事は先に済ませておかないと」
「わぁ、もうそんな経ったの。そうだね。森側まで行くし、暗くならないうちにやろうか」
 同じく空を仰ぎ見てエリィも頷く。森側というのは文字通り、森の入口のことである。榎の木の正面側に家があり、これは辛うじて街道側を向いている。一方、家の裏である森側には古いピアノがあり、アルスはよくそこで一人の時間を過ごしていた。アルスは榎に感謝を込めて演奏し、聖水を捧げる。とてもささやかで穏やかな儀式だ。
 その森側はそのあたりを境に深くなる為、力無いものが夜出歩くには少々危険なのであった。
「それじゃあ、行こう。まずは上で支度をするね。エリィもくるでしょう?」
「行くよ〜。運び出しも一人だと往復することになるしね」
 エリィを誘って二階に上がる。踏み締めるたびに足元の木がみしりと軋んで音を立てた。階段の中腹には一度補修した跡があるものの、新しく木を打ち付けた釘さえもう錆びていた。不器用に取り付けられていた手摺りはとうに落ちて、孤児たちの椅子に再利用されている。その椅子もこの間二つが壊れたばかりだ。家のどこも限界が近く、もう立て直す他にないような有様である。
 アルスは貧困とまでは言わないが、裕福ではない。日々の暮らしに困窮するほどではないが、加えて何か大きな出費ができるほどでもない。榎家の診療所は患者や孤児からお金を取らないからだ。行き場がない人の為に無償の愛を、それがこの診療所の決まりだった。一人立ちが出来るまで面倒を見て、その後少しずつだけ援助をしてもらう。
 それでも個人にまでは回ってこないため、アルスはたまに双蛇党に赴いて働き、あるいはベントブランチでピアノを弾いて小銭を稼いだ。それで本を買っては読んで代々の本棚に加える。そうやって癒しの術を学んできた。この状況では当然、家の補修になど回せるわけがない。
 ――そんな家の中で、唯一その祭壇の周りだけがよく手入れされている。
 エリィが感嘆の声を上げた。
「相変わらず、とっても綺麗に整ってるんだね」
「まあ、うん、日頃からお世話になっているからね。手を抜きたくなくて」
「榎も喜んでるみたいだよ。なんだかあったかいもの」
「そうかな。ん、そうだといいな」
「そうだよ! 絶対そうだよ。そういう気持ちは伝わるものだと私は思うな」
 うんと頷いて、アルスは榎の枝をそっと撫でた。アルスにとってそれは、家族のもう一つの姿だ。祭壇すぐ横の細い窓からは榎の枝が家の中にまで伸びている。それを毎日、光が当たるように天窓を磨き、枝を優しく布で拭って、月光を浴びた聖水を供えていた。雨の日も枝がある窓をしめなかった。窓を閉めるには枝を切るほかになかったからだ。アルスはそれをよしとしなかった。
 そこを整えるのはこの代ではアルスの務めだった。父も母もそこまでは手が回らず自然と任されるようになった仕事だが、半ば押し付けられた事は微塵も気にならなかった。そんな事よりも、祈りの場が埃まみれになっている様はどこか寂しく、それが心に深く刺さった。優しく自分たちを包み込んでくれるこの木に、その祈りの場としての祭壇に、なにか応えたくなったのだった。そして榎はいつだってそんなアルスを見守ってくれている。
 だからこそ、永く側にあって欲しいと思う。
 ステンドグラスの柔らかな光を浴びながら、アルスはそっと目を瞑った。静謐な気配の中に焦燥が混ざったような感覚がある。榎から伝わってくるどこか急いたようなエーテルの脈拍が、アルス自身の鼓動と重なってその速さを増した気がした。朝よりも酷い、おそらくもう余り時間はない。
「でも、絶対このままにはしない」
 アルスは指を榎に触れさせたまま、自分のエーテルを表層へ手繰り寄せる。途端、隣にいたエリィが顔色を変えた。
「ちょっと、アルス! それはだめ、だめだよ!」
「だめじゃないよ、僕なら大丈夫」
「何が大丈夫なの! 私の言ってること分かってないでしょ! もう限界だよ、それはアルスだって」
「守らないといけないから、大丈夫だから――ね?」
「アルス!」
 エリィの必死さを帯びた悲鳴にまたひとつ微笑んで、アルスは己のエーテルを榎へ移動させる。すると余程枯渇していたのだろう、思っていた以上の量が引き出され、同時に、体の奥にあったものが冷えていく感覚が立ち上る。目の前が暗くなり、視界が回る。だがそれだけだ。これくらいの事では壊れない。それよりも、守らねばならないのだから。
 概ねは考えていた通りだ。こうなることはある程度予想できていた。ただ、エリィが隣にいるので小瓶を使えないことだけが難点だった。エリィの前でこの様を見せたのは初めてだ。そしてこれからも見せる気はなかった。
一日に二度供給したこともない、正直あまり自信もない。その意味を理解している。夢が限界を迎えようとしている、その現実をまた夢で塗り替えねば。僕も、君も、そろそろ、もう。
 靄がかかったような思考の中で、アルスであってアルスでない者がぽつりと呟く。そしてアルス自身は耳を塞いだ。理解してはいけない。そう、アルスの全てがここにあるのだ。満ちる優しさは陽だまりと相違ない。いずれ自分も器にそれを満たすだろう。この幸せだけは何としても守り抜かねばならない。
だから、大丈夫。僕は、大丈夫だから。
アルスは榎から指を離し、軽く頭を振った。走り抜けた頭痛に一瞬顔を顰め、すぐにそれを押し殺す。ほら、ね。大丈夫、まだ笑っていられる。
「ん……っ、ぼくは、大丈夫、だよ」
 だがエリィは険しい顔でずっとこちらを睨みつけていた。並の者であれば泣いて逃げ出しそうなほどの威圧感だ。彼女の瞳の奥にあるのは怒りと悲しみだった。それは彼女がアルスに笑いかける時、常に押し殺されてきたものだった。アルスはそれを知っている。
「この頑固者、分からずや。本当に戻れなくなると言っても聞かないのなら、一度現実を見ればいい。どうせもう保たない」
「……、そうかもしれないね」
 その底冷えする言葉とは裏腹に、彼女は律儀にも物資を集めてくれる。優しい彼女もまた家族だ。そうやっていつも支えてくれるのだった。
 何はともあれ頭が割れそうだが、これは本来アルスの仕事だ。榎が僅か持ち直している間に済ませてしまいたい。
 すぐ手元の瓶を手に取った。クリスタルと硝子で出来た精巧な装飾の瓶に、並々と注がれた聖水。そこにもまたアルスのエーテルが満ちている。花緑青の光。それは普段よりずっと手に重く感じた。
「さあ、いこうか」
 声かけに返事はなかった。それでも気にせず階下へと向かう。それなのに、ああ、動き始めるとすぐ体が限界を訴え始めた。いつもはしばらく休むが、啖呵を切った手前今更蹲ることなど出来ようもない。ここから先はもう時間が経てば経つほど酷くなる。早く終わらせてしまう他にない。
 大丈夫、胸中で繰り返す。唱えるのに、一歩踏み出すたびにもう足が持ち上がらないような感覚に襲われる。吐きそうだ。
軽く咳き込めば手の平に赤が咲く。ああ、正直もう懐の小瓶を割ってしまいたい。だがエリィの気配が後ろから付いてくる。
 なるべく素知らぬ顔をして歩くしかなかった。硝子を握りしめる指先が冷たい。血の気のないそこから力が抜けていく。視界が暗い。もしかして、だめ、なのかもしれない。分かっている。さすがに、やりすぎた――。
「ぁ――、」
 息苦しさに掠れた声が乗った。ふわりと体が浮いて、それから急激に重くなる。視界が揺らぐ。視線をやった先の足元が、透明になってぶれ始めた。だめだ、これではもう保たない。それでも、守るから、なんとかしてこの場を縫い直さなければ。
 もう自分が何を考えているのか、既にアルスは理解していなかった。内と外二つのアルスが溶けあって夢を侵食していく。景色が歪み始めるが、それが体調によるものか現実の光景なのかすら判別できない。
「アルス!」
 遠くなる、と思った時にはもう落ちていた。階段を降りている途中だった。補修跡の所かな、また穴が空いてしまった?
 宙空に投げ出された体には、浮いているかのように感覚がない。何もかもが遠ざかっていく。それでも意識だけは見上げた解れへと向かっていた。
 ……だめだったのかな、次はちゃんと木工職人を呼ばないと。むしろそろそろ、思いきって全体を改築してもいいかな。でも取り敢えずこの穴だけは塞いでしまわないと――。
 指先を天に伸ばす。補修箇所へ向けて真っ直ぐ。さあ、紡ぎ直そう。この甘美な夢を、再び。
 エリィが叫ぶ。無視に徹しきれなくなった彼女が、テンパランスを使って光を振りまきながら飛び降りてくる。
 同時に、アルスの指先で星がきらりと瞬いた。花緑青の星が満天に咲く。瞬時に溢れかえった光が全てを覆わんとし、しかし途中で霧散してしまう。ああ、だめ、守るって、決めたのに。僕の世界が消えてしまう。だめ、お願い、ねえ。
 ふわり、百合が香る。幻の木苺が遠ざかり、やがて。

それを止めに意識は闇の中へ溶けてゆき――。


 わかっている。本当は分かっていた。ただ理解したくなかっただけだ。
 ごめん、エリィ、僕は歩き続ける事が出来なかった。

僕は英雄という責務から、逃げ出したんだ――。







 忘れもしないあの日。あの日は、父と母の結婚記念日だった。エリィが家をでてから、そう経たない頃の話である。
 その年は何か特別なことをしたいと考え、一人でベントブランチまで歩いたのをよく覚えている。連日手伝いをして小銭を稼ぎ、最後は花を買って帰ろうと計画していたのだ。
 当時のアルスはまだ十五にも満たず、贈り物をするだけの余裕もなかった。まずは働かねばならない。
 幸いにもピアノを弾くことはアルスのちょっとした特技でもあったので、働き口には困らなかった。選んだのは宿だ。好意で三日泊めてもらい、夜は一晩中小さな酒場でピアノを弾き、時には歌った。家族が愛した曲だった。
 そこにはただ愛だけがあった。きっと喜んでくれるに違いなかった。愛には愛を。家族からのそれに報いる術を、アルスは他に持たない。
 アルスにとって家族は何よりも大切な宝物なのだ。慎ましやかだが穏やかな日々だった。アルスはあの時間が好きだ。少々そそっかしいが明るい母と、寡黙だが優しい父。誇らしいほど素晴らしき家族。

 ――そんな日々が突然終わりを告げるなど誰が思うだろう。

 最近この辺りは物騒だから、気をつけて帰るんだよ。
 あの日、ついに念願の花を購入したアルスに、親切な酒場のマスターはこう警告した。アルスはこてんと首を傾げた。マスターが言うことには、最近夜盗が出て、ベントブランチの隅の家が焼かれてしまったらしい。生き残ったものがおらず犯人が不明のままで、捕えるのに苦労しているのだそうだ。
 そうは言っても、アルスが向かうのは森の中で、家もないのに金品があろうはずもない。自分が襲われることはまずないだろう。
 アルスはそう気楽に考えて帰路についた。花いっぱいのフラワーバスケットの中に、赤いリボンのブーケが二つ。途中で立ち止まり、バスケットの隙間には木苺を詰めた。きっとこれで母が得意のパイを焼いてくれるに違いない。父はあまり顔に出さないけれど甘いものが大好きだ。帰ったら皆でテーブルを囲んで、それから。
 そうするうちにだいぶ日が落ちて、周囲には夜の気配が満ちていた。背後には星が瞬き、進む先の空はまるで燃え落ちる寸前の炎のように赤い。
 家のほど近くまで来た時、アルスはそれが例えではないことを知った。
 風がふわりと駆け抜けて、何か焦げたような臭いが鼻をついた。森で火事でもあったのだろうかと、アルスは慌てて駆け出し、そして。
 榎の作る平野に辿り着いたところで、目を見開いた。
 ――アルスのなによりも大切な場所が、燃えていた。
 そこから先のことはよく覚えていないのに、その光景が脳裏に焼き付いて離れない。
 家族を呼びながら家に走り寄った。家はもう半分以上燃えていた。人が逃げた痕跡はなかった。それどころか、肉の焦げる嫌な臭いが満ちていた。アルスは炎に構うことなく家の中を捜索した。無意識に落としたフラワーバスケットの中の木苺に火が通り、甘酸っぱい匂いがそこに加わる。
 こんなはずでは、こんなはずではなかった。
 かろうじて形を残すダイニングに皆がいた。子供たちも両親もいた。ご馳走だと思わしき黒い塊もあった。赤くて、そして黒かった。
 誰もが一様に胸を切り裂かれて出血している。炎に近いところに倒れている子供はもう見るに耐えない状態だ。そして子供たちを庇うように倒れた父と母もまた。
 アルスの喉から叫びが迸った。天をも貫く慟哭。なぜ、どうして。慎ましやかに生きてきた。それで行き着く先がこれなのか。なぜ、どうして。
 ブーケが完全に燃え落ちる。もうこうなっては、供花となんら違わなかった。

 アルス自身がそこからどう生きて保護されたのか、それはもう覚えていない。数日は呆然として過ごした。起こった事実を理解することが出来なかった。
 アルスが自分を取り戻したのはおよそ一週間後、犯人の足跡が掴めたと言う一報によってだった。その後同じような被害が相次ぎ、手配が強化されていたのである。
 その名前を聞いた時、アルスは怒りに震えた。以前面倒を見た患者の名前だった。榎の診療所は相手を選ばない。夜盗だろうと重傷者は手当をし、分け隔てなく看病してきた。
彼はそこに家があることを知っていたのだ。知っていてそこを狙ったのだ。何ということだろう。なんで、こんな、こんな仕打ちがあっていいはずがない。
 アルスは弓を握って討伐隊に立候補した。危険だと言われたが、周囲の獣を狩って実力を認めさせた。アルスは榎直系で一番能力に優れていたので、家族を守るために武器を取ることは珍しくなかった。その弓で、アルスは初めて人を殺した。タムタラの墓所近くまで追い詰め、憎悪を込めて放った矢がとどめだった。
 そこから先のアルスは虚無だった。家は燃え落ち、榎も半分以上が炎にやられていた。その榎の根の隙間に身を寄せて眠り、喪ったものと摘み取った命について考えた。
 騒ぎを聞きつけたエリィがアルスを見つけるまで、アルスはずっとそこで眠っていた。それはアルスにとって、永遠とも刹那ともとれる時間だった。
 目を覚ました時、アルスの答えは決まっていた。エリィのように冒険者になろうと思ったのである。その時から、本当はアルスとエリィの世界は分たれていた。エリィの話す未来の話が聞こえないのはその為だ。
 そうして、アルスは光の戦士になった。走り続け、気が付いたら英雄と呼ばれていた。
 アルスにとって、英雄である事は責務だった。こんな理不尽が許されるはずがなく、こんな理不尽がまかり通る世界がただただ悲しかった。霊災の傷跡の残る地で誰もが咽び泣いていた。変えたかった。それはけじめだと思ったのだ。
 ただその時、立ち上がる代わりにアルスは大きな魔法を一つかけた。心の傷をほじくって思い出を取り出し、その思い出を現実にする魔法だった。
アルスがそこにいる時に限り、榎とアルスの家族はそこに存在する=B
 アルスは辛いことがあるたびにそこへ帰った。その魔法はアルス自身すら謀り、あたり前のように甘美な夢を見せてくれた。ただし、アルス自身の命を代償にして。
 アルスにそれが出来たのは、榎家直系の特殊体質故である。榎家の人間の体が弱いのは病気によるものではない。生命を成すエーテルが、常時体から零れ落ちていることに起因するのだ。
 その事実にアルスだけが気が付いた。家族の、自分の体から流れていくエーテルの細い糸を視る事ができたのは、一族でアルスただ一人きりだったのである。
 この流れは止めることができないが、使用する魔法の威力をその分上昇させるという仕様だった。アルスはそれを、ファイアで焚き火を起こそうとした叔父がファイジャで丸焼きになった時に知った。
 管理できない人間にとって、この特性は非常に厄介だ。アルスは色が似ているパイナップルジュースにエーテルを混ぜ、極力高頻度で家族に飲ませた。診療以外では魔法を使わないように警告した。家族の体調不良はそこから減った。
 そのアルス自身は成長するにつれて身体が丈夫になっていった。零れ落ちる量に対して、体が保有するエーテル量の割合が増えたためだろう。その頃からアルスは独学で、上乗せするエーテルの量を増やす練習を始めた。体に負担を強いれば強いるほど、強大な魔法を使えることがわかった。
 冒険者となってからもそれはアルスの大きな武器だった。日常的にエーテルの小瓶を割りながら敵を倒した。
寿命は縮むばかりであったが構わなかった。結果には必ず原因があり、その因果は切り離せない。代償とはそういうものだと理解していた。
 そしてその力で夢を織ったのである。
 エリィはこの茶番に黙って付き合ってくれていた。ここの所特に体調が悪かったのは、甚大な負荷のかかる魔法を発動し続けてしまったせいだ。エリィは全てを承知して警告していた。それでも夢に縋ったの自分自身で、つまり自己責任だ。普段のアルスならすぐさまそう判断し、それが己であっても容赦なく切り捨てて進んだだろう。
 しかし夢はアルスをも騙す。それそのものが目的なのだから。そして、夢は極度に追い詰められた心に因るのだ。
 今回アルスが夢にこもったのは、仲間達が次々と倒れていく姿に、刻まれた深い傷が開いたせいだ。戦場の炎と地に伏したその姿。アルスは血液が沸騰し、凍りつくような衝撃に見舞われた。息が出来なくなり、世界が歪んで、それから。
 ――それから。
 その時自分がどうなったかは分からない。ただ、燃えていた。黒の世界の中で赤く炎が燃えている。その向こうに倒れる人影。脳裏に焼き付いて離れないこの光景。
 いなくなってしまう。またみんな、居なくなってしまう!
 木苺が燃え尽きる。甘酸っぱい匂いが焦げ付いていく。そんなの、耐えられる訳がない。
 だからアルスは逃げ出して、また魔法をかけた。己の全てをかけて、あの日々をこの手にと願ってしまった。戻るのが恐ろしく、現実に耐えきれず、夢に酔ってしまった。それこそ、エーテルが尽きる限界まで。
 今回エリィは、潮時と見て忠告に来たのだろう。わかっている。本当は分かっていた。ただ理解したくなかっただけだ。こんな事はなんの解決にもならない。解決したいのなら立ち止まってはならない。そう、たしかに潮時だったのだ。

 解け、醒めてしまった夢。動き出した運命の歯車。
 もう、目覚めなければならない――。




「ほら、起きて」
 それはまるで、普段と同じ朝のように。
 エリィの声、それからぱりんという軽やかな音とともにアルスの意識が浮上する。アルスは小さく呻いた。身体中が痛む。どうやら自分は生きているらしい。
 瞼を震わせると、難しい顔をしたエリィがこちらを見下ろしていた。随分と心配をかけてしまったようだ。
「おはよう。どう、スーパーエーテルを一気に五本も飲まされた気分は」
「お、はよう。あと、三本は欲しいかな……」
 息を整えながらアルスが答えると、エリィは心から呆れたという顔をした。肩まですくめられる。
「まったく。こんな魔法を使いながらエーテルがばがば飲むんじゃしんどかったでしょう。量で誤魔化せばいいってものじゃないんだから」
「……ん、正直、助かった」
「お礼なら榎に言いなよ」
 その一言ともに彼女が視界から一歩引く。現れた景色に輝きはもうなかった。アルスが限界を迎えた事で夢も解けてしまって、焼け落ちて風化した家屋の残骸と、辛うじて生きている榎があるのみ。残酷なまでの現実がそこにあった。
「あの聖水。魔法の核にしていたでしょ。あれね、アルスが落ちた時すべてアルスの上にかかったんだ。アルスが大切に蓄えてきたエーテルを、その命のために榎が返してくれたんじゃないかな」
 だから元通り、そうじゃなければ死んでいたよ。エリィが呟いた。アルスはもうどうしようもなくて、泣き出したい気持ちを苦笑に溶かして俯いた。
「たしかにエリィの言う通りだ。僕らはもう限界だった。榎も、そして僕も、もう保たなかった。潮時だったんだろう」
 立ち上がり、目を瞑る。まだ頭は痛むが、倒れ込むほどではない。エリィが持ってきたエーテルはあれで全てだろうから、自前の小瓶でも割っておこう。
 アルスは自身にかけられていた最後の夢を解放した。どこにでもいるミコッテの若者の幻想が溶けていく。普段着の白く染められたレベルコートが現れ、天球儀のグレードが上がる。
次いで、鞄の中身が本来のそれに戻った。これでアルスにかかった魔法は日常生活に要するものだけとなってしまった。その姿はもう、力なき民間人のそれとはいえなかった。アルスは現実に帰ってきてしまったのである。
 アルスはその鞄から追加のエーテルを取り出して無造作に割った。ぱりん。砕け散り小瓶が光に溶ける。何度繰り返してきたか分からない動作だった。エリィはもう何も言わない。
 見上げた榎も、また。
「僕の全てがここにあった。満ちる優しさはお日様のようで、いずれ自分もこの場所にそれを満たすだろうと思っていた。この幸せだけは何としても守り抜かねばならないと、そう誓った。けれど、全てはもう僕の思い出の中だ」
 アルスは歩き出す。辛うじて燃え残っている榎は森側にあり、そこには苔むした木製のピアノが一台鎮座していた。
「何度その炎が燃え上がっても、星がいくつ流れても。僕はまだ生きていて、守りたいものがある。なら、いつまでも逃げてなんていられないよね。こうやって背中を押しに来てくれる人もいるんだから」
 だから、しがみついてきた思い出を還してやらねばならない。もう眠らせてあげよう。あの日の夢も、あの日の悲鳴も。
 アルスはピアノに指を置いて、歌を紡いだ。家族が愛したあの歌を。
 旋律が空に溶けていく。榎が、家屋が、光の粒となり天へ昇っていく。風が吹いて、周囲の花々がその花弁を散らした。木苺が揺れて甘い香りが鼻腔を擽る。自身の纏う香水は百合。高潔に咲く供花。すっかり日の落ちた空には星が瞬き始め、その列にアルスの思い出が加わる――。
「エリィ。僕は行くよ」
 振り返ってそれだけ告げる。エリィは何も言わず、ただ頷いた。その目には信頼が宿り、微笑みが浮かんでいた。
 アルスは彼の地へ背中を向けて歩き出した。
 そうしてやっと、アルスはその思い出に墓標を立てたのである





 エリィは前を歩く背中を見つめる。アルスはチョコボにも乗らずグリダニアに向けて歩いていた。エリィはそれを、気持ちを整理する時間なのだろうと判断して見守っている。
 現に、落ち着いてきたのがまた一周したのか、未だ残る頭痛と自分の醜態に彼が苛々しているのが伝わってきていた。とても珍しい姿だ。彼は基本的に怒りを表に出さない。つまりは、余程恥ずかしいのだろう。
 しかし、そこまで自分を責めるような事もないとエリィは考える。彼はとても真面目な性格なので気にするだろうが、彼の物語の経過時間はこの重なり合う部分の時間に影響しない。世界とはそういう仕組みになっているからだ。ここで過ごした時間がまた物語を紡ぐ活力になるのなら、寿命の事を考えないとすれば何の問題もないだろう。
 それに加え、アルスが夢で燻っていた事はともかくとして、エリィは魔法そのものについては高く評価している。まだアルスの知るところではないだろうが、あれはほぼ創造魔法だ。
己が知るものを頭の中から引き出して具現化する。彼の魔法はひどく限定的で脆かったが、あの場に家族は確かに生きていて、時間までもが進んでいた。それは幻というよりも、アーモロートのそれに酷似しているように思われた。
 ああ、そこにたどり着いたとき、彼はまた打ちのめされるだろう。その時にアルスを支えてくれる者が、一人でも多くいてくれたなら。帰る場所が彼にまた出来たなら、そうすれば。
 そんな事を考えていたエリィの視界の隅に、新米の冒険者が飛び込んできた。トレント・サップリングに追いかけられて傷だらけだ。実力に見合わぬ敵をうっかり引っ掛けてしまったのだろう。
 エリィは助けようと杖に手を伸ばしたが、それよりもアルスの方が早かった。
 アルスが無言で指を向けた途端、威力の増大したコンバガがモンスターに着弾する。瞬時、敵の姿が溶けた。次いで、彼が傷付いた旅人に指を向け変えると、アスペクト・ベネフィクで全快し強固なバリアが張られた。何が起きたか分からない旅人がきょろきょろとあたりを見回し、また走り出す。
 仄かな星の光は、燃え上がる命の悲鳴に他ならない。
 それにしても本当に燃費の悪い能力だ。エリィはアルスを見上げる。
 一言も発せず、結果に視線をやって確認する事もなく、ルーシッドを炊きながらまたエーテルを割るその姿。ちらりと見えた瞳の奥には獰猛な獣の気配すら棲まわせている。
 光の戦士、アルス・セルティスの背中がそこにあった。
 いやしかしこのアルス、恐ろしく機嫌が悪い。
 エリィは一歩引いた。普段は表面上穏やかさを保つ彼だが、その内側には苛烈な光を秘めている。怒らせると本当に怖いのだ。冷たい声で理を鳴らす彼の事を絶対に敵に回したくないので、エリィはなるべくアルスを怒らせないようにしている。
 美人が怒ると怖いんだよ、これはほんとなんだよ。
 エリィは一つ頷いて思考を戻す。そう、あまり思い詰めるのも良くないだろう。なにか夢中になれるものがあればいいと思う。英雄としてのアルスではなくて、その外で追う事の出来る何か。彼がアルス自身でいられるようにするための。
 それが、エリィの引き出しの中に一つある。
 エリィはアルスを見上げた。実のところ、本当の用事はこれからだ。
「ねぇ、アルス。アルスはこれからやってみたい事ってある?」
「え? ううん……。特には考えてなかったな。せっかくバイクを買ったしそれは乗りたいと思っているけど」
「ああ、あの大きいやつ」
 エリィはそれを知っていた。結構な金額になるが、森の青年としてではなく英雄としてのアルスなら充分購入可能だったのだろう。あれなら乗り回して何処へでも行ける。エリィがアルスを嘘つきと詰ったのはその存在故だ。
「あとは何かないの?」
「そうだなぁ。僕はずっと前だけ見て走ってきたから、冒険者の友達がいないんだ。友達っていえるのは幼馴染の萬里だけだし。だから新しい友達がほしいな」
「他には?」
「え、まだ言うの? そうだな……落ち着いたら、僕の家を持ちたい。そこで小さな診療所を開けたらもっといいかも。常駐は難しいけれど、守る場所が欲しい。家族、とか……。まあでもやっぱり、まずは久しぶりに萬里にも連絡をとるよ。あいつが他で迷惑かけてたらいけないし」
「よし、わかった」
「な、なにが?」
 困惑するアルスの前でエリィは鮮やかに笑んで見せた。君はね、世界を守るものだけれど。世界もまた君を愛しているんだよ。
そう、世界には自分の居場所がなくてはならない。広がる世界、繋がる世界。その中に咲く、花緑青の星。
やはり冒険は友なくして始まらないのだ。そしてそれは、運命の中だけに限らない。それを教えてあげたい、そう願う。
「あのねアルス。やっぱり英雄稼業の他にもやりがいって必要だと思うんだよね。アルスには笑っていて欲しいし」
「え? ああうん、ありがとう?」
「だからさアルス」
 辛かったら一度立ち止まってもいい。そこに、肩を組んでくれる友達がいたら最高だ。どうか笑っていて欲しい。そしてもし出来ることなら、その物語を綴り終える、その時には。
 だから。
「だから、アルス。会いに行こうよ。私たちの友達に、同じ運命を生きる英雄たちに、そして大切な誰かに。世界の枠を飛び越えて、重なり合う時間の、その外側へ」
世界は繋がっている。その時間は重なり合い、しかし同一にはならない。己の世界を生きる英雄たちは、一度その物語の席を立てば、何処にでも居る冒険者となれるのだ。
その気軽さを、その尊さを、また世界の中へ歩み出す貴方に知って欲しい。
その煌めきを、どうかこの先の過酷な運命の中で、生きる糧にして欲しい。
譲れないものをその手の中に握り込んで生きてくれるのならば、それはきっと。
「――そうだね。僕はこれからやっと、前を向いて世界を歩けるんだ。だから、きっと」

どうか、この遣る瀬無い世界が優しくあれますようにと。かつての誓いからもう一歩、その先へ。




 アルスは部族から遠く離れ、占星術を継いで姓に榎を名乗り、密やかな診療所で穏やかに日々を過ごしていた。やがてその日々を喪ったが、また立ち上がり、エオルゼアの英雄として各地を飛び回り生きてきた。
 そんな日々がこれからも続いていくはずだった。けれどきっと、この先の運命は昨日と違う。
閉じられた世界が開いていく。
星の輝く空が広がり、繋がり、遠くに夜明けが僅か光る。
そして孤独な星の隣に、いつか光が、ひとつ、それからもうひとつ――。


世界はまたその歯車を回し始めた。
星が流れ、暮れゆく空に新たに煌めく。
思い出は追憶になり、音色は森に溶けた。
けれど此処から新たに芽吹く物語があるのなら、重なる唄は何処までも高く響くだろう。



未だ明けない闇の中、その星は夜空で高潔に煌めく。

これは、とある英雄が紡ぐ運命――
その序曲の、終わりの一節である。




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[mokuji]











 


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