刻まれるもの、夢をみる人。
フィニス・カルデア。その白く無機質な廊下が、穏やかな日常を見つめている。 例えばそれは少年と少女の純真な瞳。あるいはそれは死せる英雄の夢の続き。 それは人類史の焼却という危機の前では余りに幸福で、無神経で、残酷な時間であった。 しかしその日常は騒がしく、それ故に彩りに満ちていた。 件の廊下を全速力で走る医者を夢魔が軽々と追いかけている……そんな日だって、あったのである。 「待ってくれよぅ、ロマンくーん!」 「待つわけないだろ! ていうか、なんでお前は追いかけてくるんだよ!」 ピンクブロンドの髪を揺らして逃げる医者を追いながら、感情がないと自称する夢魔は実に楽しそうに笑う。走りながらも両者の息はそこまで乱れていない。医者は一応体を鍛えていたし、夢魔の方は言うまでもないだろう。 「そりゃあ逃げられれば追うとも。追われたくないのなら足を止めればいいんじゃないかな?」 「ふざけんなこのロクデナシ! ボクが止まったらお前それ使うんだろ!?」 「そのために追いかけいるんだからね。どうだい、そろそろ疲れただろう?その曲がり角で休憩してみては」 「やだね、ぜっったいに嫌だ! それはくらわないぞぅ! 何が悲しくて三十路のおじさんがウサミミなんか生やさないといけないんだ!」 夢魔の手の中には、可愛らしいスタンプが握られていた。これを肌に押し付けて魔力を流してやれば、刺青が刻まれると共に頭から耳が生えるという代物である。 つまり、人類の叡智が詰め込まれたその場所で、その天才は優雅に微笑みながら今日も災厄の種を振り撒いているという事だった。 「絶対に似合う、大丈夫私が保証するよ! だからその腕に一押し、ネッ?」 「うっわ気持ち悪! お前気持ち悪! なんだその媚びた顔、どこから仕入れてきたんだそんなの!」 「気になるかい?いいとも教えてあげよう。これは君が厨房でデザートを強請っている時に仕入れたものだよ。――お願いトッピング全部のせして! あとでちゃんと運動するから……ネッ?」 「うそだろ最悪だ……えっボクこんな顔してるの?ショックなんだけど」 「できれば人の顔身を見ながらへこむのはやめて欲しいかなぁ! というか君、前を見ないと転ぶぞぅ」 夢魔は追いかけながら片目を瞑ってみせた。それを見た医者が目を剥く。走りながら振り返るなんて器用なものだと、夢魔は密かに胸中で呟いた。 長く続く白い壁、冷たくのびる廊下。二人がそこを駆けていく。緩やかな曲線を描くその場所で、逃走劇に変化を起こしたのは夢魔の方であった。 「でっ」 それは、医者の根気に勝利の天秤が傾きかけた頃合いであった。二人の間の距離が離され、医者が逃げ切りそうになったその時のことである。 「あたたた……久しぶりの運動は応えるねえ」 音を立てて夢魔が地に伏した。その姿勢のまま、起きがありもせずに呻く。その足元の床は少々抉れていた。ここは丁度、英雄王と無銘の弓兵が小競り合いを起こしたばかりの地点だった。英霊同士の小競り合いもまた、この廊下の日常風景の一つである。 そんな夢魔の様子に医者が気付く。夢魔はその彼を見つめる。 「――まったく、仕様のない子だ」 地に伏した夢魔を確認した医者は、拍子抜けするほど簡単にその足を止めた。よく動くその表情筋を静かな微笑みに変え、踵を返す。その笑みは穏やかで、どこか嘗ての魔術王を彷彿とさせるものがあった。 夢魔はそれを見て胸に突っ掛かりを覚えたが、その意味はよく分からなかった。ただ、意識を向けた先の医者の感情の中に慈愛という名の感情を感じ取る。千里眼の未子――いま一度の幻を見る夢魔にとって、それは十分すぎるほど甘やかな、ある種劇物と相違ないものであったのだった。 だから夢魔は、差し出されたその手を思い切りつかんだ。そのまま引き倒して、仮初の幻、しかし確かに存在するいまや人間となった愛しい人を、だからこそ愛するその人を、冷たい床に押し付ける。 「っ、ちょっと、何するんだ! ボクは助けに来たのに、こんな仕打ち酷いじゃないか!」 「ははは、騙されたねロマン君。この私があんな程度のもので転ぶわけがないだろう? さあ、捕まえたよ」 「ええ! わざと!? 人が心配したって言うのに、こんなのあんまりだ」 うろうろと視線を彷徨わせる医者の腕を、夢魔は先程摂取した笑みを浮かべながら剥き出しにしていく。捲られた白衣、ほどよく鍛えられたその腕の上、そこへ。 「ん……ッ、ぅあ……、あっ!」 手に持った器具を押し付け、そこに向かって魔力を叩き込む。本来必要な量を遥かにこえて、胸の奥の何かが命じるままに。花の香りが医者を満たす程に。 「ひッ、ぁあっ、あっ、あああぁッ!」 医者の瞳が蕩け、魔力が駆け巡る体が弓なりに反る。その喉から悲鳴が迸ったその時、器具が音を立てて弾けた。中に込められていた紫色の宝石の破片が散らばり、流れるピンクブロンドと混ざり合う。その石は夢魔の瞳と同じ色をしていた。夢を見せるものの欲と憧憬が、叶えた夢の中でもがく夢のようなひとを包んで煌めいていた。 弛緩したその人の背中に片腕を回して半身を起こし上げ、夢魔はその手を恭しくとる。いつかの時代には夥しい魔術刻印、あるいは回路というべきもので覆われていたその腕に、居座る紫色の刺青。 浮かび上がるその兔を夢魔は見つめた。まもなくその効果が表れるであろう。しかし欲しかったものはそれではない。この腕に刻まれているのが、魔術王のそれではない事、ただそれだけの事実を確認したかったのだ。 その輝きをここに刻む意味を、医師も、夢魔も、本当の意味で知りはしない。夢魔は己の魔力の満ちる刻印をそっと撫ぜる。それをなさしめた原動力を知らぬままに、そのくだらない奇跡の痕跡こそが今この瞬間を確かに証明しているのだと、知らぬままに。それこそがほんの些細な日常の断片であるという、そんな痛みを刻みつけた。 そう、穏やかな日常はいつだってそこにあった。 件の廊下を全速力で走る医者を夢魔が軽々と追いかけている……そんな日だって、あったのである。
「君はいつだって先にいってしまう。ああ、そうか、そうだ。そうだったね」 いつの日にかわざと躓いて見せたその場所に、花の魔術師と名高い夢魔がただ独り立ち尽くしている。いくらそこで待ってみても、その人はもう振り返らないというのに。 そう、彼の隣に、花の香を分けたひとの存在はない。 そのひとは、夢をみれないひとであった。そのひとは、夢を叶えたひとであった。そのひとは、夢のようなひとであった。 夢魔ですら夢中にさせたその幻は、その中心にあったひとは、夢魔でさえ渡れぬ夢の向こうに消えてしまった。 「ああ……待って――僕を置いていかないでおくれよ、ロマニ」 フィニス・カルデア。その白く無機質な廊下は、ただ静かにその現実を見つめている。
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